第96話 診てもらう側
大聖堂の白い石段が見えてきた。昼前の日差しを受けて、段の上側だけが明るい。
少し前を、ネッドを運ぶ人たちが上っていく。搬送具の持ち手が動くたび、革と木が小さく軋んだ。ロイも一緒だ。
「同じところへ行くんですね」
俺が言うと、エルザがこちらを見た。
「当然では?」
「俺はもっと後でも良かったんですけど」
「駄目です」
即答された。ヴェラまで頷く。
「早く診ていただいた方がよろしいと思います」
「もう血も止まってますよ」
「それは聞きました」
「指も動きます」
「それも聞きました」
使える材料がなくなった。石段を上る。
開いた扉の向こうから、薬草と香の混じった匂いが流れてきた。前にヴェラの脚を診てもらった時と同じだ。外より少し冷たい空気が、扉を抜けたところで肌に触れる。
中へ入る。白い石床。高い天井。声を抑えて話す人の気配が、広い空間へ薄く残っている。
ネッドの搬送具はすでに奥へ運ばれていた。ロイの姿もない。受付にいた白衣の女性がこちらを見る。
「怪我をされた方は?」
三人の視線が俺へ集まった。
「……俺です」
「こちらへどうぞ」
逃げる余地はなかった。
◆
壁際の長椅子へ座る。磨かれた木は少し冷たい。エルザとヴェラも両脇に座る。
「二人まで待たなくてもいいですよ」
「待ちます」
エルザが答える。
「私もおります」
「そうですか」
なぜか身を縮めてしまう。向かい側にも何人か座っている。
腕を布で吊った男。膝へ両手を置いた老人。奥の廊下から白衣の人が出入りするたび、石床へ靴音が短く響いた。
リンはエルザの髪際から離れ、大聖堂の奥へ向いている。時々、小さく揺れる。
俺は左腕を見る。包帯。血は増えていない。熱っぽさも、さっきと変わらない。
指を握る。開く。
「また確認してますね」
エルザに言われた。
「暇なので」
「診察を待っている人が、自分で診察を始めないでください」
「診察じゃないですよ」
「では何ですか?」
「確認です」
エルザが黙った。奥で水を張った器が置かれる音がした。少しして、廊下の向こうから白い服が出てきた。
「あれ」
白い服の人物が足を止めた。リヴィアだった。
「ノワール?」
「こんにちは」
俺が頭を下げる。リヴィアの視線がエルザ、ヴェラと移り、最後に俺の左腕へ戻った。
「今日は誰?」
「……俺です」
小さく手をあげる。
「へえ」
何だろう。少し楽しそうに見える。
「こっち」
リヴィアが廊下の奥を指した。
「はい」
三人で立つ。長椅子が身体から離れ、冷たかった背中が軽くなる。
「二人も来る?」
リヴィアが聞く。
「付き添わなくて大丈夫ですか?」
ヴェラが俺をのぞき込む。
「……はい。大丈夫です」
情けなくなってきた。俺は示された廊下を進み、診察室へ向かう。
「分かった」
背中から聞こえたリヴィアの声は笑っていた。
◆
「じゃあ見せて」
椅子へ座る。診察室は待合より狭い。壁際には布と器がまとめて置かれ、薬草の匂いも少し濃い。
包帯を外そうとすると、リヴィアが手を止めた。
「私がやる」
「自分でできますよ」
「患者でしょ、今」
「……はい」
手を膝へ戻す。包帯が一周ずつ外される。乾いた布が皮膚を擦る感触がした。
「いつ?」
「さっきです。〈灰石の口〉で」
「何にやられたの?」
「クリフクローです」
「爪?」
「はい」
最後の布が外れる。左前腕の外側。傷はまだ残っている。
ヴェラの治癒で縁は少し寄っているが、一本の赤い裂け目が斜めに走っていた。部屋の明るさで見ると、地下にいた時より輪郭がはっきりする。
「洗った?」
「はい」
「何で?」
「水魔法で」
リヴィアの手が止まった。
「水魔法?」
「細く流して。勢いは落としました」
「へえ」
傷ではなく、俺を見る。
「水魔法を使えたんだね」
「生活に便利そうだったので」
「良い選択だと思うよ」
良かった。
また傷へ視線が戻る。
「もしかして治癒も使ってる?」
「ヴェラさんに少し。出血が落ち着くところで止めてもらいました」
「何で途中で?」
