第117話 速く振るな
水筒を半分ほど空けたところで、ようやく喉の渇きが落ち着いた。
腰掛けの隣には、さっき使った魔法書が置いてある。開いた頁には、全身を巡る線が変わらず残っていた。
少し休んでから、もう一度歩くのだろう。
そう思っていたら、目の前へ木剣が差し出された。
「持て」
顔を上げる。
ドランが柄の方をこちらへ向けていた。
「いいんですか?」
罠じゃなかろうか。
「持てと言った」
「振っても?」
「誰が振れと言った」
「まだ駄目なんですね」
「いいから持て」
駄目と言われたので安心した。木剣を受け取る。
少し離れたところで、エルザが何か言いたそうにしていた。
「大丈夫ですよ。振らないそうです」
「そこを心配していたわけではありません」
「違うんですか?」
「ノワールさんが、嬉しそうだったので」
確かに嬉しい。この世界に来てから、こうして考えていることを当てられることが増えた。向こうでは、何を考えているのか分からないとよく言われたものだが。何が違うのかは、自分でもよく分からない。
立ち上がり、いつもの位置へ移動する。
「身体強化は?」
「使うな」
「はい」
まだ使わないらしい。
足を置き、木剣を構える。
何度もやってきた形だ。最初の頃ほど、足の位置を一つずつ確かめることはなくなった。
「振れ」
踏み込む。
足を出し、腰を運び、木剣を振り下ろす。
「もう一回」
元の位置へ戻る。
同じように構え、もう一度振る。
「次」
三度目。
四度目。
五度目を振り終えたところで、ドランが木剣の先を俺の足元へ向けた。
「今、何を考えてた」
「何をって……」
振り返る。
足を出して。
腰を運んで。
肩を――。
「最初の二回くらいは、足と腰を」
「後は?」
「途中から、あまり」
「そうか」
それだけ言って、ドランが顎をしゃくった。
「強化しろ」
「はい」
待ってました。
木剣を持ったまま、身体の内側へ魔力を向ける。
さっき覚えた道筋へ流す。
一度、腕の辺りで引っ掛かった。
息を吐いて、もう一度やり直す。今度は身体の内側へ魔力が広がった。背中、腰、脚まで、いつもとは違う力の入り方になる。
「できました」
「構えろ」
言われた通りに木剣を上げた。
そこで少し違和感があった。
「……軽いですね」
「剣がか」
「たぶん、俺の方が変わったんだと思います」
木剣そのものの重さは変わっていない。
ただ、持ち上げるのが楽だった。
握った柄も、いつもよりしっかり手の中に収まっている気がする。
「振れ」
「はい」
踏み込んだ。
右足が前へ出る。
さっきよりは抑えたつもりだった。
そのまま腰を運び、木剣を振る。
ぶん、と大きな音がした。
剣先が思ったより早く下まで落ちた。
止めようと腕へ力を入れる。
肩が引かれ、身体が前へ傾いた。
右足をもう一歩出して、どうにか倒れずに済んだ。
「……速いですね」
「馬鹿」
「いきなりですか」
「誰が速く振れと言った」
「普通に振ったつもりなんですが」
「それのどこが普通だ」
ドランが、俺の木剣を指した。
「振り下ろしてから慌てて止めてる」
言われてみれば、その通りだった。
振り始めた時より、止める時の方が力を使った気がする。
エルザが少し離れた位置からこちらを見ている。
「ノワールさん。最後に右足がもう一歩出ています」
「出ましたね」
「さっきの歩く練習と似ています」
「ああ……」
足が余計に前へ出た時と同じだ。
身体強化を使った分だけ動きが大きくなって、その後から止めようとしている。
「もう一回」
ドランが言う。
「今度は、いつもと同じ速さで振れ」
「強くなってるのに?」
「だからだ」
「少しくらい速くした方が――」
「振れるようになってから言え」
「はい」
今のところ、何を言っても勝てそうにない。
元の位置へ戻る。
身体強化はまだ続いている。
足を置く。
腰を落とす。
木剣を構える。
いつもの速さ。
それだけを考える。
「振れ」
踏み込む。
右足が出る。
出すぎないように――。
「遅い」
ドランの声が飛んだ。
「あ」
考えたせいで、足が止まった。
腰も遅れる。
そのまま振ると、今度は木剣だけが先へ出た。
「止めろ」
振り切る前に戻す。
「今、何を考えた」
「右足を出しすぎないように」
