第109話 右から入る
〈灰石の口〉の入口には、朝の冷たい空気がまだ残っていた。石段の脇でガイルが帳面を開いている。
入口の奥からは、先に入った誰かの足音がかすかに返ってきた。地上から差し込む光は階段の途中までしか届かず、その先は壁際の灯りに色を譲っている。
「今日は、前に報告した分岐の左か」
ガイルが帳面から顔を上げる。
「はい」
「帰還予定」
エルザが懐中時計を開いた。
「昼を過ぎる前には戻ります」
「分かった」
ペン先が紙の上を走る。ガイルは三枚の木札を取り出した。
「分岐が見つかったからって、全部歩いてくる必要はないぞ」
「昨日も似たようなことを言われました」
「なら、もう一度聞いとけ」
「はい」
木札を受け取る。ヴェラが丸盾の位置を直した。
「行きましょう」
三人で石段を下りた。
◆
第三道標までは、何度も歩いた道だった。
打刻具が木札へ印を入れる乾いた音。
壁に残る白墨。
曲がり角の前で少し狭くなる床。
完全に覚えたわけではない。それでも初めて通った頃より、見る場所は減っている。
第三道標を越え、最初の分岐を左へ入った。坂を下り、平坦部を越える。
右壁の下に湿りが見え始めると、空気も少し冷たくなった。エルザの灯りが濡れた岩へ当たり、黒っぽい光を返す。
そこから先へ進むと、通路が二本に分かれた。
正面。
左。
昨夜、手帳の上で選んだ場所だ。
「着きました」
エルザが懐中時計を取り出す。小さな蓋が開く音が、静かな通路ではよく聞こえた。
「前回より少し早いです。帰りの余裕もあります」
「予定どおりですね」
ヴェラが左を見る。灯りの先で、通路はすぐ右へ曲がっている。
「行きましょう」
三人で左へ入った。
◆
曲がり角までは十歩もなかった。ヴェラが手前で止まり、丸盾を少し上げる。
「見ます」
「お願いします」
身体を出しすぎないように、角の向こうを覗く。少し待ってから、盾が下がった。
「まっすぐ続いています。見える範囲には何もいません」
俺も前へ寄り、エルザが灯りを高くする。
曲がった先は、それまでより狭かった。三人横には並べない。天井も少し低く、壁の凹凸が灯りを細かく遮っている。床には灰色の砂が薄く積もっていた。
「乾いてますね」
エルザが灯りを足元へ寄せる。さっきまでの湿った通路とは違う。
ヴェラが靴先で砂を軽く押すと、表面だけが崩れ、その下から固い石が出た。
「少し滑ります」
「ゆっくり行きましょう」
歩幅を狭くして進んだ。靴が砂を擦るたび、しゃり、と小さな音がする。石床を歩く時より音が柔らかい。
その分、丸盾の金具や俺の剣、エルザの鞄が動く音の方が近く聞こえた。
しばらく進むと、右壁へ細い亀裂が何本か走っていた。風は感じない。奥まで続く穴にも見えなかった。
エルザが手帳へ位置と形を書き留める。その間、俺とヴェラは前後を見た。
静かだった。
少なくとも、目や耳で分かる範囲では何も動いていない。
「進みます」
手帳が鞄へ戻る。再びヴェラが先へ出た。
◆
床の砂が少し厚くなったところで、ヴェラが右手を上げた。
止まる。
「足元です」
数歩先の砂から、平たい石の縁が斜めに出ていた。周囲の床とは色が少し違う。
エルザが灯りを寄せる。石の端には細い隙間があり、中は暗く、どのくらい深いのか分からなかった。
「踏んだら動きますかね」
俺が言う。
「分かりません」
エルザも近づかない。
踏んで確かめてみようかな。
「確認する必要もないと思います」
「同意です」
やめておいた。
左壁との間には、足一つ分ほどの固い床が残っていた。ヴェラが靴先で手前を確かめる。
「ここなら通れそうです。一人ずつですね」
「お願いします」
丸盾を身体へ寄せ、壁際へ入る。
一歩。
もう一歩。
平たい石を踏まずに越えた。
「大丈夫です」
次に俺。
最後にエルザ。
三人とも渡りきった。振り返っても、石は何も変わっていない。
エルザが手帳へ短く印をつけた。
「帰りもここを通ります」
「はい。覚えておきます」
先へ進む。
◆
通路は緩く下ったあと、少しずつ広くなった。砂も減っている。
