第102話 作ってください
〈鈍色亭〉へ戻ると、昼の客はもうだいぶ減っていた。厨房から食器を重ねる音が聞こえ、窓際の卓には午後の日が差し込み、木目の上を細長く照らしていた。
エルザが共同資金を入れている革袋を卓へ置くと、ヴェラも鞄から一枚の紙を取り出した。前に職人区でもらった脚具の見積もりだった。何度か開いたらしく、折り目が少し柔らかくなっている。
「まだ持ってたんですね」
「はい。大事な物ですから」
「俺なら大事にしまって、そのまま忘れそうです」
「ノワール様は、もう少し物を管理してください」
「善処します」
ヴェラは何も言わずにこちらを見た。前にも、このやり取りをした気がする。それ以上は言わなかった。
三人で革袋の中身を卓へ出す。ヴェラとの契約で残っていた分は、少し前に払い終えている。あれは俺とエルザで負担した。
今ここにあるのは、それとは別に三人で貯めてきた金だ。最近受けた依頼の報酬も少しずつ加わっている。依頼ごとに必要な物もあるし、それぞれの取り分もある。それでも、共同で使える分は前より増えていた。
硬貨を三人で数え、最後の一枚を置いたところで、エルザが見積もりの数字と比べた。
「足りますね」
「本当ですか?」
「はい。これを払っても、依頼に必要な物を買う分は残せます」
ヴェラが見積もりへ目を落とした。リンがエルザの髪際を離れ、卓の上へ降りてくる。硬貨の近くをゆっくり漂い、一枚の銅貨の上で止まった。
誰も声はかけなかった。しばらくすると、リンはまたエルザの髪際へ戻った。
俺は硬貨を革袋へ戻す。
「どうします?」
ヴェラを見る。決めるのは俺ではない。
エルザも何も言わず、見積もりをヴェラへ返した。ヴェラは紙を受け取ったが、すぐには折り畳まなかった。
「前に、共同のお金を使うことも含めて考えることになりました」
「はい」
「その時は、まだ決められませんでした」
ヴェラの指が見積もりの端に触れる。
「私が身につける物ですから」
厨房で鍋の蓋が鳴り、女将が奥で誰かへ声をかけている。ヴェラは一度そちらへ目を向け、それから俺たちを見た。
「このお金を使ってもよろしいでしょうか」
そう言ってから、少し止まった。
「……いえ」
見積もりを持ち直す。
「三人のお金を使って、脚具を作りたいです」
今度は言い直さなかった。
「俺は賛成です」
「私もです」
ヴェラは二人を見てから、「ありがとうございます」と答えた。見積もりを、今度は丁寧に折り畳む。
エルザが腰の小袋へ手を入れ、小さな蓋付きの懐中時計を取り出した。蓋を開いて針を確かめる。
「今からなら、まだ大丈夫ですね」
時計を閉じ、小袋へ戻す。
「行きましょうか」
「はい」
ヴェラが立ち上がった。
◆
午後の職人区は、朝より音が多かった。槌の音が通りの奥から続き、開いた工房の前には削った木片が集められている。革を扱う店からは油の匂いが流れてきた。
前に来た装具店へ入り、店員に相談札を見せると、奥からあの職人が出てきた。
「決めたか」
ヴェラが頷く。
「はい」
相談札と見積もりを差し出す。職人は両方を受け取り、書かれた内容を確認した。
「前に話した条件でいいんだな」
「はい」
「歩くだけの物じゃない」
「はい」
「盾を持って右へ動く。止まる。仲間の前へ入るために使える脚具」
ヴェラは職人を見る。
「お願いします」
一拍置く。
「作ってください」
「分かった」
職人はそれだけ答え、相談札の端へ新しい印を入れた。
「じゃあ、相談から注文に変える。前に見た時から身体の具合は変わってないか?」
「変わっておりません」
「痛みは?」
「ありません」
「仕事で困ったことは」
ヴェラは少し考える。
「右へ動く時に遅れることはあります。ただ、以前と同じです」
「申告して止まれてるか?」
「はい」
「なら、今日は余計なことはやらん」
職人が相談札を指で叩く。
「ここまでで必要なところは見てある。仮組みができてから、盾を持って動いてもらう」
「承知いたしました」
「そこで合わなきゃ直す。一回で終わるとは思うなよ」
「はい」
ヴェラの返事は早かった。
俺は店の壁を見る。足首だけを覆う物もあれば、脛まで金属板が伸びた物もある。革帯の太さも、留め方も違う。
前は全部似たような脚具に見えた。今は少なくとも、ヴェラが頼んだ物はこの棚に並ぶ既製品とは違うものになると分かる。
「支払いは大丈夫なんだな?」
職人が聞いた。
ヴェラが俺たちを見る。俺が頷き、エルザも頷いた。
エルザが共同資金の革袋をヴェラへ渡した。ヴェラはそれを受け取り、職人の前へ置く。
「はい。私たちの共同のお金から出すことに決めました」
「分かった」
職人が金額を読み上げ、ヴェラが必要な硬貨を数えていく。一枚ずつ、袋の中身が減っていった。
増やすにはいくつも仕事をした。使う時は早い。それでも、惜しいとは思わなかった。
支払いを終えると、ヴェラは残った硬貨を革袋へ戻した。
「仮組みが出来たら連絡する」
「よろしくお願いいたします」
「その時は盾も持ってこい。普段使ってるやつだ」
「はい」
「動きを見る。合わなければ直す」
ヴェラが深く頷いた。
◆
店を出ると、通りの端に積まれた木材の影が長くなっていた。まだ夕方には早いが、来た時より日は傾いている。
「仮組みが出来たら、また来るんですね」
「はい」
「楽しみですか?」
ヴェラはすぐに頷いた。
「楽しみです」
その返事が少し意外で、俺は隣を見る。ヴェラは前を向いたまま歩いている。
エルザが小さく頷く。
「仮組み、合うといいですね」
「はい」
三人で通りを歩く。金属を打つ音が、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
ヴェラの鞄には、見積もりではなく、注文を受け付けた札が入っていた。