「その次は」
「腰を合わせようと」
「その次」
「剣をいつもと同じ速さで」
言いながら、自分でも多いと思った。
ドランが鼻を鳴らす。
「全部別々にやるな」
「それができたら苦労してないんですが」
「だから稽古してんだろうが」
また同じ返事だった。
エルザが手を挙げた。
「ドランさん、私からもいいですか?」
「好きにしろ」
ドランは腕を組んだ。
「一回、身体強化を止めましょうか」
エルザが声を掛けてきた。
「まだ大丈夫ですよ」
「疲れたからではありません。比べてみましょう」
「ああ。なるほど」
魔力を流す意識を解く。
身体を巡っていた感覚が薄くなった。
「一度、いつも通りに振ってみてください」
「はい」
構える。
踏み込む。
木剣を振る。
さっきまでより遅い。
けれど、止めようとは考えなかった。
剣が下り、身体もそこで止まる。
「……こっちだと楽ですね」
「何がだ」
ドランが聞く。
「止めるのが、です」
「止めてねえ」
「え?」
「最初から、そこで終わるように振ってる」
意味が分からず、自分の足を見る。
右足はいつもの位置にある。
腰も前へ流れていない。
木剣も振り終えた場所で止まっている。
「もう一回やれ」
振る。
「もう一回」
振る。
「止めようとしたか」
「……してません」
「それを強化してもやれ」
簡単に言う。
だが、さっきよりは何をすればいいのか分かった。
身体強化を掛け直す。
全身へ魔力が回る。
木剣が少し軽く感じる。
足も、さっきまでより動きやすい。
だからといって、それに合わせて動きを変えない。
「振れ」
踏み込む。
一歩目が少し大きい。
そこへ腰を運ぶ。
木剣を振る。
速くしない。
強くもしない。
いつも通り。
そうしたつもりだったが、剣先はやはり少し早く下まで落ちた。
今度は無理に剣を止めようとせず、そのまま振り終える。
右足が半歩ほど余計に前へ出た。
「さっきよりましだ」
ドランが言った。
「今、褒めました?」
「ましだと言った」
「それは褒めたことには」
「次」
「はい」
エルザが顔を背けた。
ヴェラも口元へ手を当てている。
何がおかしいのだろう。
もう一度構える。
振る。
今度は右足を抑えようとして、また腰が遅れた。
「違う」
「はい」
戻る。
振る。
「肩」
「はい」
戻る。
振る。
「最後に力むな」
「はい」
戻る。
何度やっても、どこか一つ直すと別のところがおかしくなる。
身体強化を使っていない時なら、少なくともここまでばらばらにはならない。
「師匠」
「何だ」
「これ、身体強化を使わない方が強いんじゃないですか?」
「そうだぞ」
「即答ですね」
「使えないもんを使ってるんだから弱くなって当たり前だろ」
言われてみればその通りだった。
「覚えたばかりなのに厳しいですね」
「覚えただけで強くなるなら稽古場はいらん」
それもそうだった。
元の位置へ戻る。
木剣を構える。
さっきから、足、腰、肩、剣と順番に考えすぎている。
少し前に、ドランに言われたことを思い出す。
――お前はいつになったら、考えずに動けるようになる。
考えないで動けと言われても、今は考えなければ崩れる。
なら、考えることを一つずつ減らすしかないのだろう。
「もう一回いきます」
「勝手に終わろうとしてたのか」
「違いますよ」
「なら構えろ」
「はい」
足を置く。
木剣を上げる。
身体強化は維持できている。
ドランを見る。
「振れ」
踏み込む。
足の位置は考えなかった。
腰も考えない。
いつもの稽古でやっているように、前へ出て、剣を振る。
ぶん、と木剣が鳴った。
剣先が下りる。
身体が少し前へ流れる。
ただ、さっきのようにもう一歩足を出すほどではなかった。
「……どうですか?」
「肩が少し前だ」
「……そうですか」
「だが、足はさっきよりましだ」
自分の右足を見る。
いつもの位置より少し前。
最初のように大きく飛び出してはいない。
「今、足は考えてませんでした」
「なら次も考えるな」
「腰は?」
「考えるな」
「肩は?」
「考えるな」
「何を考えればいいんですか?」
ドランが俺を見た。
「俺を見ろ」
「師匠を?」
「剣を振る時に、自分の足ばっかり見てどうする」
言われて、黙る。
稽古なのだから、相手がいる。
