↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第四章 札がなくても

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

109/136

第109話 右から入る


 〈灰石の口〉の入口には、朝の冷たい空気がまだ残っていた。石段の脇でガイルが帳面を開いている。


 入口の奥からは、先に入った誰かの足音がかすかに返ってきた。地上から差し込む光は階段の途中までしか届かず、その先は壁際の灯りに色を譲っている。


「今日は、前に報告した分岐の左か」


 ガイルが帳面から顔を上げる。


「はい」


「帰還予定」


 エルザが懐中時計を開いた。


「昼を過ぎる前には戻ります」


「分かった」


 ペン先が紙の上を走る。ガイルは三枚の木札を取り出した。


「分岐が見つかったからって、全部歩いてくる必要はないぞ」


「昨日も似たようなことを言われました」


「なら、もう一度聞いとけ」


「はい」


 木札を受け取る。ヴェラが丸盾の位置を直した。


「行きましょう」


 三人で石段を下りた。


◆


 第三道標までは、何度も歩いた道だった。


 打刻具が木札へ印を入れる乾いた音。


 壁に残る白墨。


 曲がり角の前で少し狭くなる床。


 完全に覚えたわけではない。それでも初めて通った頃より、見る場所は減っている。


 第三道標を越え、最初の分岐を左へ入った。坂を下り、平坦部を越える。


 右壁の下に湿りが見え始めると、空気も少し冷たくなった。エルザの灯りが濡れた岩へ当たり、黒っぽい光を返す。


 そこから先へ進むと、通路が二本に分かれた。


 正面。


 左。


 昨夜、手帳の上で選んだ場所だ。


「着きました」


 エルザが懐中時計を取り出す。小さな蓋が開く音が、静かな通路ではよく聞こえた。


「前回より少し早いです。帰りの余裕もあります」


「予定どおりですね」


 ヴェラが左を見る。灯りの先で、通路はすぐ右へ曲がっている。


「行きましょう」


 三人で左へ入った。


◆


 曲がり角までは十歩もなかった。ヴェラが手前で止まり、丸盾を少し上げる。


「見ます」


「お願いします」


 身体を出しすぎないように、角の向こうを覗く。少し待ってから、盾が下がった。


「まっすぐ続いています。見える範囲には何もいません」


 俺も前へ寄り、エルザが灯りを高くする。


 曲がった先は、それまでより狭かった。三人横には並べない。天井も少し低く、壁の凹凸が灯りを細かく遮っている。床には灰色の砂が薄く積もっていた。


「乾いてますね」


 エルザが灯りを足元へ寄せる。さっきまでの湿った通路とは違う。


 ヴェラが靴先で砂を軽く押すと、表面だけが崩れ、その下から固い石が出た。


「少し滑ります」


「ゆっくり行きましょう」


 歩幅を狭くして進んだ。靴が砂を擦るたび、しゃり、と小さな音がする。石床を歩く時より音が柔らかい。


 その分、丸盾の金具や俺の剣、エルザの鞄が動く音の方が近く聞こえた。


 しばらく進むと、右壁へ細い亀裂が何本か走っていた。風は感じない。奥まで続く穴にも見えなかった。


 エルザが手帳へ位置と形を書き留める。その間、俺とヴェラは前後を見た。


 静かだった。


 少なくとも、目や耳で分かる範囲では何も動いていない。


「進みます」


 手帳が鞄へ戻る。再びヴェラが先へ出た。


◆


 床の砂が少し厚くなったところで、ヴェラが右手を上げた。


 止まる。


「足元です」


 数歩先の砂から、平たい石の縁が斜めに出ていた。周囲の床とは色が少し違う。


 エルザが灯りを寄せる。石の端には細い隙間があり、中は暗く、どのくらい深いのか分からなかった。


「踏んだら動きますかね」


 俺が言う。


「分かりません」


 エルザも近づかない。


 踏んで確かめてみようかな。


「確認する必要もないと思います」


「同意です」


 やめておいた。


 左壁との間には、足一つ分ほどの固い床が残っていた。ヴェラが靴先で手前を確かめる。


「ここなら通れそうです。一人ずつですね」


「お願いします」


 丸盾を身体へ寄せ、壁際へ入る。


 一歩。


 もう一歩。


 平たい石を踏まずに越えた。


「大丈夫です」


 次に俺。


 最後にエルザ。


 三人とも渡りきった。振り返っても、石は何も変わっていない。


 エルザが手帳へ短く印をつけた。


「帰りもここを通ります」


「はい。覚えておきます」


 先へ進む。


◆


 通路は緩く下ったあと、少しずつ広くなった。砂も減っている。


