第110話 もう一度は鳴らない
奥の通路へ灯りを向けても、音のしたものは見つからなかった。
意識を向けても、近くに三人以外の反復は感じない。岩の凹凸が影を作り、その先は見通せない。ヴェラが丸盾を上げ直し、エルザも手帳を閉じた。
「もう一度、鳴りますかね」
「少し待ってみましょう」
耳を澄ます。松明が燃える小さな音は聞こえるが、奥からは何も返ってこなかった。
「石が落ちたとか?」
「かもしれません。見えてはいませんけど」
エルザが灯りを少し高くする。
前にも似た音を聞いた。第一分岐の左側、坂を下っていた時だ。古い白墨を補修した少し先で、硬いものが一度だけ鳴った。
「前の坂でも、似た音がしましたよね」
「覚えています。あの時も一度だけでした」
「場所は違いますね」
ヴェラが言う。確かに違う。同じ音だったかどうかも分からない。
もう少し待ったが、二度目はなかった。
奥を見ていると、曲がり角の一つくらいは確かめたくなる。音のしたものが分からなくても、道の形なら見られるかもしれない。
「ノワールさん。今、先へ行こうか考えていませんでした?」
「……わかっちゃいます?」
「ずっと奥を見ています」
「ちょっと気になっただけですよ」
「私も気になります」
ヴェラは盾を下げずに答えた。
思わぬ援護だった。
「でも、今日は戻りたいです。左の通路も確認できましたし、新しい脚具も使えました。続きは別の日でいいと思います」
「ですよね」
エルザが懐中時計を開いた。
「時間は残っています。でも、音を追う予定はありませんでしたから」
「そうですね。じゃあ、戻りましょうか」
エルザは手帳へ、音を一度聞いた場所とおおまかな方向、再発がなかったことを書き足した。俺は書き終えるのを待って剣を鞘へ戻す。
倒れたマッドクローを避け、三人で来た通路へ向き直った。
◆
広い空間を出ると、また壁が近くなった。乾いた砂を踏みながら進み、途中の曲がり角ではヴェラが一度足を止める。エルザの灯りが、靴の前を照らした。
やがて砂の中から、斜めに突き出した平たい石が見えてきた。
「ここですね」
来た時は左の壁沿いを通った。今は引き返しているので、固い床は右側にある。
「帰りも、一人ずつですね」
ヴェラが盾を身体へ寄せ、右壁沿いを抜けた。次は俺だ。壁へ肩を寄せると、剣の鞘が岩に触れそうになった。少し向きを変えてから足を出す。
「鞘、気をつけてくださいね」
「まだ当ててませんよ」
「当てる前に言っていますから」
向こう側へ出ると、エルザも同じ場所を通ってきた。三人とも平たい石には触れなかった。隙間の奥も、相変わらず暗い。
右壁に亀裂があった場所を抜け、分岐まで戻る。坂の途中では足元の小石を避けながら進んだ。第三道標を越え、そこから先も時々止まって周囲を確かめたが、魔物には遭わなかった。
階段を上るにつれて、入口からの光が広がっていく。地上へ出ると、朝より暖かい風が頬に当たった。
◆
ガイルは入口脇で帳面を開いていた。三枚の木札を返すと、印を順に確かめる。
「昼前に戻ったな。どうだった」
「左側を見てきました。狭い通路の先に広い場所があって、マッドクロー一体を撃破しています。死体はそのままです。怪我はありません」
エルザが答えた。
「足場は?」
「砂の中に平たい石がありました。踏んだら動くかもしれませんが、分かりません」
「踏んだのか」
「いいえ。脇を通れたので、触ってません」
「ならいい。確かめようとして踏むなよ」
「しませんって」
一人だったら絶対確かめていた。
「あと、奥の方で硬いものが当たるような音を一度聞きました。待っても繰り返しませんでした」
「分かった。地形の方はギルドにも伝えてくれ」
ガイルが帳面へ書き込む。
入口を離れてから、ヴェラが右脚の革帯を確かめた。軽く膝を曲げ、留め具へ指を添える。
「痛みも、ずれもありません」
