第98話 振れない場所
翌朝。左腕を曲げ伸ばしする。傷の場所にはまだ細い赤みが残っているが、痛みはもう気にならない。強く握っても問題なかった。
「よし」
補修した上着へ腕を通す。前腕のところだけ少し濃い色になった袖が目に入った。昨日直してもらったばかりなのに、もう見慣れ始めている。
剣帯を取ったところで、一度手を止めた。今日は依頼を探す前に、行っておきたい場所がある。
◆
宿を出て職人区へ向かう途中、大通りの端に見覚えのある灰銀の髪が見えた。セイだった。朝の人波の中を、こちらへ歩いてくる。
「……セイさん、酒場から出られるんですね」
セイの足が止まった。
「坊や。朝からずいぶん失礼だね」
「いつも酒場で会うので」
「だからって住んでるわけじゃないよ」
「そうでしたね」
「今気づいたみたいに言うんじゃない」
セイの視線が俺の腰の剣へ落ちた。
「坊やはどこへ行くんだい」
「ドランさんのところです」
「朝から物好きだね」
「一緒に行きます?」
「やめとくよ」
「すぐそこですよ」
「知ってるよ」
「じゃあ、たまには」
セイは少しだけ黙った。
「……今さら行って、何を話すんだい」
「昔話とか?」
「それこそ御免だね」
そう言って、セイは片手を上げた。そのまま人の流れへ戻っていく。
嫌っているわけではなさそうだった。会う理由があれば会うのだろうか。
あの二人の会話を聞いてみたかったのに。残念。
俺も職人区へ向かう。
職人区へ入る頃、早い鐘が鳴った。金物屋の軒先にはまだ板戸が半分残り、通りを歩く人も少ない。
いつもの板垣を抜けると、乾いた土の稽古場が広がっていた。壁際には木剣が並び、その前でドランが一本を布で拭いている。
「おはようございます」
顔だけがこちらを向く。
「久しぶりだな」
「はい。依頼が続いてまして」
「そうか」
説明が終わった。もう少し何か言われると思っていた。
俺は平石の上へ銅貨を三枚置く。ドランはそれを見てから、俺の左袖へ視線を落とした。前腕のところだけ、当て布の色が少し濃い。
「それ、どうした」
「一昨日、少し切りまして」
「腕か」
「はい」
「今は」
「もう大丈夫です」
「持て」
木剣の束を顎で示された。
「はい」
一本取る。両手で握る。構える。
ドランが正面へ立った。
「来い」
踏み込む。
木剣を振る。
受けられる。
返ってきた一撃を払う。
もう一度。
木剣同士が二度、三度と鳴った。左腕は普通に動く。
次の一撃を受けようとしたところで、ドランの木剣が俺の肩へ触れた。
「余所見すんな」
「すみません」
腕を確認していたつもりはなかった。
たぶん、していた。
構え直す。
◆
何度か打ち合ったあと、ドランが木剣を下ろした。
「何しに来た」
「稽古を受けに」
「それだけなら黙って振れ」
「……相談もあります」
「先に言え」
言われてしまった。俺も木剣を下ろす。
「一昨日、ダンジョンの細い足場で魔物に襲われました」
「どのくらい細い」
「一人が通れるくらいです。右が岩壁で、左が崖でした」
「魔物は」
「左下から上がってきました。クリフクローです」
「それでそこか」
ドランが俺の左腕を見る。
「はい。最初の一撃は、左腕で顔を守りました」
「剣は」
「その時は抜いてませんでした。右手を壁についていたので」
「その後は」
「右肩と背中を壁へ預けて、剣を抜きました。横には振れなかったので、短く落として爪を外しました」
「できてんじゃねえか」
「爪を外す方は、です。剣を抜いた後に攻撃を受けたら、どうすればいいのか分かりません」
ドランが木剣を肩へ担いだ。
「最初の一発は別だな」
「はい」
「なら、剣を抜いた後をやる」
「お願いします」
「受けろ」
「ここでですか?」
「場所作る」
ドランが稽古場の端へ歩く。地面へ落ちていた細い木片を拾い、板垣の内側、壁から少し離れたところへ置いた。
壁と木片の間は、一人が立てる程度しかない。
「入れ」
「ここですか」
「崖だと思え。踏むな」
木片を指す。
「壁はこっちですか」
「見りゃ分かる」
「はい」
