第103話 札がなくても
翌朝の冒険者ギルドは、人の出入りが多かった。入口近くでは、泥のついた外套を着た男たちが荷袋を床へ下ろしている。受付の奥から紙をめくる音が続き、依頼板の前にも何人かが並んでいた。
俺たちは少し離れたところで順番を待ち、人が減ってから札を見ていく。荷運びや町の外れまでの護衛、倉庫の整理、第一層入口付近での資材回収。受けられそうなものはいくつかある。
ただ、第一分岐左側の続きを確認する札はなかった。
「今日は出ていませんね」
エルザが板の下まで見て言った。
「区切って確認しているのでしたね」
「はい。次の区間はまだなんでしょう」
昨日歩いた場所を思い出す。細かな石の多い坂を下り、その先で平らになった石床まで行った。
俺たちはそこで引き返した。依頼は、そこまでだったからだ。
その先にも道は続いていた。
「昨日の先、行ってみませんか」
二人がこちらを見る。少し間があった。
「依頼はありませんよ」
ヴェラが言う。
「はい」
「それでも、ですか?」
「行ってみたいです」
言ってから、もう一度依頼板を見る。
前にも、依頼を受けずに潜っている人はいた。ここに札が出るまで待たなければならないわけではない。
「私は反対ではありません」
エルザが答えた。
「ただ、再確認中の場所です。先へ入っても問題ないかは、確認しておきたいです」
「そうですね」
ヴェラも頷く。
「私も、行ってみたいです」
それで三人とも依頼板から離れた。リンはエルザの髪際に留まったまま、小さく揺れていた。
◆
ミラは俺たちの話を聞くと、受付の下から地図を取り出した。
「第一分岐の左側。昨日の確認地点より先ですね」
「はい」
「今日は依頼ではなく、自主探索で入ろうと思っています」
ミラが地図を広げる。第一分岐から左へ伸びた線は、曲がり角を越えて傾斜へ続いている。昨日まで確認した範囲は、その途中までだった。その先にも以前の記録は残っている。
「現在、封鎖はされていません」
ミラの指が、昨日の終点で止まる。
「ですから、ここから先へ入ること自体に問題はありません。ただ、この先は今の状態をまだ再確認していない区間です」
「地図通りとは限らない」
「はい。そこは昨日までと同じです」
ミラが俺たちを見る。
「自主探索なら、入口で氏名と人数、おおまかな行き先、帰還予定を登録してください」
「ガイルさんに伝えればいいんですね」
「ええ」
地図の端が、窓から入った風でわずかに浮いた。ミラが手を置いて押さえる。
「それと、今回はギルドの依頼ではありません。怪我をしても、依頼中の治療費補助はありません」
「自前ですね」
「そうなります。それでも行きますか?」
ミラが俺たちを見た。
「はい。三人で決めました」
ミラは軽く息をつくと頷いた。
「わかりました」
「通路の状態が大きく変わっていたら、戻った時に教えていただけると助かります」
「分かりました」
義務というより、知ったことがあれば知らせてほしいということらしい。
俺は地図を見る。
昨日までは、依頼に終点があった。
今日はない。
「戻り始める時間を先に決めておきませんか」
俺が言うと、エルザが腰の小袋から懐中時計を取り出した。蓋を開き、針を確かめる。
「朝から入るなら、昼より前には戻り始めたいですね」
「そのくらいが良いと思います」
ヴェラが地図へ目を落とす。
「道が分かりにくくなりそうなら、その先へは進まないようにしたいです」
「そうしましょう」
「魔物も、避けられるなら避けます」
エルザが答える。
「今日は何かを倒しに行くわけではありませんから」
三人で確認するのは、それだけにした。
時間になれば戻る。
道が分からなくなりそうなら進まない。
必要のない戦闘は避ける。
「その予定なら、こちらから止める理由はありません」
俺たちの話を黙って聞いていたミラが地図を畳む。
エルザが懐中時計へ目を落とした。
「では、今日は準備だけにして、明日の朝からにしましょう」
「そうですね」
ヴェラも頷く。
「その方が時間に余裕があります」
「俺も賛成です」
「無理はしないでくださいね」
ミラが言う。
「分かりました」
「リンさんも無理しないでくださいね」
ちりん。
「ふふ……明日は気をつけてくださいね」
ミラに礼を言うと、俺たちは受付を離れた。
エルザが懐中時計をしまおうとしたところで、蓋の表面が目に入る。小さな花の模様が入っていた。
「エルザさん、その懐中時計、可愛いですね」
エルザの指が止まった。
「……これ、ですか?」
「はい。前にも見てましたけど、模様までは気づいてませんでした」
エルザは時計へ一度目を落とした。
「……気に入って選んだものです」
「そうでしたか」
それだけ答えると、エルザは蓋を閉じて小袋へ戻した。口元が少しだけ緩んでいた。
◆
ギルドを出たあと、足りない物だけを買い足して〈鈍色亭〉へ戻った。昼にはまだ早く、食堂の窓から入った光が空いている卓の端まで伸びている。
水と簡単に食べられる物、予備の灯り、それに布。前の探索で使った分を確認しながら、それぞれの荷物へ収めていく。
昨日、脚具代を払ったばかりだ。共同資金には依頼に必要な分が残っているが、必要のない物まで増やす理由もない。
「食べ物はこれで足りますね」
エルザが包みを一つ俺へ渡す。
「はい」
ヴェラが自分の荷物へ水筒を収め、口を締めた。俺も受け取った包みを袋へ入れる。
「明日は、入口で登録してからですね」
ヴェラが言う。
「はい」
「昨日の平らな場所までは同じ道です。その先は、見て決めましょう」
エルザが頷いた。
これで、明日の準備は終わりだった。
窓の外では荷車が通り、車輪の音が石畳を転がっていく。遠くでは、職人区の方から槌の音も聞こえていた。
明日の朝、〈灰石の口〉で行き先と帰還予定を登録する。
その先は、自分たちで決める。




