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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第四章 札がなくても

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第108話 先に左へ

 夕食のあと、〈鈍色亭〉の一階にはまだ何組か客が残っていた。厨房からは皿を重ねる音が聞こえ、開け放した窓の向こうでは、夜になりきる前の通りを荷車が一台、ゆっくりと通り過ぎていく。


 俺たちは壁際の卓を使っていた。エルザが手帳を卓の上へ開き、向かいに座ったヴェラも椅子を少し寄せる。俺は水の入った杯を端へ動かした。


「こぼしたら怒られそうなので」


「怒ります」


 エルザが手帳の端を押さえる。窓から入った風が、紙の角を少しだけ浮かせていた。


 そこには、前に引き返した分岐が描かれている。正面へ続く線と、左へ伸びてすぐ曲がる短い線。左側は、その先が空白になっていた。


「次、どちらへ行きます?」


 エルザが聞いた。


 今回は依頼票がない。行き先を決めるのも俺たちだ。


「正面の方が、地図に描かれていた道に近そうです」


 ヴェラが言い、指先で手帳の線を追って分岐のところで止める。


「左の方が気になります?」


「はい」


 返事は早かった。ヴェラの指が、今度は短い方の線へ移る。


「でも、気になるから行く、だけでは少し違う気がします」


「そうですね」


 エルザが頷く。髪際でリンの白い光が小さく揺れた。


「正面を先に確認して、地図と同じ道なのか見る方法もあります」


「それもありですね」


 俺は二本の線を見る。正面へ行けば、地図に描かれている道との違いが分かるかもしれない。左へ行けば、今の地図にはない道を見られる。


 どちらを選んでも、もう片方は残る。


 厨房の奥で水を流す音が聞こえた。隣の卓では、二人組の客が空になった皿を重ねている。いつもの宿の夜だ。


 その中で、俺たちは明日以降に歩く道を決めている。


「一度で両方はやめておきましょう」


 俺が言った。


「はい」


 ヴェラが頷く。


「それが良いと思います」


 エルザが手帳の横へ指を置いた。


「前回、分岐までで戻ったのは、そこから先を決めていなかったからです。次は一本だけ決めて行く方が良いと思います」


「じゃあ、どっちにします?」


 少し間が空いた。ヴェラがもう一度手帳を見る。


 先に口を開いたのもヴェラだった。


「私は、左へ行きたいです」


 エルザが顔を上げる。


「理由は?」


「地図にないからです」


 ヴェラはそのまま続けた。


「正面は、古い地図の道と同じかもしれません。もちろん確認は必要です。でも左は、少なくとも今の地図には載っていません」


「なるほど」


「どちらも確認するなら、私は先に左を見たいです」


 エルザが俺を見る。


「ノワールさんは?」


「俺も左ですかね」


「理由は同じですか?」


「半分は」


 手帳の左側を指す。


「こっちは曲がった先が見えてません。次に行くなら、まずそこを見てみたいです」


「もう半分は?」


「普通に気になります」


 エルザが少し笑った。


「ヴェラさんがさっき言った理由ですね」


「はい。すみません」


「それだけで先へ進み続けなければ、いいと思います」


 ヴェラが言った。


「そこは守りますよ」


 俺は背もたれへ少し身体を預けた。座面が小さく軋む。


「左へ行くとして、どこまで行きます?」


 エルザが手帳の空白へ目を落とす。


「距離では決めにくいですね。まだ先の形が分かりませんから」


「時間?」


「それも使えます」


 エルザが鞄から懐中時計を取り出して蓋を開く。小さな金属音のあと、窓から入る薄い光が文字盤の縁に当たった。


「前回は分岐まで行って戻っても、予定より余裕がありました」


「はい」


「分岐に着いた時点で時刻を確認しましょう。帰りの余裕を残した上で、そこからどれくらい先へ進めるか決めます」


「途中で戦闘があれば、その分も増えますね」


 ヴェラが言う。


「そうですね」


 俺も頷いた。