壁を右にして立つ。一昨日と同じだ。ただし、下を見ても崖はない。少し安心する。
「落ちた回数で次の稽古の内容を決める」
少し安心じゃなくなった。
ドランが俺の左前へ立った。
「構えろ」
木剣を身体の前へ置く。
ドランが踏み込んできた。
左から木剣が伸びる。
いつも通り払おうとする。
木剣を横へ振りかけて、右の壁が視界に入った。
止める。
その一瞬で、ドランの剣先が胸へ触れた。
「死んだな」
「壁が邪魔です」
「知ってる」
「ですよね」
木剣を戻す。
もう一度。
今度は壁へ当てないよう、小さく払う。
ドランの木剣へ触れた。
押し返そうとした瞬間、身体が左へ流れた。
木片を踏む。
「落ちた」
「……はい」
崖なら終わっている。
「狭いんですよ」
「狭いからやってんだ」
その通りだった。
「もう一回」
構える。
ドランが来る。
今度は振り幅を抑える。
壁には当たらない。
だが、木剣を押され、そのまま胸へ入られた。
「止めようとすんな」
「じゃあ、どうすれば」
「通せ」
「どこへです?」
「知らん」
「知らないんですか」
「細かく言うと、余計なことするだろ」
反論できない。ドランの指導は頭を使ってなさそうなのに、こちらは頭を使ってしまう。不公平だ。
「相手に聞け」
聞けるわけがない。
でも、ドランはもう構えている。
やるしかない。
◆
次。
左から来る。
木剣を合わせる。
止めようとせず、少しだけ角度を変えた。
ドランの木剣が俺の剣の腹を滑る。
そのまま肩の横を抜けた。
「お」
声が出た。
次の瞬間、柄頭で胸を押された。
「喜ぶな」
「はい」
でも、今のは通った。
もう一度。
今度は正面から突き。
横へ払わず、剣を身体の前へ残す。
当たる直前に、木剣の向きだけを少し変えた。
ドランの木剣が外へずれた。
俺はその場に残っている。
壁にも当たっていない。
木片も踏んでいない。
ドランが一歩下がった。
「今のだ」
「……振ってませんね」
「振る必要がねえからな」
木剣を見る。大きく動かしたつもりはない。手元は身体の前に残ったまま、相手の剣だけが横へ抜けていった。
「剣で止めるんじゃなくて、通る場所を少しずらす感じですか」
「そう思うなら、それでやれ」
「また自分で決めるんですか」
「できたなら、それでいい」
説明してくれる気はないらしい。
けれど、さっきよりは分かる。止めようとすると、こっちも力を受ける。大きく払えば、壁か崖にぶつかる。少しだけ外へ通せば、身体も剣も大きく動かさなくて済む。
「もう一度お願いします」
ドランが木剣を上げた。
◆
何度か繰り返す。
うまくいく時もある。
木片を踏む時もある。
小さく受けようとして、逆に身体を固めすぎる時もあった。
「肩」
「はい」
力を抜く。
「足、残せ」
「はい」
踏み出しかけた左足を戻す。
「剣追うな」
「はい」
抜けていった木剣を目で追いそうになり、正面へ戻す。
一度に全部はできない。でも、一昨日より選べることは増えている。
クリフクローが上がってきた時は、顔を守るため左腕を出した。あれが間違いだったとは思わない。あの時は、それしか間に合わなかった。
でも、剣を抜いた後にもう一度爪が来ていたら、あの場で受ける方法はなかった。
次は、今のやり方を使えるかもしれない。
ドランの木剣が左から来る。
身体の前で受ける。
少しだけ向きを変える。
木剣が外へ抜ける。
足は残る。
壁にも触れない。
今度は声を出さなかった。
「それでいい」
ドランの木剣が下がった。俺も構えを解く。
腕が少し重い。ただの稽古の疲れだ。傷は痛まなかった。
「今日はここまでだ」
「ありがとうございました」
木剣を戻す。銅貨はもう平石から消えていた。
「また来ます」
ドランは腰掛けへ戻りながら言った。
「来るなら朝にしろ」
「はい」
それ以上は何も言わなかった。俺も板垣を出る。
◆
朝の職人区は、来た時より人が増えていた。店の板戸が開き、道の端を荷車が通る。
腰の実剣へ手を置く。
それより。
剣を持っているのに、振らない。
そっちの方が、しばらく難しそうだった。