代わりに床から岩がところどころ顔を出し、左右の壁には横向きの細い筋が増えていた。自然にできたものか、何かが擦った跡なのかは分からない。
「この先、広いです」
ヴェラが声を落とす。
数歩進むと、通路が開いた。円く抉れたような空間だった。
部屋と呼ぶほど形は整っていないが、三人で動くには十分な広さがある。天井も高い。
エルザが灯りをゆっくり回した。
右。
奥。
左。
岩の影が伸びたり縮んだりする。
正面には、さらに一本の通路が続いていた。
「ここまで、記録します」
エルザが手帳を開く。
ヴェラは丸盾を下げず、少し右へ位置を取った。俺も奥を見る。
その時、右奥に三人とは別の反復が引っかかった。
何かは分からない。岩陰で姿も見えない。こちらに近づいてくる。
「待ってください……右、何かが近づいてきています」
ヴェラが丸盾を少し右へ向ける。
俺は剣に手を掛ける。
その瞬間、反復が一度低く沈んだ。
「来ます!」
俺の声と重なるように、ざり、と砂を蹴る音がした。
灰褐色の身体が岩陰から飛び出す。
マッドクロー。
一体。
低い姿勢のまま、俺たちの右側へ回り込んでくる。
剣を抜く。
間に合う。
そう思った時には、もう丸盾が視界へ入っていた。
ヴェラが右へ踏み込み、俺の前へ入る。
マッドクローの前脚が盾へぶつかった。
がん、と鈍い音が広い空間へ響く。
ヴェラの身体が押される。
盾がわずかに傾いた。
それでも位置は崩れない。
「左、空きます!」
ヴェラが盾を少し外へ流した。
マッドクローの頭が右へ逸れる。
首の横が見えた。
俺は左へ踏み込む。
剣を振る。
刃が肩口を浅く切った。
マッドクローが短く鳴き、横へ跳ぶ。
「後ろへ下がります!」
エルザの声と一緒に、灯りが後ろへ動いた。
エルザが一歩下がっても、俺とヴェラの間にはまだ動ける幅が残っていた。
マッドクローが壁際を走る。
灰褐色の身体が岩の色に紛れ、一瞬輪郭が薄くなった。
右。
また来る。
ヴェラが盾を向ける。
今度は正面から受けず、角度をつけた。
爪が盾の表面を滑る。
硬い音。
マッドクローの前脚が床へ落ちる。
「今です!」
エルザが左側から短剣を突き込んだ。
マッドクローが身体を捻る。
俺は追いかけない。
進路へ剣先を置く。
逃げる方向が一つ狭まった。
そこへヴェラが踏み込む。
丸盾で身体を押し返し、空いたところへ短槍が入った。
穂先が首の付け根を捉える。
マッドクローが床へ崩れた。
すぐには近づかない。
三人ともその場で周囲を見る。
灯りの届く範囲。
奥の通路。
岩陰。
「他は?」
俺が聞く。
「見えません」
エルザが答える。
ヴェラも盾を構えたまま、右側を見る。
「こちらも動きなしです」
しばらく待つ。マッドクローは動かなかった。
「……終わりですかね」
エルザが短剣を構えたまま言う。
反復は途切れたまま戻らない。多分死んでいる。
「たぶん」
「たぶんですか」
「絶対とは言えませんので」
俺はそう言いながらようやく剣先を下げた。ヴェラも盾を下ろす。
息を一つ吐いてから、倒れたマッドクローを見る。
「怪我は?」
エルザが聞く。
「ありません」
ヴェラが先に答えた。
「俺も大丈夫です」
「私もです」
エルザの視線がヴェラの右脚へ移った。
「脚具は?」
ヴェラが右足へ重さを掛け、軽く膝を曲げる。丸盾を身体へ寄せ、右手で革帯の位置へ触れた。
「大丈夫です。ずれていません」
「痛みも?」
「ありません」
返事は早かった。
俺も剣を下げたまま、奥の通路へ目を向ける。広い空間の先にも道は続いている。灯りの届くところまでは何も見えない。その先は暗かった。
エルザが手帳を開き、今の戦闘と通路の位置を書き足し始める。さらさらと紙を擦る音が続く。
ヴェラは丸盾を構えたまま、奥を見ていた。俺もそちらを見る。
しばらくして、エルザの筆が止まった。
静かになった。
その時だった。
――かつん。
硬いものが一度だけ当たったような音が、奥から返ってきた。
三人とも動きを止める。
エルザが顔を上げた。
「……今の音」
聞き覚えがあった。
前にも、似た音を聞いた。
あの時も、一度だけだった。
俺は暗い通路へ目を向けた。