「時間が残っていても、足場や通路の状態が悪ければ戻る。それくらいでいいですかね」


「はい」


「私もそれで良いと思います」


 エルザが手帳へ短く書き込んだ。ペン先が紙を擦る音がする。


 分岐で時刻確認。


 帰還の余裕を残す。


 状態が悪ければ戻る。


「では、左で決まりですね」


「はい」


 ヴェラが答える。


「俺も」


「正面は、そのあとですね」


「左から帰ってきてから考えましょう」


 俺が言う。


「そうですね」


 エルザが左側の線へ小さな印をつけ、手帳を閉じた。


 ちょうどその時、女将が空いた卓の皿を抱えて横を通った。ちらりとこちらの手帳を見る。


「明日も出るのかい」


「その予定です」


「なら朝飯はいつもくらいでいいね」


「お願いします」


「はいよ」


 それだけ言って、女将は厨房へ戻っていった。


 エルザが手帳を鞄へしまう。卓の上に残ったのは、三人分の杯だけだった。


◆


 翌朝、空には薄い雲がかかっていた。通りへ出ると、夜の冷たさがまだ石畳に残っている。店先の戸を開ける音や、荷車へ木箱を積む音があちこちから聞こえていた。


 俺たちは装備を整え、そのまま冒険者ギルドへ向かった。ヴェラの右脚には昨日受け取った脚具があり、朝の時点では擦れも痛みも出ていないという。


 入口をくぐると、外より少し暖かい空気と一緒に、紙と革の匂いが鼻に入る。依頼板の前には何人か立っていた。二人組が札を外し、その横では別の男が腕を組んだまま上の段を見ている。


 受付はまだ混んでいない。ミラがこちらを見る。


「おはようございます」


「おはようございます」


 三人で受付へ寄った。ミラの前には、昨夜のものらしい記録紙が何枚か重ねられていた。


「今日は依頼ですか?」


「いえ。前に報告した分岐のことで、確認したいことがあって」


 ミラが頷く。


「平坦部より先の分岐ですね」


「はい」


 エルザが手帳を出し、受付の卓へ開いて分岐のところを示す。


「今日は左側を見に行く予定です。その後、何か報告は増えていますか?」


「それと、前に見せてもらった地図も、もう一度確認していいですか?」


「もちろんです。少し待ってください」


 ミラが受付の奥へ引っ込む。


 その間にも、依頼板の前から木札の触れ合う乾いた音が聞こえていた。エルザは開いた手帳を押さえたまま待っている。ヴェラは受付の脇に立ち、入口から入ってくる人を避けるように半歩だけ位置をずらした。


 やがてミラが戻ってくる。手には一枚の紙と、前にも見せてもらった地図があった。


「今のところ、追加の報告はありません」


「地図の方は?」


「まだ保留です。前に伺った内容のままですね」


 ミラが地図を受付の上へ広げ、エルザも手帳をその横へ置いた。


 地図では、その辺りの線はそのまま先へ延びている。左へ分かれる線はない。


「やっぱり、左は載っていませんね」


「はい。正面も同じ道かどうかは、まだ確認できていません」


「分かりました」


 エルザが手帳を閉じる。ミラは地図と紙を受付の内側へ戻した。


「戻ったら、確認できた範囲を教えてください。道が続いていた、行き止まりだった、確認した範囲では危険な箇所が見つからなかった。それだけでも報告になります」


「はい」


「ただ、報告のために無理に奥まで行く必要はありません」


「はい。お互いで注意いたします」


 ヴェラが答えた。


 ミラが少しだけ笑う。


「では、お気をつけて」


「ありがとうございます」


 俺たちは受付を離れた。


 ギルドの扉を出ると、ちょうど目の前を荷車が横切っていった。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、荷台の空箱ががたがたと鳴る。


 通りの端でそれを待つ。


「左ですね」


 ヴェラが言った。


「左です」


 エルザが答える。


 俺も頷いた。


「行きましょうか」


「はい」


 荷車が過ぎる。


 三人で通りへ出た。


 朝の人波の向こうに、〈灰石の口〉へ続く道が伸びていた。

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