今は素振りに近いことしかしていなかったから、いつの間にか自分の身体ばかり気にしていた。
ドランが自分の木剣を取った。
「次はこれに当てろ」
身体の前へ、木剣を斜めに出す。
「打ち込んでいいんですか?」
「一回だけだ。身体強化はそのままだ」
「はい」
「速く振ろうとするな」
「分かってます」
「本当か?」
「たぶん」
「駄目じゃねえか」
エルザの方から、小さく息が漏れる音がした。
俺は聞かなかったことにする。
構える。
目の前にあるドランの木剣を見る。
足の位置は考えない。
腰も考えない。
肩も同じだ。
目の前にあるのは、ドランの木剣だけだった。
「来い」
踏み込んだ。
木剣を振る。
乾いた音が鳴った。
俺の木剣が、ドランの木剣へ当たる。
思っていたより衝撃が強い。
けれど、足は前へ流れなかった。
振り終えた木剣を戻す。
そこで初めて、自分が身体強化を維持したままだと確かめた。
「……当たりましたね」
「見れば分かる」
「今のは?」
「力みすぎだ」
「駄目ですか」
「誰が駄目だと言った」
ドランが木剣を下ろした。
「もう一回」
「はい」
同じ場所へ戻る。
今度は、さっきより少しだけ柄を握る力を抜いた。
「来い」
前へ出る。
木剣を振る。
また乾いた音が鳴った。
今度は一度目ほど腕に衝撃が残らなかった。
「次」
三度目。
四度目。
五度目。
途中で一度、身体強化が切れた。
魔力を保つことを忘れていたらしい。
掛け直して、また構える。
さっきまでなら、そのたびに足の位置から考え直していた。
今は、とりあえずドランが差し出した木剣を見る。
「来い」
踏み込む。
打つ。
戻る。
「次」
もう一度。
打つ。
戻る。
「次」
何度目かを終えたところで、ドランが木剣を下ろした。
「休め」
「もうですか?」
「もうじゃねえ」
そう言われて初めて、息が少し上がっていることに気づいた。
身体強化を解く。
腕が重くなる。
ヴェラが水筒を持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取って、一口飲む。
「外から見て、どうでした?」
聞くと、ヴェラは少し考えた後に口を開いた。
「最初の頃は、振った後に足が動いていました。最後の方は、それが少なかったと思います」
「やっぱり最初は酷かったんですね」
「酷いとは申しておりません」
「優しい言い方をありがとうございます」
エルザも近くへ来た。
「身体強化は途中で一度切れましたね」
「はい。剣の方を見てたら忘れました」
「それも、今は仕方ないと思います」
「エルザさんは忘れないんですよね」
「今は、です」
「最初は?」
エルザは少し考えた。
「私も最初は全身に使っていましたけど、今は使い方を変えていますから」
「変えた?」
「必要な時だけ、短く使っています」
「そうでしたね」
「はい。ですから、全身の強化をノワールさんが覚えていくところを見るのは、新鮮です」
そう言ってから、俺の木剣へ視線を落とした。
「でも、さっきの方が自然でした」
「最後の方?」
「はい。最初は身体強化を使うたびに、ご自分の足や身体を気にしていましたから」
俺も木剣を見る。
最後の数回は、ドランが差し出した剣へ当てることしか考えていなかった。
身体強化が一度切れたのだから、うまく使えているとは言えない。
それでも、足と腰と肩を順番に考えていた時よりは動けた。
ドランが腰掛けの近くへ木剣を戻す。
「今日は終わりだ」
「もうですか?」
「腹減ってねえのか」
言われて、少し考える。
確かに減っている。
空を見ると、稽古を始めた時より陽が傾いていた。
「そんなにやってました?」
「陽の高さもわからなくなったか」
「集中してたみたいです」
「なら、その集中を足に使うな」
「どういう意味です?」
「明日も来い」
「説明は?」
「稽古で覚えろ」
やっぱり言葉で全部説明する気はないらしい。
木剣を戻し、鞄を持つ。
「明日も、剣でいいですか?」
念のため聞いた。
「歩くところからだ」
「戻ってません?」
「お前は先に進むと前のことを忘れるからな」
「俺のことを理解してくれているんですね」
「帰れ」
「はい」
板垣へ向かう。
後ろで、エルザが小さく笑った。




