第100話 持って帰るだけ
翌朝、冒険者ギルドへ入ると、朝の混雑がまだ残っていた。受付の前では数人が順番を待ち、掲示板の近くでは剥がされた依頼札が一束にまとめられている。開いた扉から入る朝の光が、石床の端だけを明るくしていた。
エルザはいつもの場所にいて、ヴェラも一緒だった。リンはエルザの髪際に収まり、昨日のように前へ出ることもなく、白い光が髪の横でゆっくり揺れている。
挨拶をしながら、もう一度リンを見る。
ちりん。
「何です?」
思わず聞く。
エルザがリンへ目を向けた。
「『なに』だそうです」
「こっちが聞いたんですけどね」
「先に見たのはノワールさんですよ」
チンピラなのかな?
「見ただけですよ。そのくらい許してください」
昨日のことを聞いてみようかとは思った。何であんなに動いていたのか。途中で、どうして鈴の音しか聞こえなかったのか。
ただ、それを聞いて何が分かるのかも分からない。リンはもう、いつもの場所にいる。
「今日は何かありました?」
掲示板へ顔を向け、人の隙間から並んだ札を見る。
「一つ、簡単そうなものが」
エルザが札を示した。
〈灰石の口〉第一層。
第三道標手前。
補修班仮置き品の回収。
回収物三点。
地上まで搬出。
「持って帰るだけですか?」
「書いてある限りでは」
札を読む。昨日、第一層の通路補修を行った班が、交換した金具や余った縄をまとめて残しているらしい。新しい資材を運び込む方を優先したため、帰りに全部は持ち出さなかった。
三つの麻袋に分け、通行の邪魔にならない場所へ置いてある。今日中に地上へ戻す。
それだけだ。
「本当に持って帰るだけですね」
「私たちの倒した獣を回収してくれた人たちも、こういった依頼を受けていたんですね」
ヴェラが札を見る。
「場所も第三道標の手前なら、それほど遠くありませんね」
「受けます?」
「私は大丈夫です」
「私も」
「じゃあ聞いてみましょう」
三人で受付へ向かった。
◆
ミラに札を渡す。机の上では、別の依頼票をまとめた紙の端が少し反っていた。隣の受付から硬貨を数える小さな音が聞こえてくる。
「こちらですね」
「はい。三つ運ぶだけで合ってます?」
「基本的にはそれだけです」
基本的には。
少し嫌な言葉だ。
ミラが地図を開く。紙が机の上で擦れ、端がこちらへ滑ってきた。
「第二道標を過ぎて、第三道標へ向かう途中です。本道の右側に少し広くなった場所があります」
指先が止まる。
「ここへ三袋まとめてあります。昨日の補修班から、袋の口と荷札は確認済みと報告されています」
「中身は?」
「外した金具、使わなかった縄、木製の楔などです。危険物はありません」
「重さはどれくらいですか?」
「一袋だけ少し重いそうです」
エルザがこちらを見た。
「何です?」
「まだ何も言っていません」
「顔が言ってます。一番重いものを持とうとしている顔です」
「いつもながらひどい言いがかりですね」
「そう見えるのですから仕方ありません」
ヴェラまでうんうんと頷いた。
「何故かそう見えてしまうから不思議です」
そこまで言われると、どんな顔をしているのか見せてほしい。
「まだ現物も見てないですよ」
「ですから、見てから決めましょう」
「はい」
ミラが小さく笑いながら地図を畳み、受諾票を出した。
「三点すべて揃って戻れば完了です。途中で袋が破れた場合は、中身を回収してそのまま持ち帰ってください」
「分かりました」
三人の名前を書く。ペン先が紙を擦る。最後に俺が名前を書き、依頼票を受け取った。
◆
〈灰石の口〉へ入る。階段を下りるにつれ、地上の明るさが背中側へ遠ざかっていった。外で温まっていた服から、少しずつ熱が抜けていく。
第一道標、第二道標と進む。石壁の湿った匂いも、靴の下で小石が鳴る音も昨日と大きく変わらない。俺が前を歩き、少し後ろにヴェラ、その後ろをエルザが続く。リンはずっとエルザのそばだった。
第三道標へ続く道へ入ったところで、一度だけ振り返る。エルザの灯りが壁へ揺れ、その横でリンが白く浮いていた。髪際からこちらへ来る様子もない。
「どうしました?」
「いえ」
前へ戻る。
それだけだった。
