第101話 下がる床
ギルドを出ると、昼の日差しが石畳へ白く落ちていた。朝より人通りが増えている。荷車の車輪が石を鳴らし、通りの向こうでは焼いた肉の匂いが風に混じっていた。
「先にリンですね」
エルザが言う。その髪際で、リンが一度揺れた。
ちりん。
「急かされてます?」
「今のは鈴の音だけです」
「違いましたか」
「楽しみにしているのかもしれません」
「鼻歌みたいな感じですかね」
「それなら可愛いです」
ヴェラが小さく笑った。
三人で通りを曲がる。人の流れから少し外れた石台の上に、見慣れた女神像が立っていた。足元には小さな花が数本と、乾いた木の実が置かれている。誰が置いたのかは知らない。
女神像そのものは、何度見ても動かない。当然だ。
近づくと、エルザの髪際にいたリンが離れた。迷う様子もなく女神像の前へ向かい、白い光のまま石の肩のあたりを二周する。それから像の正面で止まった。
鈴の音はしない。通りから聞こえる人声と、荷車の音だけが続いている。
「静かですね」
ヴェラが声を落とした。
「食べてる最中ですからね」
「食べているようには見えませんけど」
「俺たちと同じだったら怖いですよ。女神像を齧り始めたら止めないと」
エルザがこちらを見る。
「リンはそんなことはしません」
少し怒られた気がする。
「分かってますよ」
少し待つ。リンの輪郭がゆっくり明るくなっていく。眩しくなるほどではなく、薄かった白が少しだけはっきりする。俺には、それ以上のことは分からない。
女神像の脇を風が抜け、供えられていた花の細い茎が揺れた。
しばらくして、リンが像から離れた。エルザのところへ戻り、耳の横を一度回る。
ちりん。
「今度は?」
「『いっぱい』です」
「食べ終わったみたいですね」
「はい」
「では、今度は私たちですね」
ヴェラが通りの向こうを見る。ちょうど風向きが変わり、焼いた肉の匂いがもう一度届いた。
「賛成です」
俺は即答した。
「ノワールさんは分かりやすいですね」
「鼻歌は聴かせませんよ」
三人で〈鈍色亭〉へ向かった。
◆
翌朝。
冒険者ギルドの掲示板を眺めていると、エルザが一枚の札の前で目を止めた。
「これ、左の通路ですね」
「この前行った方ですか?」
「はい」
札を見る。
〈灰石の口〉第一層、第三道標先。第一分岐左側の再確認区間。曲がり角より先の傾斜区間から、最初の平坦部まで。
「俺たちが戻った先ですね」
「位置としては、そうだと思います」
ヴェラも札を覗く。
「再確認、と書いてありますね」
「聞いてみましょう」
三人で受付へ向かった。
ミラは札を見ると、地図を広げた。
「左側通路の再確認ですね」
「この前の依頼とは別ですか?」
「はい。左側は少し前に、記録と通路の形が違うという報告が出ています。それから区間を分けて再確認しています」
地図を見る。第一分岐の左側には、前に確認した二つの白墨と曲がり角が記され、そこから先へ古い線がもう少し続いている。
「前に受けた曲がり角までの確認も、その再確認の一つだったんですか?」
「そうです」
なるほど。
俺たちが報告したから、急にその先を調べることになったわけではない。最初から区切って確かめ直しているらしい。
ミラの指が曲がり角で止まった。
「今回はこちらからです」
指が少し下へ動く。
「以前の記録では、曲がった先で傾斜が少し強くなっています。その先に一度平らになる場所がありますので、そこまで」
「さらに先は?」
「今回の依頼には含みません」
「分かりました」
話は簡単だ。ただ、地図の線だけでは足元までは分からない。
「どのくらい下ります?」
「急坂という記録ではありません。ただ、床に細かい石が溜まりやすいそうです」
前に歩いた左側通路にも、小石は多かった。
「白墨は?」
「曲がり角までは確認済みです。その先にも古い印が一つあるはずです。残っていれば状態を確認してください」
エルザが頷く。
「通行確認と、白墨印一箇所ですね」
「はい。崩れ、漏水、床の大きな変化があれば、それ以上進まず戻ってください」
「魔物は?」
「遭遇した場合は安全を優先してください。討伐は依頼条件ではありません」
ヴェラが地図を見る。
「最初の平坦部までなら、受けられると思います」
