第104話 決めたところまで
翌朝、〈灰石の口〉の入口には、外から冷たい風が流れ込んでいた。
石造りの入口脇では、ガイルが帳面を開いたまま、先に来ていた二人組から話を聞いている。俺たちは邪魔にならない場所で待ち、エルザの髪際ではリンが白い光を小さく揺らしていた。
やがて二人組が階段へ向かい、ガイルがこちらを見る。
「今日は依頼票なしか」
「自主探索です」
俺が答える。
「三人だな」
「はい」
ガイルが帳面へ目を落とした。
「行き先」
「第一層、第三道標の先です。第一分岐を左へ入って、前に確認した平らな場所より先へ行きます」
「帰還予定」
エルザが腰の小袋から懐中時計を取り出し、針を確かめる。
「昼を少し過ぎる頃までには戻る予定です」
ガイルのペン先が紙の上を動いた。
「分かった」
帳面を閉じ、木札を三枚差し出す。
「なら行け」
三人で受け取った。
「行ってきます」
ヴェラが言う。
ガイルは片手を上げただけだった。
俺たちは階段へ向かった。
◆
第一道標から第二、第三道標へ進むたび、木札へ印を入れる乾いた音が石の通路へ短く響いた。
ここまでは何度も歩いている。
第三道標を越えてからも、最初の分岐までは見覚えのある道だ。左右へ分かれるところで左へ入り、壁に残る白墨の印を過ぎて曲がり角を抜ける。
その先の坂では、前回と同じように細かな石を避け、岩肌の出ている右側を選んで歩いた。
誰も急がない。
靴裏が石を踏む音と、装備の革が擦れる音だけが、しばらく狭い通路に続いた。
坂を下りきると、右壁が奥へ引っ込んだ平坦部へ出る。三人で立ち止まれる程度の広さがあり、前回はここを依頼の終点として引き返した。
「ここからですね」
ヴェラが言った。
「はい」
俺は通路の先を見る。
灯りの届く範囲では、床がまたわずかに下へ向かっている。前回来た時にも見えていた場所だが、今日はそこで終わりではない。
「行きましょうか」
「はい」
エルザが答える。
ヴェラが先へ出た。
俺が続き、その後ろをエルザとリンが来る。
平坦部を越え、まだ歩いたことのない道へ入った。
◆
先へ進むうち、壁の様子が変わり始めた。
それまで荒かった岩肌がところどころ平らになり、床からは前の坂ほど小石が見えなくなる。その代わり、石の表面には湿った場所が増えていた。
「右の壁、濡れています」
エルザが灯りを寄せる。
右壁の下の方だけ色が濃く、湿り気は床へも広がっていた。水が溜まるほどではない。
俺は天井を見上げたが、雫は落ちていない。耳を澄ましても、水が流れる音は聞こえなかった。
「壁からでしょうか」
「今のところ、それ以上は分かりませんね」
エルザが答えた。
ヴェラが靴先を濡れた場所へ軽く置き、すぐに戻す。
「少し滑ります。避けて歩いた方が良さそうです」
「そうしましょう」
三人で右壁から離れ、そのまま先へ進んだ。
通路はしばらく真っ直ぐ続いている。天井は腕を伸ばしても届かない程度には高いが、第三道標の辺りより低く感じる。足音の返り方も短かった。
前を歩くヴェラの丸盾が、エルザの灯りを受けて鈍く光っている。
しばらくして、ヴェラが右手を上げた。
俺も足を止める。
「分かれています」
横から覗くと、通路はそこで二つに分かれていた。
一つはそのまま正面へ続き、もう一つは左へ伸びたあと、すぐ先で曲がっている。どちらも人が通れないほど狭くはない。
エルザが一歩前へ出て、まず正面へ灯りを向け、それから左へ振った。
「正面はもう少し先まで見えます。左は、曲がった先までは分かりませんね」
その時、エルザの髪際にいたリンが、ふわりと離れた。
分岐の真ん中あたりまで出て、正面へ少し寄る。戻ってきたかと思うと、今度は左の入口近くまで漂った。
前回ほど大きくは動かない。それでも、いつものようにエルザのそばにいる時とは違う。
「リン?」
ちりん。
エルザが耳を澄ませ、首を傾げた。
「今のは?」
「……鈴の音だけです」
リンは正面と左の間をもう一度ゆっくり行き来してから、エルザの髪際へ戻った。
「前にも、こんなことありましたよね」
「はい。でも、あの時ほどではありません」
「何をしているんでしょう」
「……分かりません」
ヴェラが二本の道を見比べる。
「どちらへ行きますか」
俺も二本の道を見る。
どちらも、今のところ入れないようには見えない。
けれど、この分岐があること自体、昨日は知らなかった。
「片方だけ見てみることもできます」
エルザが言った。
「でも、その先でもう一度分かれていたら、またそこで決めることになります」
「そうですね」
ヴェラが頷く。
「今日は、この分岐があることを知らずに来ています」
昨日決めたのは、平坦部より先へ進んでみることだった。
分岐があることまでは知らなかった。どちらへ進むかも、まだ三人で決めていない。