しばらく進むと、右側の壁が少し引っ込んだ場所に麻袋が三つ並んでいた。壁際へ寄せられ、通路の幅は残されている。乾いた麻の匂いが、湿った岩の匂いに少し混じった。
「あれですね」
ヴェラが言う。
「荷札を見ます」
エルザがしゃがむ。一つ目、二つ目、三つ目と、札を指で押さえながら確認する。
「三点。依頼票と合っています」
袋の口も閉じていて、破れもない。縄には細かな麻の毛羽が立っていた。
「では」
一番大きな袋へ手を伸ばす。
「ノワールさん」
「はい」
「まだ重さを比べていません」
「持てそうだったので」
「そういう話をさっきしましたよね?」
「しましたね」
手を離した。
ヴェラが一つずつ持ち上げ、俺も続けて確かめた。一つ目は軽く、持ち上げると中で木が擦れる音がした。二つ目も同じくらい。三つ目の縄を握って持ち上げる。
掌へ重さが一気にかかった。確かに重い。袋の中で、硬いもの同士が低くぶつかる。
持てないほどではない。
「これだけ金具が多そうですね」
床へ戻すと、ごとりと鈍い音がした。
「どうします?」
ヴェラが聞く。
「順番に持ち替えますか?」
エルザが提案した。
「三人で?」
「はい。一人だけずっと重いものを持つ必要もありませんから」
「俺は別に大丈夫ですよ」
「そう言うと思いました」
「では、持ち替えましょう」
ヴェラも賛成した。
「どのくらいで?」
「道標ごとでどうでしょう」
「分かりました」
エルザが立ち上がった。
「最初は私が重い方を持ちます」
「いいんですか?」
「言い出したのは私ですから」
俺が松明を受け取ると、エルザが両手で袋を持ち上げた。麻袋の底が一度床を擦った。
「……重いです」
「代わります?」
「代わると思いますか?」
「思いません」
「わかっているなら良かったです」
ヴェラが口元を押さえた。笑っている。
「では、行きましょう」
エルザが袋を抱え直した。荷物でエルザの上半身が隠されて、頭だけが荷物の向こうから覗いている。リンがその頭の横で揺れる。
ちりん。
「何て?」
「笑われました」
「リンに?」
「たぶん」
「仲間がいてよかったです」
「……ノワールさんも同じ気持ちなんですね」
俺は無言で軽い方の袋を持った。片手で持てるほど軽い。麻のざらつきが指先に残った。
◆
帰りは行きより遅くなった。袋があるだけで、同じ通路でも歩き方が少し変わる。片手が塞がり、身体の横に重さがぶら下がる。歩くたび、袋の中で木片が小さく擦れた。
エルザは重い袋を身体の前で抱えている。袋の角が胸当てへ当たって、歩くたび少しずつ位置がずれていた。
「足元、大丈夫ですか?」
「はい。少し見えにくいですけど」
「無理なら言ってください」
「まだ大丈夫です」
来た時より、一歩ごとに足元を見る時間が増えている。エルザが小石を踏むたび、抱えた袋がわずかに揺れた。
「……本当に大丈夫ですか?」
「……しつこいです」
いつもより低い声が返ってきた。もう聞けない。
第二道標まで戻り、袋を一度置いた。三つの荷物が石床へ順に落ち着く。
「交代ですね」
エルザがすぐに手を離すと、大きな息をついた。両手を一度開いて閉じる。
何故か俺もほっとした。
「大変だったでしょう?」
「大丈夫です」
エルザは即答した。それ以上絡むと良くない流れになりそうだったので、無言で松明をエルザに返す。
俺がヴェラの袋を受け取り、今度はヴェラが重い袋を持つ。エルザは俺が持っていた方へ。
「こっち、軽いですね。ヴェラさん大丈夫ですか?」
エルザがヴェラに声をかける。
「はい。このくらいなら問題ありません」
歩き出す。ヴェラは重さを確かめるように一度持ち直しただけで、そのまま進んだ。袋の中で金具が一度鳴る。
それからしばらくは、三人分の足音と、荷物が擦れる音だけが続いた。曲がり角を一つ抜ける。
「止まってください」
ヴェラの声。
足を止めると、後ろの足音も止まった。
「どうしました?」
「ノワール様の袋です」
俺が持つ袋の口を縛っている縄が少しずれていた。結び目そのものは残っているが、このまま歩けば緩むかもしれない。
「あ、本当ですね」
袋を床へ置こうとする。
「ノワール様、そのままで大丈夫です。おろすと持ち上げる時大変です」