「私も大丈夫です」
「俺も」
三人の名前を書く。依頼票と白墨を受け取った。
◆
〈灰石の口〉の入口は、昨日と変わらなかった。
ガイルが依頼票を見る。
「また左か」
「少しだけ先です」
「今度は下りがきつくなる辺りだな」
「知ってるんですか?」
「入口に立ってりゃ、地図を何度も見るからな」
「そうでした」
「滑って転ぶなよ」
「そこまで子供じゃないですよ」
ガイルは返事をせず、三枚の木札を差し出した。
何も言わないのが少し気になる。
「あの、俺が転ぶと本気で思われてますか?」
「早く行け」
「はい」
三人で木札を受け取り、階段を下りる。外の明るさが背中側へ遠ざかり、石の冷たさが戻ってきた。
第一道標で木札へ印を入れる。乾いた打刻音が通路へ響いた。第二、第三道標と進むほど、外で服に残っていた日差しの温かさが消えていく。壁には湿った匂いがあり、靴底と石が擦れる音の中で、エルザの灯りが三人分の影を足元へ伸ばしていた。
第一分岐へ着き、左へ入る。前に歩いた道だ。一つ目、二つ目の白墨もどちらも残っている。
リンはエルザの髪際で、歩みに合わせて小さく上下していた。
曲がり角へ着く。
「ここからですね」
ヴェラが足を止めた。
「はい」
俺も灯りの先を見る。
前はここで戻った。
角の先へ一歩出る。それまでより、床の傾きがはっきりした。
◆
急ではない。立っているだけなら、それほど気にならない。
けれど、灯りを低く向けると、床の線がさっきまでより強く下へ伸びていた。細かな灰色の石が傾斜に沿って何本か筋を作り、壁際には砂が薄く溜まっている。
ヴェラがしゃがみ、床へ手を触れる。指先で小石を一つ動かす。
ころ。
石は少し転がり、そのまま二つ、三つと下へ跳ねた。乾いた音が遠ざかる。
「思ったより動きますね」
「そうですね」
ヴェラが立ち上がり、丸盾の位置を直した。
「私が先に行きます」
「お願いします」
ヴェラは最初の一歩を置き、続けて少し壁側へ寄った。真っ直ぐには下りず、靴裏で石を確かめてから体重を移している。
「この辺りは大丈夫です」
俺も入り、一歩足を置く。床そのものは硬い。その上の細かい石だけが動く。
普段と同じように前へ重さを乗せると、靴底がわずかにずれた。
「おっと」
すぐ足を戻す。
「大丈夫ですか?」
エルザの声が後ろから来る。
「はい。今のは俺が雑でした」
もう一度足を置き、今度は少し待つ。靴底が止まったのを確かめてから身体を乗せる。その方が滑らない。
そのまま下る。エルザも後ろから続いた。
灯りが壁を滑る。ところどころ黒く濡れた場所があるが、水が流れるほどではない。天井は前より少し低く、声を出すと短く返ってくる。
少し進んだところで、ヴェラが止まった。
「右側の方が歩きやすいです」
見ると、左側には細かな石が多く、右は岩肌が出ている。
「右へ寄ります」
「はい」
順に位置をずらす。
俺の後ろで、エルザの靴が小石を踏んだ。
しゃり。
すぐ止まる。
「大丈夫です」
言われる前に声が来た。
「はい」
また進む。
リンだけは床に関係なく、エルザの横を漂っていた。
◆
坂の途中、右の壁に古い白墨が残っていた。縦に短い一本で、下側がかなり薄れている。
「これですね」
エルザが手帳と見比べた。
「位置は合っています」
「補修します?」
「はい。形は残っていますから」
ヴェラが荷袋から白墨を取り出し、エルザへ渡した。エルザが薄れた下側を、残っている線に沿って引き直す。
俺とヴェラは足元、坂の下、来た道を順に確かめる。見える範囲に動くものはなく、水の音もしない。
白墨が石を擦る音が止んだところで、遠くから別の硬い音が一度だけ鳴った。
かつん。
三人とも止まる。
「今の、私たちが蹴った石でしょうか」
ヴェラが坂の下を見る。
「分かりません」
灯りを向ける。灰色の床と小石、その先はまだ暗い。耳を澄ましたが、もう一度は聞こえなかった。
「一度止まって、どうするか決めましょう」
俺が言う。
ヴェラが坂の下を見たまま答える。
「依頼範囲までは行けると思います。ただ、足元は慎重に」
「私も大丈夫です」
エルザが白墨をしまう。
「俺も同意します。では行きましょう」
坂を下る。さっきまで以上に、足元を確かめながら進んだ。
