第99話 いつもより遠く
ドランの稽古場を出たあと、そのまま冒険者ギルドへ向かった。朝の混雑はまだ残っていて、掲示板の前には何人か集まり、受付にも短い列ができていた。
エルザとヴェラは、先に来ていた。
「おはようございます」
エルザの視線が俺の服へ向く。昨日補修した袖を見て、その次に腰の剣へ移った。
「ドランさんのところへ行ってきたんですね」
「分かります?」
「朝から木屑がついています」
肩を見ると、小さな木屑が一つ付いていた。指で払う。
「腕は?」
ヴェラが聞く。
「もう大丈夫です。普通に打ち合ってきました」
「それなら安心しました」
「今日はどうします?」
俺が掲示板を見る。
「ちょうど一つ見ていました」
エルザが札を指した。〈灰石の口〉第一層、第三道標より先。最初の分岐から左側通路。
「あっちですか」
「はい」
この前は、最初の分岐を右へ行った。細い足場を渡り、平たい岩棚の先でロイたちを見つけた。今回は、その分岐の左側だ。
札を読む。第一分岐から左側の公開路。既設の白墨印二箇所と、奥の曲がり角までの通行状態を確認する。崩落、著しい漏水、足場の変化、その他の危険があれば記録して帰還。討伐は目的に含まれない。
「普通ですね」
「普通が一番です」
エルザが言った。
「この前が普通ではありませんでしたから」
「確かに」
ヴェラも札を見る。
「距離も前回より短そうですね」
「聞いてみましょうか」
三人で受付へ向かった。
◆
ミラは札を見ると、地図を出した。
「左側ですね」
「はい」
第一分岐から左へ伸びる線は、右側ほど長くない。一度緩く曲がり、その先で線が止まっている。
「今回はこちらまでです」
指先が、線の終わりへ置かれた。
「この先は?」
ミラが少し間を置いた。
「まだ確認中のことなので、詳しくはお伝えできません。ただ、今は進まないことをおすすめします」
「危険ですか?」
「そこまでは言えません。ただ、依頼の範囲を越えて確認する必要はありません」
「分かりました」
「では、白墨と通路の確認ですね」
「そうなります」
ヴェラが地図を見る。
「受けられると思います」
「私も」
「俺も大丈夫です」
受諾票へ三人の名前を書き、ミラから白墨と依頼票を受け取った。
◆
〈灰石の口〉の入口で、ガイルへ依頼票を渡す。
「今度は左か」
「はい」
「右はしばらく行かなくていいだろ」
「俺もそう思います」
ガイルが三枚の木札を出した。
「帰ったら返せ」
「はい」
受け取って装備を確認する。リンはエルザの髪際にいる。
「行きましょう」
ヴェラが先へ向く。
三人で階段を下りた。
◆
第一道標、第二道標、第三道標と、木札へ印を増やしながら進む。前に何度も歩いた道だ。崩れた場所では足元を見て、曲がり角では先へ灯りを通し、狭くなれば縦に並ぶ。特に変わったところはない。
第三道標を過ぎたところで、リンがエルザの髪際から離れ、少しだけ前へ出た。
ちりん。
エルザが顔を上げた。
「どうしました?」
リンは戻らず、そのまま俺たちより少し前を漂った。
「珍しいですね」
俺が言う。
「何がですか?」
「今日は前に行くんだなと思って」
「そうですね」
いつもなら肩口か髪際で、離れてもすぐ近くにいることが多い。今日は松明の光の中をゆっくり左右へ動き、壁際へ寄ったかと思えば通路の中央へ出る。少し高く上がり、また下りてくる。
「今日はよく動きますね」
ヴェラもリンを見る。
「リン?」
エルザが呼んだ。
ちりん。
それでも戻ってはこない。エルザが首を傾げた。
「今のも、鈴の音だけですか?」
「はい。こういうこと自体は前にもあります。ただ、話しかければ大体答えてくれるのですが……」
エルザはそれ以上は呼ばず、俺たちも歩き続けた。
◆
最初の分岐へ着く。右側の白墨は、この前見たまま残っている。今度は左へ灯りを向けた。
入口は前に見た通り、右側より少し狭い。ただ、少し先では通路が広がっている。崖もなく、天井も十分高い。
「こっちは普通ですね」
「そういうことを言うと、何か起きそうです」
エルザが言う。
「じゃあ取り消します」
「遅いです。何か起きたらノワールさんのせいです」
「そんな決まりあります?」
ヴェラが先頭へ出る。
「足元を確認します」
「お願いします」
左へ入る。リンも一緒に曲がったが、エルザのそばには戻らない。
松明より少し先。
壁際へ寄る。
中央へ戻る。
俺たちの横を通り過ぎ、今度は後ろへ回った。
振り返ると、すぐにまた前へ出てくる。
「本当に今日はよく動きますね」
「そうですね」
エルザも少し不思議そうに目で追っている。
けれど、リンは何かを伝えるでもなく、またふわりと先へ流れていった。
◆
一つ目の白墨印は、分岐からそれほど遠くなかった。壁の低い位置に短い横線が残っている。
「残っています」