それはヴェラも同じではないかと思ったが、言う前にヴェラが自分の袋を先におろしていたので言わないでおいた。エルザも何か言おうとしていたが、間に合わなかったらしい。
俺の前へ来る。俺は袋を身体へ寄せ、空いた手を底へ回した。
ヴェラが縄を一度ほどき、袋の口を寄せ直す。麻縄が擦れる細い音がした。結び直す手は早い。エルザも近づいてきた。
「切れてはいませんか?」
「大丈夫です。緩んだだけだと思います」
ヴェラが結び目を一度、もう一度と引く。袋の口がしっかり締まる。
「これなら大丈夫です」
「ありがとうございます」
「はい」
ヴェラは自分の袋へ戻った。俺は通路の前後と、灯りの届く石壁を見回す。聞こえるのは、水滴が遠くで落ちる音と、俺たちの呼吸くらいだ。
「行けそうですか?」
「はい」
「では行きましょう」
荷物を持ち直すと、また足音が続き始めた。
◆
第一道標で、最後の交代をした。ここまで来ると、入口から差し込む明るさがほんの少し見える。
「次は俺ですね」
「お願いします」
重い袋を受け取る。縄を握った瞬間、今までの袋とは違う重さが腕へかかった。
「……確かに重いですね」
「でしょう?」
エルザがすぐに言った。
「でも持てます」
「そこは分かっています」
「じゃあ最初から俺でよかったんじゃ」
「駄目です」
「何でです?」
「そういう話ではありません」
どういう話だったんだろう。
ヴェラが少し先を歩きながら言う。
「三人で受けた依頼ですから」
「それはそうですけど」
重い袋を持ち直す。麻縄が掌へ食い込む。金具らしいものが、中でごつりと動いた。重さが少し横へずれ、身体もそれに合わせて傾く。
ヴェラが振り返った。
「ノワール様」
「はい」
「今、少し嬉しそうです」
「え? ……重いものを持ってるから?」
「はい」
そんなことで喜ぶ変な趣味はない。
「そんなことないですよ」
後ろからエルザの声が来る。
「あります」
「二人とも、俺をどういう人だと思ってるんですか」
ちりん。
三人ともリンを見る。
「今のは?」
エルザが少し間を置いた。
「言いません」
「どうしてですか?」
めずらしくヴェラが食い下がる。
「ノワールさんの尊厳のためです」
「俺がめちゃくちゃ気になるんですけど」
リンはもう鳴かなかった。入口へ近づくにつれて、冷えていた頬に少しだけ外の空気が混じり始めた。
◆
階段を上がり、地上へ出る。朝より高くなった日差しが目に入り、一度瞬きをする。地下の湿った匂いの代わりに、土と人のいる場所の匂いが戻ってきた。
入口脇の係員へ依頼票を見せた。
「回収三点です」
「そこへ置いてくれ」
三つの袋を並べる。重い袋を床へ下ろすと、腕が急に軽くなった。指を一度開くと、縄の跡が掌に薄く残っていた。
係員が荷札を一枚ずつ確認する。
「揃ってるな」
最後に袋の口を見る。
「ん? こっちは結び直したか?」
見破られた。
すごい。
「途中で少し緩んでいたので」
ヴェラが答えた。
「中身は落としていません」
「なら問題ない」
係員が袋の口を軽く引き、依頼票へ印を入れる。
「ギルドで精算してくれ」
「はい」
持ってきた三袋は、そのまま入口脇に残った。俺たちの手から荷物がなくなる。
本当に、持って帰っただけで終わった。
◆
ギルドへ戻る頃には、朝より人が減り、掲示板の前にも少し隙間ができていた。ミラへ依頼票を渡す。押された印を確認し、紙を机の上へ置いた。
「三点、受領済みですね。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
報酬を受け取る。硬貨が掌へ落ちる。さっきまで握っていた麻縄とは、まるで違う感触だった。
「本当に持って帰るだけでしたね」
俺が言うと、エルザがこちらを見る。
「ええ、そういう依頼ですから」
「昨日も普通が一番って言ってましたよね」
「言いました」
「今日は普通でした」
「良かったじゃないですか」
「そうですね」
ヴェラが通りの方を見る。
「昼、どうします?」
「鈍色亭へ戻りましょうか」
「賛成です」
エルザも頷く。その髪際で、リンが鳴った。
ちりん。
「今度は何て?」
「『たべる』です」
「リンも賛成みたいですね。先に女神像に会いに行きますか」
「はい」
三人でギルドを出る。




