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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第四章 札がなくても

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第101話 下がる床


 ギルドを出ると、昼の日差しが石畳へ白く落ちていた。朝より人通りが増えている。荷車の車輪が石を鳴らし、通りの向こうでは焼いた肉の匂いが風に混じっていた。


「先にリンですね」


 エルザが言う。その髪際で、リンが一度揺れた。


 ちりん。


「急かされてます?」


「今のは鈴の音だけです」


「違いましたか」


「楽しみにしているのかもしれません」


「鼻歌みたいな感じですかね」


「それなら可愛いです」


 ヴェラが小さく笑った。


 三人で通りを曲がる。人の流れから少し外れた石台の上に、見慣れた女神像が立っていた。足元には小さな花が数本と、乾いた木の実が置かれている。誰が置いたのかは知らない。


 女神像そのものは、何度見ても動かない。当然だ。


 近づくと、エルザの髪際にいたリンが離れた。迷う様子もなく女神像の前へ向かい、白い光のまま石の肩のあたりを二周する。それから像の正面で止まった。


 鈴の音はしない。通りから聞こえる人声と、荷車の音だけが続いている。


「静かですね」


 ヴェラが声を落とした。


「食べてる最中ですからね」


「食べているようには見えませんけど」


「俺たちと同じだったら怖いですよ。女神像を齧り始めたら止めないと」


 エルザがこちらを見る。


「リンはそんなことはしません」


 少し怒られた気がする。


「分かってますよ」


 少し待つ。リンの輪郭がゆっくり明るくなっていく。眩しくなるほどではなく、薄かった白が少しだけはっきりする。俺には、それ以上のことは分からない。


 女神像の脇を風が抜け、供えられていた花の細い茎が揺れた。


 しばらくして、リンが像から離れた。エルザのところへ戻り、耳の横を一度回る。


 ちりん。


「今度は?」


「『いっぱい』です」


「食べ終わったみたいですね」


「はい」


「では、今度は私たちですね」


 ヴェラが通りの向こうを見る。ちょうど風向きが変わり、焼いた肉の匂いがもう一度届いた。


「賛成です」


 俺は即答した。


「ノワールさんは分かりやすいですね」


「鼻歌は聴かせませんよ」


 三人で〈鈍色亭〉へ向かった。


◆


 翌朝。


 冒険者ギルドの掲示板を眺めていると、エルザが一枚の札の前で目を止めた。


「これ、左の通路ですね」


「この前行った方ですか?」


「はい」


 札を見る。


 〈灰石の口〉第一層、第三道標先。第一分岐左側の再確認区間。曲がり角より先の傾斜区間から、最初の平坦部まで。


「俺たちが戻った先ですね」


「位置としては、そうだと思います」


 ヴェラも札を覗く。


「再確認、と書いてありますね」


「聞いてみましょう」


 三人で受付へ向かった。


 ミラは札を見ると、地図を広げた。


「左側通路の再確認ですね」


「この前の依頼とは別ですか?」


「はい。左側は少し前に、記録と通路の形が違うという報告が出ています。それから区間を分けて再確認しています」


 地図を見る。第一分岐の左側には、前に確認した二つの白墨と曲がり角が記され、そこから先へ古い線がもう少し続いている。


「前に受けた曲がり角までの確認も、その再確認の一つだったんですか?」


「そうです」


 なるほど。


 俺たちが報告したから、急にその先を調べることになったわけではない。最初から区切って確かめ直しているらしい。


 ミラの指が曲がり角で止まった。


「今回はこちらからです」


 指が少し下へ動く。


「以前の記録では、曲がった先で傾斜が少し強くなっています。その先に一度平らになる場所がありますので、そこまで」


「さらに先は?」


「今回の依頼には含みません」


「分かりました」


 話は簡単だ。ただ、地図の線だけでは足元までは分からない。


「どのくらい下ります?」


「急坂という記録ではありません。ただ、床に細かい石が溜まりやすいそうです」


 前に歩いた左側通路にも、小石は多かった。


「白墨は?」


「曲がり角までは確認済みです。その先にも古い印が一つあるはずです。残っていれば状態を確認してください」


 エルザが頷く。


「通行確認と、白墨印一箇所ですね」


「はい。崩れ、漏水、床の大きな変化があれば、それ以上進まず戻ってください」


「魔物は?」


「遭遇した場合は安全を優先してください。討伐は依頼条件ではありません」


 ヴェラが地図を見る。


「最初の平坦部までなら、受けられると思います」


「私も大丈夫です」


「俺も」


 三人の名前を書く。依頼票と白墨を受け取った。


◆


 〈灰石の口〉の入口は、昨日と変わらなかった。


 ガイルが依頼票を見る。


「また左か」


「少しだけ先です」


「今度は下りがきつくなる辺りだな」


「知ってるんですか?」


「入口に立ってりゃ、地図を何度も見るからな」


「そうでした」


「滑って転ぶなよ」


「そこまで子供じゃないですよ」


 ガイルは返事をせず、三枚の木札を差し出した。


 何も言わないのが少し気になる。


「あの、俺が転ぶと本気で思われてますか?」


「早く行け」


「はい」


 三人で木札を受け取り、階段を下りる。外の明るさが背中側へ遠ざかり、石の冷たさが戻ってきた。


 第一道標で木札へ印を入れる。乾いた打刻音が通路へ響いた。第二、第三道標と進むほど、外で服に残っていた日差しの温かさが消えていく。壁には湿った匂いがあり、靴底と石が擦れる音の中で、エルザの灯りが三人分の影を足元へ伸ばしていた。


