第97話 裂けた袖
翌朝。目が覚めて最初にしたのは、左腕を見ることだった。
昨日まで左腕に巻いていた布はない。前腕の外側には、斜めに細い赤い線が残っている。指を握る。開く。手首を曲げる。問題ない。
傷の周りを軽く押すと、少しだけ痛んだ。
「まあ、こんなものか」
誰もいない部屋で呟く。昨日リヴィアに言われた通り、腫れも増えていない。熱もない。
剣を振れと言われたら振れると思う。
言われてないけど。
着替えようとして、寝台の脇へ置いていた服を持ち上げた。左の袖が途中から開いている。
「……そうだった」
傷に張り付いた布を剥がさずに済むよう、エルザに短剣で切ってもらった。昨日はそのまま荷袋へ押し込んでいた。改めて見ると、思ったより派手に裂けている。
傷より、こっちの方が面倒そうだった。
◆
一階へ下りると、ヴェラはもう朝食を終えかけていた。俺の手にある服を見る。
「おはようございます。そちらは……」
「昨日の被害者です」
椅子へ掛けると、切り開かれた袖が垂れた。ヴェラがしばらく見ている。
「ずいぶん開いておりますね」
「傷を見やすくするためなので、仕方ないです」
「エルザ様が切ったのでしたね」
「はい」
スープを受け取り、向かいへ座る。
「直せますかね」
「私は衣服の修繕には詳しくありませんが、布を足せば使えるようには見えます」
「買い直すほどじゃないですよね」
「おそらくは」
そこで入口の扉が開き、エルザが入ってくる。
「おはようございます」
エルザはいつもの鞄を椅子へ置こうとして、俺の服に気づいた。
「あ」
「切り裂いた犯人が来ました」
「……必要だったので切ったんです」
「分かってますよ」
エルザが袖を持ち上げ、裂けた部分を裏返して縁を見る。
「ここなら直せると思います」
「エルザさんが?」
「私ではありません」
「良かった」
自然と安堵の言葉が出た。
「……何でそこで安心するんですか」
睨まれた。
「なぜか安心してしまいました」
ヴェラが少し笑った。
「職人区へ行けば、直してくださるお店があります」
エルザが袖を戻す。
「布飾りのお店とは別ですが、近くです」
「詳しいですね」
「何度か通っていますから」
黄色い髪紐へ目が行く。今日は髪の一部を後ろでまとめるように使っていた。似合っている。
言うと何か記録されそうなので、黙っておく。
「では、朝食が終わったら持っていきます?」
俺が聞く。
「今日、何か依頼を受けるつもりだったのですか?」
「まだ決めてません」
「腕は?」
また来た。
「問題ないですよ」
「リヴィアさんは、昨日何と?」
「昨日は剣の練習をしないように、と」
「昨日は、ですね」
「はい」
エルザが傷を見る。
「今日は?」
「今日は何も言われてません」
「診てもらっていないので当然では?」
その通りだった。
「強く使うのはやめておきます」
「それが良いと思います」
ヴェラも頷く。
「昨日は十分に動きましたから、本日は休んでもよいのではないでしょうか」
「ヴェラさんまで」
「休むことも必要です」
俺も二人の立場なら同じことを言うと思う。そこまで言われると、今日は休むしかなさそうだった。
「じゃあ今日は、服を直す日にしますか」
「それだけでは、かなり早く終わると思います」
エルザが言う。
「終わったら休めますよ」
「ノワールさんが自分から休むと言うと、少し不安になりますね」
「何でです?」
「何か別のことを始めそうなので」
何かしろって振りなのかな。
◆
朝食を終え、三人で職人区へ向かった。剣は宿へ置いてきた。
腰が軽い。落ち着かない。
「本当に持ってこなかったんですね」
エルザが言う。
「休むって決めましたから」
「少し驚きました」
「信用してくださいよ」
「しています」
間があった。
「たぶん」
「後ろにつけないでください」
ヴェラが笑う。
朝の職人区は、すでにいくつもの工房が開いていた。金槌や木を削る音が通りへ響き、店先には染めた布が吊られている。革を積んだ荷車の脇を抜けると、エルザが迷わず一本の通りへ入った。
「こちらです」
「本当に詳しいですね」
「前に布紐を見に来た時、この辺りも見ました」