「宿で外した時にも、擦れを見ましょうね」
「はい。そのつもりです」
ヴェラは自分で留め具をもう一度確かめた。
「次も、これで行けそうです」
「良かったですね」
そう言うと、ヴェラは小さく頷いた。
◆
冒険者ギルドの広間は、午前の依頼を終えた人たちで少し賑わっていた。受付で順番を待ち、俺たちはミラの前へ進んだ。
「お帰りなさい。左側を確認されたんですね」
「はい。予定していたところまでです」
エルザが手帳を開き、地形を順に伝える。分岐から左へ入ってすぐ右へ曲がること。乾いた灰色の砂と右壁の細い亀裂。その先で見つけた、縁に隙間のある平たい石。
「石は動きましたか?」
「分かりません。行きも帰りも、壁際の固い床を通りました」
ヴェラが答えた。
ミラは石の位置を手帳と照らしながら書き留める。エルザはさらに、その先の広い空間と未踏の通路、マッドクロー一体の撃破を報告した。
「怪我は?」
「三人ともありません」
「分かりました。ほかには?」
「音がしたんです」
俺は広い場所の奥で聞いた音のことを話した。一度きりで、原因は分からない。前にも坂のところで似た音を聞いている。
「覚えています。あの時も報告してくださいましたね」
「そうです。同じものが鳴ったかは分からないんですけど」
ミラは記録紙へ何かを書き足した。
「古い記録にも、似た音の報告がまれにあります」
「あるんですか?」
「ええ。あとから通路の形が以前の記録と違うと分かった場所で、硬いものが一度鳴ったという記述が残っていることがあります。ただ、数は多くありません」
エルザが顔を上げた。
「音がした時に、通路が変わったのでしょうか」
「それは分からないんです。変わる時の音かもしれませんし、変わったあとで石が動いたのかもしれません。全く別の原因も考えられます」
「変わるところを見た人は?」
「少なくとも、そういう記録ではありません。音が聞こえたという報告と、地形が違うという報告が、同じ場所に残っていた程度ですね」
「なるほど……」
俺たちが聞いた二つの音にも関係があるのだろうか。似ていたというだけでは、何とも言えない。
「音がなくても、道が変わることはあるんですよね」
「そもそも、変わる瞬間に冒険者がその場にいるとは限りませんから」
「ああ、それもそうか」
確かに、誰もいないところで道が変わっても、音がしたかどうかなんて分からない。
「今回の報告も、ほかの記録と合わせて地図の確認に回します。平たい石のところは、先に注意情報として扱えますよ」
「それなら良かったです」
エルザが手帳を閉じる。ミラが報告紙へ印をつけた。
「ありがとうございました。今日はこれで大丈夫です」
俺たちが受付を離れようとしたところで、ミラに呼び止められた。
「あ、ノワールさん。エリカさんから伝言を預かっています」
「エリカさんから?」
小さく折った紙を渡される。開くと、短い文が書かれていた。
『明日の午後、時間があれば三人で来てください。紹介したい人がいます』
「紹介したい人、ですか」
エルザが隣から覗き込み、ヴェラも少し顔を寄せた。
「どなたでしょうね」
「さあ。でも、エリカさんが紹介したい人なら、会ってみたいですね」
「私もです」
ヴェラが頷く。エルザも手帳をしまいながら、俺を見る。
「明日の午後なら予定はありませんね。ノワールさんは?」
「俺も空いてます。じゃあ、三人で行きましょうか」
「はい」
紙を畳み、腰の袋へ入れる。
「……忘れないでくださいね」
エルザに釘を刺された。
「ちゃんとしまいましたよ」
「しまったまま忘れますから」
さらに打ち込まれる。痛い。
ヴェラが俺の腰の袋を見る。
「明日の朝、私からもお声がけします」
「……お願いします」
受付の向こうでミラが小さく笑っていた。
エルザが鞄を肩へ掛け直す。その髪際でリンが揺れ、ちりん、と鳴った。
三人でギルドの扉へ向かった。




