第116話 歩くだけ
職人区へ戻る頃には、昼が近くなっていた。
石畳を抜けて稽古場へ向かう間も、鞄の中の魔法書が気になった。重さは大したことがない。けれど、腰へ角が当たるたびに、買ったばかりの本のことを思い出す。
「ノワール様、楽しそうですね」
「まだ何もしてませんよ」
「だからでしょうか」
ヴェラの言葉の意味が深い気がする。隣のエルザを見る。彼女は小さく笑っていた。
「最初は、歩くところからにしましょうね」
「分かってます。いきなり走ったりしません」
「剣も振りませんよ」
「……それも分かってます」
剣も振りたい。
稽古場の板垣をくぐると、ドランは庇の下で木剣を削っていた。俺たちの足音に顔を上げる。
「調べたのか」
「はい。適性を見てもらいました。普通だそうです」
「そうか」
「もっと何か感想はありませんか?」
「普通だったんだろ」
「そうですけど」
良かったなくらい言って欲しい。
ドランは木剣の表面を親指で確かめ、削り屑を払った。
「覚えるなら、そっちに見てもらえ。俺は面倒だ」
顎で示された先にいるのはエルザだ。
「……俺は面倒だということは、師匠も身体強化を使えるんですか?」
「使える。適性がありゃ、身体強化を選ぶ剣士は多い」
なるほど。それもそうか。
「だったら少しくらい……」
「使い方を一から教えるのが面倒だと言ってんだ。剣の振り方は見てやる」
「さぼりたいんですね」
「文句があるなら聞くぞ」
「ありません」
返事をすると、ドランは鼻を鳴らした。
エルザが稽古場の端にある腰掛けを指した。そこへ鞄を置き、魔法書と、ミラから渡された折り畳みの紙を取り出す。
「先に説明を確認しましょう」
「はい」
紙には使用前の確認と、習得の手順が簡潔に記されていた。魔法書を開いて記載を読み、指定された頁へ手を置く。そのまま魔力を流し、習得が終わるまで途切れさせない。一冊で習得できるのは一人だけらしい。
「これ、読み終わったら消えませんか?」
ゲームならきっと消える。
「え? 本が消えるってことですか? 消えませんよ?」
ヴェラが不思議そうに答える。当然の反応だ。本が消えるとか言ってる奴はおかしい。こういうところがヴェラに心配をさせてしまうのかもしれない。ごめん。
「……魔法の使い方も書いてあるんですかね」
「私は、身体強化を最初から使えましたので。魔法書に何が書いてあるか興味あります」
「俺もです。水魔法は最初からでしたし」
「私は治癒魔法を覚える時に使いました」
ヴェラが、開いた本へ視線を落とした。
「その紙に書いてある通り魔力を流して、終わるまで手を離さないようにしました。途中で少し気になっても、慌てず続ければ大丈夫です」
「気になってもって、何がですか?」
「いつ終わるのか、です」
「ああ。それは気になりますね」
俺なら間違いなく気になる。
説明をもう一度読んでから、魔法書を指定された頁で開いた。図には人の身体と、そこを巡る魔力の流れが描かれている。文章にも目を通したが、読み方を知っただけで使える気にはならなかった。
「ここに手を置けばいいんですね」
「はい。落ち着いて魔力を流してください」
右手を頁へ重ね、ヴェラの言う通りに焦らずゆっくりと魔力を流した。
紙の下で淡い光が広がる。頁に描かれた線が少しずつ明るくなり、指先から腕へ、何かが伝わってくるような感覚があった。
水魔法を使う時とも違う。魔力を外へ押し出すのではなく、自分の身体へ向けるための道筋が、順番に示されているようだった。
手を離さずにいると、光はゆっくり弱まり、やがて消えた。
「……終わりですか?」
念のため紙を見直す。エルザも本を確かめた。
「説明にある終了の状態と同じですね。何か変わりましたか?」
「使い方が、なんとなく分かるようになりました」
言葉にすると妙だが、そうとしか言いようがない。さっきまで文章で追っていた魔力の通し方を、今なら自分で試せそうだった。
手を離し、頁をめくる。文字も図も残っている。光っていた跡もない。
「本はこのまま使えるんですね」
「もちろん読めます」
ヴェラが答える。
「高かったので助かります」
エルザが笑った。
魔法書を鞄へ戻し、稽古場の中央へ出た。ドランはいつの間にか木剣を置き、こちらを見ている。
「まず、何も持たずに立ってください」
エルザの指示に従い、足を肩幅ほどに開く。
「身体の一か所だけを強くしようとしないで、全体へ通すつもりで。最初は強くしなくていいです」
「はい」
さっき覚えた道筋を思い浮かべ、魔力を流してみる。
うまくいかない。
何も起きなかった、というより、流し始めるところで引っ掛かった。水魔法なら迷わないはずの魔力が、身体の内側へ向かうところで止まる。
「どうですか?」
「まだ、うまく通せてない感じです」
「急がなくて大丈夫です。もう一度、最初から」
息を吐き、改めて魔力を動かす。今度は身体の内側へ魔力が広がり、腕も背中も、足元までいつもとは違う力の入り方をする感覚があった。
「……あ。今、通った気がします」