 第一分岐へ着き、左へ入る。前に歩いた道だ。一つ目、二つ目の白墨もどちらも残っている。


 リンはエルザの髪際で、歩みに合わせて小さく上下していた。


 曲がり角へ着く。


「ここからですね」


 ヴェラが足を止めた。


「はい」


 俺も灯りの先を見る。


 前はここで戻った。


 角の先へ一歩出る。それまでより、床の傾きがはっきりした。


◆


 急ではない。立っているだけなら、それほど気にならない。


 けれど、灯りを低く向けると、床の線がさっきまでより強く下へ伸びていた。細かな灰色の石が傾斜に沿って何本か筋を作り、壁際には砂が薄く溜まっている。


 ヴェラがしゃがみ、床へ手を触れる。指先で小石を一つ動かす。


 ころ。


 石は少し転がり、そのまま二つ、三つと下へ跳ねた。乾いた音が遠ざかる。


「思ったより動きますね」


「そうですね」


 ヴェラが立ち上がり、丸盾の位置を直した。


「私が先に行きます」


「お願いします」


 ヴェラは最初の一歩を置き、続けて少し壁側へ寄った。真っ直ぐには下りず、靴裏で石を確かめてから体重を移している。


「この辺りは大丈夫です」


 俺も入り、一歩足を置く。床そのものは硬い。その上の細かい石だけが動く。


 普段と同じように前へ重さを乗せると、靴底がわずかにずれた。


「おっと」


 すぐ足を戻す。


「大丈夫ですか?」


 エルザの声が後ろから来る。


「はい。今のは俺が雑でした」


 もう一度足を置き、今度は少し待つ。靴底が止まったのを確かめてから身体を乗せる。その方が滑らない。


 そのまま下る。エルザも後ろから続いた。


 灯りが壁を滑る。ところどころ黒く濡れた場所があるが、水が流れるほどではない。天井は前より少し低く、声を出すと短く返ってくる。


 少し進んだところで、ヴェラが止まった。


「右側の方が歩きやすいです」


 見ると、左側には細かな石が多く、右は岩肌が出ている。


「右へ寄ります」


「はい」


 順に位置をずらす。


 俺の後ろで、エルザの靴が小石を踏んだ。


 しゃり。


 すぐ止まる。


「大丈夫です」


 言われる前に声が来た。


「はい」


 また進む。


 リンだけは床に関係なく、エルザの横を漂っていた。


◆


 坂の途中、右の壁に古い白墨が残っていた。縦に短い一本で、下側がかなり薄れている。


「これですね」


 エルザが手帳と見比べた。


「位置は合っています」


「補修します?」


「はい。形は残っていますから」


 ヴェラが荷袋から白墨を取り出し、エルザへ渡した。エルザが薄れた下側を、残っている線に沿って引き直す。


 俺とヴェラは足元、坂の下、来た道を順に確かめる。見える範囲に動くものはなく、水の音もしない。


 白墨が石を擦る音が止んだところで、遠くから別の硬い音が一度だけ鳴った。


 かつん。


 三人とも止まる。


「今の、私たちが蹴った石でしょうか」


 ヴェラが坂の下を見る。


「分かりません」


 灯りを向ける。灰色の床と小石、その先はまだ暗い。耳を澄ましたが、もう一度は聞こえなかった。


「一度止まって、どうするか決めましょう」


 俺が言う。


 ヴェラが坂の下を見たまま答える。


「依頼範囲までは行けると思います。ただ、足元は慎重に」


「私も大丈夫です」


 エルザが白墨をしまう。


「俺も同意します。では行きましょう」


 坂を下る。さっきまで以上に、足元を確かめながら進んだ。


◆


 傾斜が少しずつ緩くなり、靴底へかかっていた前向きの重さが減った。ヴェラが先に平らな場所へ降りる。


「ここだと思います」


 俺も続く。床は水平に近く、三人が並べる程度の広さがある。右の壁が少し奥へ引っ込み、立ち止まれる場所になっていた。


 俺は一度振り返った。今下りてきた坂が灯りの向こうへ伸びている。上から見た時より、こちらから見上げた方が傾斜が分かりやすい。


「帰りは上りですね」


「はい」


「当たり前ですけど、今より楽かどうかは分かりませんね」


 ヴェラが自分の足元を見る。