エルザが手帳と見比べる。
「少し薄いですね」
「補修しますか?」
「元の線が分かるので、上からなぞるだけで大丈夫だと思います」
白墨を重ねる。形も長さも変えず、元の線をなぞるだけだ。
ヴェラは周囲を見ている。俺も通路の前後へ意識を向ける。今のところ、近くに気になる反復はない。
白墨を引き終えたエルザが立ち上がると、その頭上をリンがふわりと横切った。
「危ないですよ」
エルザが少し身を引く。
リンはそのまま俺の方へ流れてきた。
「お、来ましたね」
手を出してみる。
リンは俺の指先より少し高いところを通り過ぎた。
「素通りですか。いつも通りで安心しました」
ちりん。
エルザが口元を緩める。
「今のは分かります?」
「分かりません。今のも鈴の音だけです」
「またですか」
リンはもう先へ行っていた。追う必要もないので、俺たちも歩き出した。
◆
左側の通路は緩く下っていて、足元には細かな石が増えていた。
「少し滑ります」
ヴェラが言う。
「右側へ寄りますか?」
「こちらの方が平らです」
壁際へ少し寄る。ヴェラが足場を選び、その後ろを俺、エルザの順で進む。
リンは前にいたかと思えば、俺とヴェラの間を横切った。
足元近くまで下りる。
また上がる。
時々、後ろへも回る。
いつもより動く範囲が広い。
「元気ですね」
俺が言う。
「今日はずっとですね」
エルザが答えた。
「疲れないんでしょうか」
ヴェラがリンを見る。
「どうなんでしょう」
三人で少しだけ見上げる。リンは俺たちを気にした様子もなく、ふわりと通路の端へ流れていった。結局、分からないままだった。
◆
二つ目の白墨印も残っていた。こちらは補修する必要がない。通路の壁、天井、床を順に見る。大きな崩れや漏水はなく、足場にも目立った変化はない。
その先で通路が左へ曲がっている。依頼の終点だ。
「ここまでですね」
エルザが地図を見る。
「曲がり角まで確認」
「はい」
ヴェラが角の手前から先へ灯りを向ける。覗き込まず、依頼範囲を越えて進むこともしない。
「見える範囲では、通路は続いています」
「では、ここで戻りましょう」
「はい」
俺も頷いた。歩き出そうとして、リンが少し離れたところにいることへ気づく。曲がり角の手前、俺たちより二、三歩ほど先で、白い光がゆっくり揺れていた。
「リン、帰りますよ」
エルザが呼ぶ。
すぐには戻らない。
ふわりと横へ動き、少しだけ高く上がった。
「リン?」
もう一度呼ばれて、ようやくこちらへ向かってくる。
エルザの周りを半周し、そのまま髪際へ収まった。
ちりん。
「今のは何て?」
俺が聞く。
エルザは少し微笑みながら答える。
「『かえる』ですって」
「お、ちゃんと答えたんですね」
「はい」
エルザは髪際へ戻ったリンを少し見ていた。
「……言葉として聞こえました」
エルザがリンを指先で軽く撫でる。リンはそこから動かなかった。
「では、戻りましょう」
ヴェラが来た道へ向き直る。
「はい」
俺たちも後へ続いた。
◆
帰り道では、リンはほとんどエルザの髪際にいた。一つ目の白墨印、分岐、第三道標、第二道標、第一道標と、来た時と同じ道を戻る。
「帰りは静かですね」
俺が言うと、エルザが横目でリンを見た。
「疲れたのでしょうか」
「さっきヴェラさんも言ってましたけど、リンって疲れるんですか?」
「分かりません」
「そこもですか」
「ノワールさんは、私がリンのことなら何でも分かると思っていませんか?」
「少しだけ」
「少しではない気がします」
ちりん。
「今のは?」
「『うるさい』です」
「それでこそリンです」
「はい」
ヴェラが小さく笑った。いつもの距離に戻ったリンを連れて、そのまま地上へ向かった。
◆
冒険者ギルドへ戻り、ミラへ報告する。
「左側通路、曲がり角まで確認しました」
「異常はありましたか?」
「一つ目の白墨が少し薄くなっていたので補修しました。二つ目は問題ありません」
エルザが手帳を開く。
「大きな崩落、著しい漏水、足場の変化は確認していません。魔物との遭遇もありませんでした」
「分かりました」
ミラが記録を確認し、依頼票へ印を押した。
「依頼達成です。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
報酬を受け取り、ギルドを出る。朝より高くなった日差しが通りへ落ちていた。
「お腹空きましたね」
俺が言う。
「ノワールさん、稽古のあとそのまま来ましたからね」
「今日は鈍色亭へ戻りますか?」
ヴェラが聞く。
「そうしましょう。普通に仕事も終わりましたし、普通に昼にしましょう」
「朝にも似たようなことを言っていませんでしたか?」
エルザが笑う。
「今度はもう終わった後なので大丈夫です」
その髪際で、リンが白く揺れた。
今度は、いつもの場所だった。




