第115話 光るかどうか
〈鈍色亭〉へ戻ると、エルザとヴェラは食堂の端の卓にいた。
エルザの前には開いた手帳があり、ヴェラは湯気の残る杯を両手で持っている。リンはエルザの髪際で静かに揺れていた。
「お帰りなさい」
「ただいまです」
椅子を引く前に言う。
「身体強化の適性、見てきます」
エルザが手帳から顔を上げた。
「今からですか?」
「はい。ドランさんにも、先に見てもらえと言われたので」
「私たちもご一緒してよろしいでしょうか」
ヴェラが杯を置く。
「もちろんです」
「では、私も行きます」
エルザが手帳を閉じた。
三人で宿を出た。
◆
午前の冒険者ギルドは、依頼へ出る人間が一段落した後だった。
依頼板の前にはまだ何人か残っているが、朝一番ほど混んではいない。受付の奥では紙をめくる音と、木札を重ねる乾いた音がしていた。
空いた窓口へ向かうと、ミラがこちらに気づいた。
「おはようございます。今日は依頼ですか?」
「いえ。身体強化の適性を見てもらいたいんですが」
ミラの手が止まる。
「身体強化ですか?」
「はい」
「新しく覚えるおつもりで?」
「使えるなら」
そこまで言ってから付け足す。
「まだ適性があるかも分かりませんけど」
「そうですね。では、まず判定からにしましょう」
ミラは俺の登録票を確認した。
「ノワールさんは水魔法をお持ちですが、身体強化は別系統です。反応があれば、対応する魔法書を購入できます」
「光らなかったら?」
「身体強化は覚えられません」
「分かりました」
「少々お待ちください」
ミラが席を離れた。
奥の棚から厚い布に包まれたものを持って戻ってくる。布を開くと、両手で包めるくらいの透明な水晶玉が現れた。
台座ごと卓へ置かれる。
「こちらへ手を添えてください。普段、魔法を使う時と同じ感覚で大丈夫です」
「はい」
右手を水晶へ置く。
ひんやりしていた。
水魔法を使う時の感覚を思い出し、そのまま水晶へ意識を向ける。
最初は何も起きなかった。
透明なままの水晶が掌の下にある。
少し待つ。
やがて中心がぼんやりと明るくなった。
「お」
思わず声が出た。
近くの依頼板にいた男が、こちらを振り返った。その隣で木札を見ていた女も、水晶へちらりと目を向ける。
「身体強化か」
「普通くらいじゃない?」
小さな声が聞こえた。
珍しい見世物というほどではないらしい。それでも、新しく魔法を覚えようとしている人間がいれば、少しくらいは気になるようだった。
光はゆっくり広がり、それ以上強くなることなく止まった。眩しくはないが、見間違えるほど弱くもない。
「そのままでお願いします」
ミラが水晶を見る。
数秒待つと、光が薄れて消えた。
「もう大丈夫ですよ」
手を離す。
「どうですか?」
「適性はあります。反応は普通ですね」
「普通」
「はい。標準的です」
もう一度、水晶を見る。
特別強くも、弱くもない。普通。
悪くない。
「反応が強いと、身体強化も強くなるんですか?」
「同じ使い方なら、魔力を少なく使いやすくなります」
「消費が違う?」
「そうです。適性が低い方は同じ魔法を使っても魔力を多く使います。高い方は少なく済みます」
「燃費みたいなものですか」
ミラが少し考える。
「言い方は分かりませんが、意味は近いと思います」
「じゃあ、普通なら普通の消費ですね」
「だいたいは。ただ、上手に使えるかどうかは別ですよ」
「そこは別なんですね」
「はい。長く使っている方の方が、必要な時だけ使ったり、無駄を減らしたりするのは上手です」
それなら分かりやすい。
適性が高ければ、同じ魔力量でも長く使える。試せる回数も増える。
けれど、水晶が使い方まで教えてくれるわけではない。
「身体強化の魔法書はありますか?」
「ありますよ」
「買えます?」
「今の反応なら問題ありません」
ミラが金額を確認し、こちらへ示した。
自分の革袋を開く。手持ちで足りる。
「お願いします」
「分かりました」
ミラが再び奥へ向かった。
「普通でしたね」
エルザが言う。
「普通でした」
「残念ですか?」
「いえ」
首を振る。
「使えるなら十分です」
ヴェラが頷いた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「兄ちゃん、身体強化か?」
横から声がした。
さっき依頼板にいた男だった。使い込まれた革の胸当てを着け、片手には選んだらしい依頼札を持っている。
「はい。普通でした」
「俺もだ」
男が自分の胸を親指で示した。
「今でも普通に使ってる。覚えたばっかりの頃は、何が変わったのかよく分からなかったけどな」
「そういうものですか」
「俺はな」
男はそれだけ言って、依頼札を持ったまま別の受付へ歩いていった。
隣にいた女が後ろから声を掛ける。
「早くしないと、その依頼取られるよ」
「分かってる」
二人はそのまま受付の列へ入った。
俺は少しだけその背中を見る。
普通でも、使っている人はいる。
当たり前のことだが、実際に聞くと少し違った。
戻ってきたミラが、一冊の本を卓へ置いた。
厚くはない。表紙には大きな擦れもなく、閉じたまま革紐で留められている。
「身体強化の基礎魔法書です」
手に取る。
見た目より少し重い。
「これで覚えられるんですね」
「基礎は。ただし、覚えた後は実際に使いながら慣れてください」
「はい」
代金を払い、手続きを済ませる。
ミラが折り畳んだ紙を一枚、魔法書の横へ置いた。
「使用前に、こちらも確認してください。習得の手順と注意事項です」
「分かりました」
紙も受け取り、魔法書を鞄へ入れようとして手が止まった。
表紙を見る。
開いてみたい。
朝、ドランに言われたことを思い出す。
――速くなれば下手が消えると思うな。
革紐から手を離した。
「どうされました?」
ヴェラが尋ねる。
「いえ。今は開かないでおきます」
エルザが魔法書を見る。
「宿へ戻ってからですか?」
「最初に使うところまでやりたくなりそうなので、場所を決めてからにします」
「それがいいと思います」
「エルザさん、身体強化は使えますよね?」
「はい」
「最初に使う時、見てもらってもいいですか?」
エルザは頷いた。
「もちろんです」
「私もご一緒してよろしいでしょうか」
「お願いします」
魔法書と折り畳んだ紙を鞄へ収め、受付を離れた。
ギルドの扉を開けると、午前の日差しが石畳へ落ちていた。
歩き出す。
鞄の中で、魔法書の角が腰へ当たった。
さっきまで入っていなかった重みだけが増えていた。




