第108話 先に左へ
夕食のあと、〈鈍色亭〉の一階にはまだ何組か客が残っていた。厨房からは皿を重ねる音が聞こえ、開け放した窓の向こうでは、夜になりきる前の通りを荷車が一台、ゆっくりと通り過ぎていく。
俺たちは壁際の卓を使っていた。エルザが手帳を卓の上へ開き、向かいに座ったヴェラも椅子を少し寄せる。俺は水の入った杯を端へ動かした。
「こぼしたら怒られそうなので」
「怒ります」
エルザが手帳の端を押さえる。窓から入った風が、紙の角を少しだけ浮かせていた。
そこには、前に引き返した分岐が描かれている。正面へ続く線と、左へ伸びてすぐ曲がる短い線。左側は、その先が空白になっていた。
「次、どちらへ行きます?」
エルザが聞いた。
今回は依頼票がない。行き先を決めるのも俺たちだ。
「正面の方が、地図に描かれていた道に近そうです」
ヴェラが言い、指先で手帳の線を追って分岐のところで止める。
「左の方が気になります?」
「はい」
返事は早かった。ヴェラの指が、今度は短い方の線へ移る。
「でも、気になるから行く、だけでは少し違う気がします」
「そうですね」
エルザが頷く。髪際でリンの白い光が小さく揺れた。
「正面を先に確認して、地図と同じ道なのか見る方法もあります」
「それもありですね」
俺は二本の線を見る。正面へ行けば、地図に描かれている道との違いが分かるかもしれない。左へ行けば、今の地図にはない道を見られる。
どちらを選んでも、もう片方は残る。
厨房の奥で水を流す音が聞こえた。隣の卓では、二人組の客が空になった皿を重ねている。いつもの宿の夜だ。
その中で、俺たちは明日以降に歩く道を決めている。
「一度で両方はやめておきましょう」
俺が言った。
「はい」
ヴェラが頷く。
「それが良いと思います」
エルザが手帳の横へ指を置いた。
「前回、分岐までで戻ったのは、そこから先を決めていなかったからです。次は一本だけ決めて行く方が良いと思います」
「じゃあ、どっちにします?」
少し間が空いた。ヴェラがもう一度手帳を見る。
先に口を開いたのもヴェラだった。
「私は、左へ行きたいです」
エルザが顔を上げる。
「理由は?」
「地図にないからです」
ヴェラはそのまま続けた。
「正面は、古い地図の道と同じかもしれません。もちろん確認は必要です。でも左は、少なくとも今の地図には載っていません」
「なるほど」
「どちらも確認するなら、私は先に左を見たいです」
エルザが俺を見る。
「ノワールさんは?」
「俺も左ですかね」
「理由は同じですか?」
「半分は」
手帳の左側を指す。
「こっちは曲がった先が見えてません。次に行くなら、まずそこを見てみたいです」
「もう半分は?」
「普通に気になります」
エルザが少し笑った。
「ヴェラさんがさっき言った理由ですね」
「はい。すみません」
「それだけで先へ進み続けなければ、いいと思います」
ヴェラが言った。
「そこは守りますよ」
俺は背もたれへ少し身体を預けた。座面が小さく軋む。
「左へ行くとして、どこまで行きます?」
エルザが手帳の空白へ目を落とす。
「距離では決めにくいですね。まだ先の形が分かりませんから」
「時間?」
「それも使えます」
エルザが鞄から懐中時計を取り出して蓋を開く。小さな金属音のあと、窓から入る薄い光が文字盤の縁に当たった。
「前回は分岐まで行って戻っても、予定より余裕がありました」
「はい」
「分岐に着いた時点で時刻を確認しましょう。帰りの余裕を残した上で、そこからどれくらい先へ進めるか決めます」
「途中で戦闘があれば、その分も増えますね」
ヴェラが言う。
「そうですね」
俺も頷いた。
「時間が残っていても、足場や通路の状態が悪ければ戻る。それくらいでいいですかね」
「はい」