「買ったのはあっちですよね」
「よく覚えていますね」
エルザの髪紐に自然と目が向く。
「昨日も見ましたから」
言ってから、少し遅かった気がした。エルザが髪紐に触れる。
「気づいていたんですか」
「まあ」
「今日は何も言いませんでしたね」
「前にも言いましたけど、後ろでまとめるのも似合ってますよ」
エルザの足が一瞬止まった。
「……そうですか」
「はい」
前を向く。今度は俺の方が少し歩きづらい。ヴェラが横からこちらを見る。
「どうされました?」
「何でもありません」
「そうですか」
たぶん分かっていない。助かった。
◆
服の修繕を扱う小さな店は、布屋と革屋の間にあった。店先には、継ぎ当てされた作業着や、袖口を直した上着が吊られている。中年の女性が裂けた袖を見る。
「切ったのかい?」
「はい」
「刃物で?」
「怪我した時に、傷を見るために」
「ああ。それなら綺麗に切れてる方だね」
エルザを見る。
「この方が切りました」
犯人を告発する。
「そうかい。変に破くよりずっと直しやすいよ」
無罪だった。エルザの表情が少しだけ明るくなった。
「どのくらいで直ります?」
「昼前にはできるよ。布は同じ色がないから、近い色になるけど」
「使えれば大丈夫です」
「じゃあ預かるよ」
料金を聞く。新しく買うより、ずっと安かった。
昨日は治療費。
今日は修繕費。
怪我をすると、傷以外にも金がかかるらしい。
服を預けて店を出る。
「昼前まで空きましたね」
俺が言う。
「何もしない時間ができました」
エルザが答える。
「どうします?」
「休むのでは?」
ヴェラが言う。
「町を歩くくらいは休みに入ると思います」
「では、ゆっくり歩きましょう」
「そういう意味ですか」
でも、反対する理由もなかった。
◆
職人区から市場の方へ、いつもより遅く歩く。急ぐ目的はない。途中で焼き菓子を売る屋台があり、エルザが少しだけそちらを見る。
「食べます?」
「見ただけです」
「じゃあ買いますね」
「話が早いですね」
三つ買った。薄く焼いた生地に、甘い木の実が混ざっている。歩きながら食べる。
左腕を動かしても、痛みはほとんどない。それでも、大きく振る気にはならなかった。
「腕、気になりますか?」
ヴェラが聞く。
「少しだけ。痛いというより、あるなって感じです」
「ある?」
「傷がある感じです」
「それはありますよ」
「そうなんですけど」
うまく言えない。エルザが焼き菓子を小さく割る。
「急にできた傷があると、気になるということですか?」
「たぶん、それです」
「なら、気にならなくなるまでは無理に使わない方が良さそうですね」
「はい」
素直に返す。今日は争わない。
「珍しいですね」
「何がです?」
「ノワールさんがすぐに認めました」
「争うのも休む日にしました」
「それもつまらないですね」
どうしろと。焼き菓子を食べ終える。まだ昼には早い。
「こういう日も悪くないですね」
口から出た。
二人がこちらを見る。
「何ですか」
「いえ」
「覚えておきます」
「何を?」
「ノワールさんが、休む日も悪くないと言ったことを」
元々、休む方が好きだった。仕事が休みの日は、横になったまま動かずに夕方を迎えては絶望していた。ここでは逆になった。不思議だ。
「記録はしなくていいですよ」
「まだ何も言っていません」
手帳へ手を伸ばしている。
「やめてください」
記録に残るのはなんかいやだ。
◆
昼前に修繕店へ戻る。裂けていた袖には、少し濃い色の布が細長く当てられていた。元通りではないが、十分着られる。
「丈夫にしておいたよ」
「ありがとうございます」
袖を通してみる。傷に当たりにくいよう、内側の縫い目も平らに整えられていた。左腕を曲げる。問題ない。
「良さそうですね」
エルザが縫い目を見る。
「次は切らなくて済むようにお願いします」
「俺が一番そう願ってますよ」
店を出る。補修された袖を見ると、少し濃い布が前腕のところだけ残っている。
「帰りますか」
俺が言う。
「はい」
「はい」
三人で〈鈍色亭〉へ向かう。今日は剣を持っていない。依頼も受けていない。
それでも、一日を無駄にした感じはしなかった。