「では、少しだけ動いてみましょう。ご自分で維持できているかも確かめてください」
手を握って開く。足の裏へ体重を掛け直す。身体が軽いような気もするが、立っているだけではよく分からない。
「魔力は流れています。たぶん、維持もできています」
「なら、歩いてみてください」
右足を出した。
思っていたより足が前へ出る。慌てて左足を運ぶと、今度は歩幅が大きくなった。三歩目でようやく止まったが、いつもの位置より随分先にいる。
「……歩くだけで、これですか」
「いつもより大きく踏み出していましたね」
エルザが俺の足元を見る。
「魔力の感覚はどうですか?」
「まだ流しています。足だけじゃなくて、身体全体に力が入る感じです」
「それなら、今は歩幅を小さくしてみましょう」
後ろからドランの声が飛んだ。
「小さくするんじゃねえ。いつも通りに歩け」
「それが難しいんですが」
「だからやれ」
あなたの出番は剣を振る時ではなかったのですか。
俺は無言で元の位置へ戻り、もう一度歩く。今度は足を出し過ぎないよう意識した。すると、踏み出しは抑えられたものの、腰が遅れて上半身が置いていかれる。
「止まれ」
ドランが声を掛けた。
「足だけ気にするな。腰から上が遅れてる」
「身体強化って、足だけ速くなるわけじゃないですよね?」
「当たり前だ」
ドランは腰掛けから立ち上がった。
「魔法が全身でも、お前の動きが全身じゃねえ」
妙に納得できる言い方だった。
「いつもの稽古と同じですね」
「同じことを何度も言わせるな」
言われてみれば、普段から足と腰と肩を別々に動かすなと叱られている。身体強化を覚えたところで、その問題まで解決するわけではなかった。
「いったん止めてみましょうか」
エルザの声に頷き、魔力を流す意識を解く。身体を巡っていた感覚が薄れ、足元がいつも通りに戻った。
「止めました」
「違いは分かりますか?」
「はい。さっきまでの方が、少し力が入りやすかったです」
「もう一度、発動してみましょう」
今度は最初より早く魔力が通った。それでも、歩き出す前に全身へ行き渡るのを待たなければならない。動きながら自然に使えるほど慣れてはいなかった。
ゆっくり歩き、止まる。戻って、また歩く。
何度か繰り返すうちに、最初ほど大きく踏み出さなくなった。代わりに、魔力を保つことと足の位置を気にすることが重なり、普段よりずっと頭を使う。
「ノワール様、今の足跡は、先ほどより手前ですね」
ヴェラが地面を指した。乾いた土に残った跡を見比べると、確かに歩幅が少し戻っている。
「本当ですね」
「ただ、止まる時に少し身体が前へ流れていました」
「そこもですか」
「そこも、です」
エルザまで頷く。
「よく見てますね、二人とも」
「ドランさんほどではありませんよ」
そのドランが、稽古場の中央へ顎をしゃくった。
「いつもの踏み込みをやってみろ。剣は持つな」
「はい」
足の位置を決め、腰を落とす。魔力はまだ身体へ通っている。いつも通り、足を出して、腰を運んで、そこで止まる。
そう考えて踏み込んだ。
足が予想より先へ出た。腰を追いつかせようとして、今度は肩まで前へ流れる。慌てて踏ん張り、どうにか止まった。
「最後が流れた」
「どうすればいいですか?」
「自分の身体に聞け」
ドランが腕を組む。
「お前はいつになったら、考えずに動けるようになる」
「考えないと、足と腰がばらばらになるんですが」
「だから稽古してんだろうが」
「そうでしたね」
「いちいち足だ腰だと考えてるうちは、剣を振る前に相手に斬られるぞ」
返す言葉が見つからなかった。考えないで動けと言われても、今は考えなければ余計に崩れる。
考えずに動ける日が来るのだろうか。
「もう一回ですか?」
「その前に戻れ。今の位置から続けるな」
「はい」
足を戻し、構え直す。魔力の流れを確かめてから、もう一度踏み込んだ。
今度は歩幅を抑えられたが、止まった時に右肩が少し前へ残った。
「肩」
「はい」
「次」
短い指示に従い、また元の位置へ戻る。
三度目は足を置くところまでよかった。ところが、そこで魔力を維持する意識が途切れたらしく、身体を巡っていた感覚が消えた。
「あれ」
「どうしました?」
「今、切れました。足を止める方に気を取られて」
「それなら、もう一度掛け直す前に休みましょう」
エルザが言った。
「まだ続けられますよ」
「続けられるのと、続けた方がいいのは別です」
ヴェラが水筒を差し出してくる。
「まず、お水を」
「……いただきます」
受け取って口をつけると、思っていたより喉が渇いていた。
ドランは俺の足跡を見下ろし、鼻を鳴らした。
「魔法を覚えたからって、稽古が減るわけじゃねえぞ」
「増えた気がします」
「増やしたのはお前だ」
「困りました」
エルザが笑い、ヴェラも口元を緩めた。
腰掛けへ戻って魔法書を開く。習得に使った頁には、さっきと同じ図が残っていた。全身へ魔力を通す線を指で追い、稽古場に残る自分の足跡を見た。
朝までなかった力は増えた。扱う方は、朝のままだった。