「小石を踏めば、上りでも滑ると思います」


「ですよね」


 エルザが手帳を開き、壁際の状態、白墨、傾斜、床の細石、平坦部について必要なものだけを書いていく。


 俺はその間、平坦部の先を見る。通路はさらに向こうへ続き、灯りの端ではまた床が少し下がっているように見える。


 依頼はここまでだ。


「何かありますか?」


 エルザが聞く。


「いえ。先は続いてます」


「では、戻りましょうか」


「はい」


 ヴェラが頷く。


 リンが髪際で一度鳴った。


 ちりん。


 白い光は、そのままいつもの場所で揺れていた。


 俺たちは来た坂へ向き直った。


◆


 上り始めてすぐ、小石が靴の下で動き、足が後ろへずれた。壁へ手を伸ばすほどではない。その場で止まり、足を置き直す。


「下りだけじゃないですね」


「はい。上りでも後ろへ滑ります」


 ヴェラが前から答えた。


「ですよね」


 来た時より足を置く場所を選び、さっき補修した白墨まで戻る。位置も変わっていない。


 その先も、来た時と同じように岩肌の出ている側へ足を置き、細かな石を避けて進む。やがて曲がり角が見え、傾斜が緩んだ。


 角を抜けたところで一度止まり、後ろを見る。


 誰も転んでいない。


 白墨もそのまま。


「戻れましたね」


「まだ入口ではありませんよ」


 エルザに言われる。


「分かってます」


「なら良かったです」


 ヴェラが先へ向き、来た道を戻る。二つの白墨を過ぎて第一分岐へ出たあとは、第三、第二、第一道標と順に戻った。三枚の木札に増えた印を見ながら、階段へ向かった。


◆


 地上へ出ると、入口の光が妙に明るく感じた。ガイルへ三枚の木札を返す。


「どうだった」


「曲がった先で傾斜が少し強くなってました。細かい石が多いです」


「白墨は?」


「一箇所。薄くなっていたので補修しました」


「平らなところまでは?」


「行けました」


 ガイルが三枚の木札を重ねた。


「転ばなかったか」


「転んでません」


 ガイルが俺の頭から足元まで視線を動かす。


「そうか」


「ちょっと残念そうに聞こえるんですけど」


「気のせいだ」


 絶対違う気がする。


 依頼票へ帰還確認をもらい、ギルドへ戻った。


◆


 ミラへ報告する。


 エルザが手帳を開いた。


「曲がり角から先、記録通り傾斜が強くなっています。床には細かな石が多く、特に左側へ溜まっていました」


「通行は?」


「可能です。ただ、滑りやすいです」


 ヴェラが答える。


「右側は岩肌が出ている場所が多く、そちらの方が足を置きやすかったです」


「白墨は一箇所ありました。位置は記録と一致しています。下側が薄れていたので、元の形に沿って補修しました」


 エルザが続ける。


「平坦部までの間に、大きな崩れや著しい漏水はありません」


「音が一度だけしました」


 俺も付け加えた。


「硬いものが当たったような音です。再発はありませんでした。原因も確認できてません」


 ミラのペンが止まる。


「……場所は?」


「白墨の少し先です」


「……分かりました。単発で、原因不明ですね」


「はい」


「平坦部より先には?」


「入ってません」


「ありがとうございます」


 依頼票へ印が押された。


「これで完了です」


 報酬を受け取る。エルザがぱたんと手帳を閉じた。


「次はどうします?」


 俺が聞くとエルザが横目で見る。


「……今日はもうダンジョンに潜りませんよ」


「今日じゃなくてですね」


「それなら良いですが、言い出しかねませんから」


 さすがに俺もそこまでじゃない。


 ヴェラがこちらを見る。


「また先の依頼が出たら、行きますか?」


「内容を見てから、ですかね」


「そうですね」


 そこから先にも、道は続いていた。


 けれど、今日は平らな場所まで。


 それで仕事は終わりだった。


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