「今日はここまでにしませんか」
俺が言う。
二人を見る。
「次に来る時、どちらへ進むか決めてからでも遅くないです」
「私もそれで良いと思います」
エルザが答えた。
「位置と形だけ、残しておきます」
ヴェラも頷く。
「では、ここを折り返しにしましょう」
エルザが手帳を開き、ここまでの通路と、正面と左へ分かれる道の形を書き留めていく。
俺とヴェラはその間に周囲を見た。足元に大きな崩れはなく、どちらの道からも水音は聞こえない。
エルザが書き終えたところで、手帳を離して見直した。
「昨日見せてもらった地図だと、この辺りはどうなっていましたっけ」
「真っ直ぐだった気はしますけど」
俺もはっきりとは覚えていない。
「戻ったら確認しましょう」
「はい」
手帳が閉じる。
三人で来た道へ向き直った。
◆
帰りは湿った床を避けて低い天井の通路を抜け、平坦部から坂へ戻った。
上りでは前回と同じように、岩肌の出ている側を選び、細かな石を踏まないよう足を置いていく。歩き方が分かっている分、行きよりも足場は選びやすかった。
坂を上りきったところで、エルザが懐中時計を確かめる。
「予定より早いですね」
「もう少し先へ行ける時間はありましたね」
俺が言う。
ヴェラが前を向いたまま答えた。
「時間はありますけど、今日はここまでと決めましたので」
「そうですね」
エルザも時計を小袋へ戻す。
「次に来る時の目安になります」
俺も頷いた。
曲がり角を抜け、白墨の横を通って第一分岐へ戻る。そこから第三道標、第二道標、第一道標と来た道を辿った。
入口へ近づくにつれ、石の冷たさに混じって外の空気が入り込み、やがて階段の先に地上の明るさが見え始めた。
◆
地上へ出ると、朝より強くなった日差しが眩しかった。
ガイルへ三枚の木札を返す。
「早かったな」
「途中で分岐がありました」
「どの辺だ」
「前回の平らな場所から、少し先です。正面と左に分かれていました」
ガイルが帳面を開く。
「入ったか」
「いえ。今日はそこで戻りました」
「何かあったのか」
「何もありません。次にどちらへ行くか決めてからにします」
「そうか」
ガイルのペン先が紙を擦る。
「右壁の下の方と、その近くの床が湿っていました。水が流れるほどではありません」
エルザが補足する。
「大きな崩れや、通れない場所はありませんでした」
「分かった」
ガイルが書き終える。
「ギルドにも伝えるか」
「はい。そのつもりです」
木札を返し、俺たちは〈灰石の口〉を離れた。
◆
冒険者ギルドへ戻った頃には、朝より依頼板の前が空いていた。
ミラはこちらに気づくと、手元の作業を止めた。
「お帰りなさい。予定より早かったですね」
「途中で戻りました」
「何かありましたか?」
「道が分かれていました」
「どの辺りですか?」
エルザが鞄から手帳を取り出した。
「前回の平坦部から先です。下った先で右壁が湿っている区間を越えて、その先が正面と左に分かれていました」
「少し待ってください」
ミラが受付の下から地図を取り出し、卓の上へ広げた。
第一分岐から左へ伸びる線を辿り、前回の平坦部で指を止める。
「この先ですね」
「はい」
エルザも手帳を横へ置いた。
そこに描かれた形と、ギルドの地図を見比べる。
エルザの手帳では道が二本に分かれているのに、地図の線は平坦部の先からそのまま一本で続いていた。
ミラがその線をもう一度指で辿る。
「ここは、古い記録だと分かれていません」
「やっぱりですか」
「はい。少なくとも、現在使っている地図では一本道です」
「左側はすぐ先で曲がっていました」
エルザが手帳の線を示す。
「正面は、灯りの届く範囲ではそのまま続いていました」
「両方とも入ってはいないんですね」
「はい」
「そこで戻ったんですね」
「そうです」
「それなら十分です」
ミラは別の紙を一枚取り出した。
「確認日は今日。平坦部より先で分岐あり。右壁付近に湿り」
言いながら書き込んでいく。
「地図も変えるんですか?」
「今日は報告として残します。地図の方は、次の確認結果と合わせて手続きを踏んで直します」
「分かりました」
「でも、助かります」
ミラがエルザの手帳をもう一度見る。
「自主探索で見つかった変化でも、報告していただければ確認に回せます」
「報酬は?」
俺が聞くと、ミラがこちらを見る。
「ありません」
「ですよね」
ヴェラの肩がわずかに揺れた。
「自主探索ですから」
「聞くだけ聞いてみました」
エルザは何も言わず、手帳を鞄へ戻した。
ミラは紙の余白に、最後の一行を書き足した。
平坦部より先、分岐あり。再確認待ち。
書き終えた紙が、地図の脇へ重ねられた。
ミラがエルザの髪際へ目を向ける。
「リンさんも、お疲れさまでした」