「私もそれで良いと思います」
エルザが手帳へ短く書き込んだ。ペン先が紙を擦る音がする。
分岐で時刻確認。
帰還の余裕を残す。
状態が悪ければ戻る。
「では、左で決まりですね」
「はい」
ヴェラが答える。
「俺も」
「正面は、そのあとですね」
「左から帰ってきてから考えましょう」
俺が言う。
「そうですね」
エルザが左側の線へ小さな印をつけ、手帳を閉じた。
ちょうどその時、女将が空いた卓の皿を抱えて横を通った。ちらりとこちらの手帳を見る。
「明日も出るのかい」
「その予定です」
「なら朝飯はいつもくらいでいいね」
「お願いします」
「はいよ」
それだけ言って、女将は厨房へ戻っていった。
エルザが手帳を鞄へしまう。卓の上に残ったのは、三人分の杯だけだった。
◆
翌朝、空には薄い雲がかかっていた。通りへ出ると、夜の冷たさがまだ石畳に残っている。店先の戸を開ける音や、荷車へ木箱を積む音があちこちから聞こえていた。
俺たちは装備を整え、そのまま冒険者ギルドへ向かった。ヴェラの右脚には昨日受け取った脚具があり、朝の時点では擦れも痛みも出ていないという。
入口をくぐると、外より少し暖かい空気と一緒に、紙と革の匂いが鼻に入る。依頼板の前には何人か立っていた。二人組が札を外し、その横では別の男が腕を組んだまま上の段を見ている。
受付はまだ混んでいない。ミラがこちらを見る。
「おはようございます」
「おはようございます」
三人で受付へ寄った。ミラの前には、昨夜のものらしい記録紙が何枚か重ねられていた。
「今日は依頼ですか?」
「いえ。前に報告した分岐のことで、確認したいことがあって」
ミラが頷く。
「平坦部より先の分岐ですね」
「はい」
エルザが手帳を出し、受付の卓へ開いて分岐のところを示す。
「今日は左側を見に行く予定です。その後、何か報告は増えていますか?」
「それと、前に見せてもらった地図も、もう一度確認していいですか?」
「もちろんです。少し待ってください」
ミラが受付の奥へ引っ込む。
その間にも、依頼板の前から木札の触れ合う乾いた音が聞こえていた。エルザは開いた手帳を押さえたまま待っている。ヴェラは受付の脇に立ち、入口から入ってくる人を避けるように半歩だけ位置をずらした。
やがてミラが戻ってくる。手には一枚の紙と、前にも見せてもらった地図があった。
「今のところ、追加の報告はありません」
「地図の方は?」
「まだ保留です。前に伺った内容のままですね」
ミラが地図を受付の上へ広げ、エルザも手帳をその横へ置いた。
地図では、その辺りの線はそのまま先へ延びている。左へ分かれる線はない。
「やっぱり、左は載っていませんね」
「はい。正面も同じ道かどうかは、まだ確認できていません」
「分かりました」
エルザが手帳を閉じる。ミラは地図と紙を受付の内側へ戻した。
「戻ったら、確認できた範囲を教えてください。道が続いていた、行き止まりだった、確認した範囲では危険な箇所が見つからなかった。それだけでも報告になります」
「はい」
「ただ、報告のために無理に奥まで行く必要はありません」
「はい。お互いで注意いたします」
ヴェラが答えた。
ミラが少しだけ笑う。
「では、お気をつけて」
「ありがとうございます」
俺たちは受付を離れた。
ギルドの扉を出ると、ちょうど目の前を荷車が横切っていった。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、荷台の空箱ががたがたと鳴る。
通りの端でそれを待つ。
「左ですね」
ヴェラが言った。
「左です」
エルザが答える。
俺も頷いた。
「行きましょうか」
「はい」
荷車が過ぎる。
三人で通りへ出た。
朝の人波の向こうに、〈灰石の口〉へ続く道が伸びていた。