◆
傾斜が少しずつ緩くなり、靴底へかかっていた前向きの重さが減った。ヴェラが先に平らな場所へ降りる。
「ここだと思います」
俺も続く。床は水平に近く、三人が並べる程度の広さがある。右の壁が少し奥へ引っ込み、立ち止まれる場所になっていた。
俺は一度振り返った。今下りてきた坂が灯りの向こうへ伸びている。上から見た時より、こちらから見上げた方が傾斜が分かりやすい。
「帰りは上りですね」
「はい」
「当たり前ですけど、今より楽かどうかは分かりませんね」
ヴェラが自分の足元を見る。
「小石を踏めば、上りでも滑ると思います」
「ですよね」
エルザが手帳を開き、壁際の状態、白墨、傾斜、床の細石、平坦部について必要なものだけを書いていく。
俺はその間、平坦部の先を見る。通路はさらに向こうへ続き、灯りの端ではまた床が少し下がっているように見える。
依頼はここまでだ。
「何かありますか?」
エルザが聞く。
「いえ。先は続いてます」
「では、戻りましょうか」
「はい」
ヴェラが頷く。
リンが髪際で一度鳴った。
ちりん。
白い光は、そのままいつもの場所で揺れていた。
俺たちは来た坂へ向き直った。
◆
上り始めてすぐ、小石が靴の下で動き、足が後ろへずれた。壁へ手を伸ばすほどではない。その場で止まり、足を置き直す。
「下りだけじゃないですね」
「はい。上りでも後ろへ滑ります」
ヴェラが前から答えた。
「ですよね」
来た時より足を置く場所を選び、さっき補修した白墨まで戻る。位置も変わっていない。
その先も、来た時と同じように岩肌の出ている側へ足を置き、細かな石を避けて進む。やがて曲がり角が見え、傾斜が緩んだ。
角を抜けたところで一度止まり、後ろを見る。
誰も転んでいない。
白墨もそのまま。
「戻れましたね」
「まだ入口ではありませんよ」
エルザに言われる。
「分かってます」
「なら良かったです」
ヴェラが先へ向き、来た道を戻る。二つの白墨を過ぎて第一分岐へ出たあとは、第三、第二、第一道標と順に戻った。三枚の木札に増えた印を見ながら、階段へ向かった。
◆
地上へ出ると、入口の光が妙に明るく感じた。ガイルへ三枚の木札を返す。
「どうだった」
「曲がった先で傾斜が少し強くなってました。細かい石が多いです」
「白墨は?」
「一箇所。薄くなっていたので補修しました」
「平らなところまでは?」
「行けました」
ガイルが三枚の木札を重ねた。
「転ばなかったか」
「転んでません」
ガイルが俺の頭から足元まで視線を動かす。
「そうか」
「ちょっと残念そうに聞こえるんですけど」
「気のせいだ」
絶対違う気がする。
依頼票へ帰還確認をもらい、ギルドへ戻った。
◆
ミラへ報告する。
エルザが手帳を開いた。
「曲がり角から先、記録通り傾斜が強くなっています。床には細かな石が多く、特に左側へ溜まっていました」
「通行は?」
「可能です。ただ、滑りやすいです」
ヴェラが答える。
「右側は岩肌が出ている場所が多く、そちらの方が足を置きやすかったです」
「白墨は一箇所ありました。位置は記録と一致しています。下側が薄れていたので、元の形に沿って補修しました」
エルザが続ける。
「平坦部までの間に、大きな崩れや著しい漏水はありません」
「音が一度だけしました」
俺も付け加えた。
「硬いものが当たったような音です。再発はありませんでした。原因も確認できてません」
ミラのペンが止まる。
「……場所は?」
「白墨の少し先です」
「……分かりました。単発で、原因不明ですね」
「はい」
「平坦部より先には?」
「入ってません」
「ありがとうございます」
依頼票へ印が押された。
「これで完了です」
報酬を受け取る。エルザがぱたんと手帳を閉じた。
「次はどうします?」
俺が聞くとエルザが横目で見る。
「……今日はもうダンジョンに潜りませんよ」
「今日じゃなくてですね」
「それなら良いですが、言い出しかねませんから」
さすがに俺もそこまでじゃない。
ヴェラがこちらを見る。
「また先の依頼が出たら、行きますか?」
「内容を見てから、ですかね」
「そうですね」
そこから先にも、道は続いていた。
けれど、今日は平らな場所まで。
それで仕事は終わりだった。