 代わりに床から岩がところどころ顔を出し、左右の壁には横向きの細い筋が増えていた。自然にできたものか、何かが擦った跡なのかは分からない。


「この先、広いです」


 ヴェラが声を落とす。


 数歩進むと、通路が開いた。円く抉れたような空間だった。


 部屋と呼ぶほど形は整っていないが、三人で動くには十分な広さがある。天井も高い。


 エルザが灯りをゆっくり回した。


 右。


 奥。


 左。


 岩の影が伸びたり縮んだりする。


 正面には、さらに一本の通路が続いていた。


「ここまで、記録します」


 エルザが手帳を開く。


 ヴェラは丸盾を下げず、少し右へ位置を取った。俺も奥を見る。


 その時、右奥に三人とは別の反復が引っかかった。


 何かは分からない。岩陰で姿も見えない。こちらに近づいてくる。


「待ってください……右、何かが近づいてきています」


 ヴェラが丸盾を少し右へ向ける。


 俺は剣に手を掛ける。


 その瞬間、反復が一度低く沈んだ。


「来ます!」


 俺の声と重なるように、ざり、と砂を蹴る音がした。


 灰褐色の身体が岩陰から飛び出す。


 マッドクロー。


 一体。


 低い姿勢のまま、俺たちの右側へ回り込んでくる。


 剣を抜く。


 間に合う。


 そう思った時には、もう丸盾が視界へ入っていた。


 ヴェラが右へ踏み込み、俺の前へ入る。


 マッドクローの前脚が盾へぶつかった。


 がん、と鈍い音が広い空間へ響く。


 ヴェラの身体が押される。


 盾がわずかに傾いた。


 それでも位置は崩れない。


「左、空きます!」


 ヴェラが盾を少し外へ流した。


 マッドクローの頭が右へ逸れる。


 首の横が見えた。


 俺は左へ踏み込む。


 剣を振る。


 刃が肩口を浅く切った。


 マッドクローが短く鳴き、横へ跳ぶ。


「後ろへ下がります!」


 エルザの声と一緒に、灯りが後ろへ動いた。


 エルザが一歩下がっても、俺とヴェラの間にはまだ動ける幅が残っていた。


 マッドクローが壁際を走る。


 灰褐色の身体が岩の色に紛れ、一瞬輪郭が薄くなった。


 右。


 また来る。


 ヴェラが盾を向ける。


 今度は正面から受けず、角度をつけた。


 爪が盾の表面を滑る。


 硬い音。


 マッドクローの前脚が床へ落ちる。


「今です!」


 エルザが左側から短剣を突き込んだ。


 マッドクローが身体を捻る。


 俺は追いかけない。


 進路へ剣先を置く。


 逃げる方向が一つ狭まった。


 そこへヴェラが踏み込む。


 丸盾で身体を押し返し、空いたところへ短槍が入った。


 穂先が首の付け根を捉える。


 マッドクローが床へ崩れた。


 すぐには近づかない。


 三人ともその場で周囲を見る。


 灯りの届く範囲。


 奥の通路。


 岩陰。


「他は?」


 俺が聞く。


「見えません」


 エルザが答える。


 ヴェラも盾を構えたまま、右側を見る。


「こちらも動きなしです」


 しばらく待つ。マッドクローは動かなかった。


「……終わりですかね」


 エルザが短剣を構えたまま言う。


 反復は途切れたまま戻らない。多分死んでいる。


「たぶん」


「たぶんですか」


「絶対とは言えませんので」


 俺はそう言いながらようやく剣先を下げた。ヴェラも盾を下ろす。


 息を一つ吐いてから、倒れたマッドクローを見る。


「怪我は?」


 エルザが聞く。


「ありません」


 ヴェラが先に答えた。


「俺も大丈夫です」


「私もです」


 エルザの視線がヴェラの右脚へ移った。


「脚具は?」


 ヴェラが右足へ重さを掛け、軽く膝を曲げる。丸盾を身体へ寄せ、右手で革帯の位置へ触れた。


「大丈夫です。ずれていません」


「痛みも?」


「ありません」


 返事は早かった。


 俺も剣を下げたまま、奥の通路へ目を向ける。広い空間の先にも道は続いている。灯りの届くところまでは何も見えない。その先は暗かった。


 エルザが手帳を開き、今の戦闘と通路の位置を書き足し始める。さらさらと紙を擦る音が続く。


 ヴェラは丸盾を構えたまま、奥を見ていた。俺もそちらを見る。


 しばらくして、エルザの筆が止まった。


 静かになった。


 その時だった。


 ――かつん。


 硬いものが一度だけ当たったような音が、奥から返ってきた。


 三人とも動きを止める。


 エルザが顔を上げた。


「……今の音」


 聞き覚えがあった。


 前にも、似た音を聞いた。


 あの時も、一度だけだった。


 俺は暗い通路へ目を向けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。