「まだダンジョンの中だったので。魔力を残しておきたくて」
「なるほど」
傷の周りへ指先が触れる。
「ここ痛い?」
「少し」
「こっち」
「そこも」
「指は?」
「全部動きます。痺れもありません」
「うん」
左手を出すよう言われる。握る。開く。
手首を曲げる。戻す。動かすたび、前腕の傷が少しだけ引かれる。
「問題ないですよね」
つい言った。リヴィアが顔を上げた。
「それ、誰が言う台詞かな?」
「……リヴィアさんです」
「そうだね」
少し笑っている。
「深くはない。指も手首も問題なし。強い痺れもなし」
「ですよね」
「その言い方、来なくても良かったって思ってるでしょ」
「そこまで言ってませんよ」
「言ってないだけでしょ」
扉が開き、水を入れた器が運ばれてくる。水面が少し揺れた。リヴィアは傷をもう一度洗った。冷たい水が前腕を流れる。
「自分でも洗ったんですけど」
「知ってる」
「きれいでしたよね?」
「きれいだった」
「なら――」
「もう黙って座ってて」
「はい」
言われた通りにする。傷の周りについた水が布で拭われる。
「爪で切ったなら、ちゃんと洗ったのは良かったよ」
「ありがとうございます」
そこまでは褒めてもらえた。
「でも、自分で大丈夫そうだから終わり、は無し」
さっきと同じところへ戻ってきた。今度は反論しなかった。
リヴィアの手に淡い光が灯る。白い石壁へ、わずかに光が返った。
「治癒するね」
「お願いします」
傷の上へ光が重なる。引かれるような感覚。ヴェラに治してもらった時より、変化が早い。
残っていた裂け目が少しずつ狭くなる。痛みも薄れていった。ただ、一気に消えるわけではない。
リヴィアは少しずつ手の位置を変えた。指先の光が傷に沿って移る。やがて光が止まる。
「はい。ここまで」
腕を見る。傷があった場所には、細い赤い線が残っている。
「まだ残るんですね」
「治ってないものを、見た目だけ急いで消す必要ないでしょ」
「そうですね」
「今日は汚さない。強く擦らない。痛みや腫れが増えたら――」
「また来ます」
「先に言わないで」
「分かってるので」
リヴィアがじっと俺を見る。
「それなんだよね」
「何がです?」
「分かってる人ほど、自分のことになると面倒くさがるの」
「……」
「違う?」
「大体、自分で分かりますからね」
「ほら」
「でも来ましたよ」
「連れて来られたんでしょ?」
何も言えなかった。リヴィアが笑った。
「エルザとヴェラにお礼言っときな」
「そうします」
「あと今日は剣の練習なし」
「しませんよ」
「本当に?」
「何でみんな同じこと聞くんですか」
「普段の行いじゃない?」
また何も言えなかった。
◆
診察室を出る。待合へ戻ると、さっき座っていた場所には別の人が座っていた。エルザがすぐに左腕を見る。
「どうでした?」
「問題ないです」
「リヴィアさんは何と?」
「深くない。指も手首も問題なし。今日は汚さない。強く擦らない」
「ほかには?」
「……剣の練習はしないようにと」
エルザが頷く。ヴェラも頷く。
「分かりました」
「何で二人が確認するんです?」
「守るか確認するためです」
「守りますよ」
「約束ですね」
「はい」
診察室の入口から、リヴィアが顔を出した。
「二人とも、よろしくね」
「はい」
エルザが答える。
「承知いたしました」
ヴェラも続く。
「本人もここにいますよ」
自己主張してみる。
「知ってる」
リヴィアは笑って奥へ戻った。白衣の裾が曲がり角へ消える。
受付へ向かう。途中で搬送具が一台通り、三人で少し端へ寄った。白衣の女性へ冒険者証を渡すと、傷を負った場所と、今日受けていた依頼について確認された。
〈灰石の口〉で、ギルドの依頼中。女性が手元の紙へ書き込む。筆先が紙を擦り、最後に支払う額を告げた。
思っていたより少ない。
「これでいいんですか?」
「依頼中のお怪我ですので、冒険者ギルドとの協定分を差し引いています」
説明を聞くと、冒険者への補助は一部だけで、今回のような初回の診察や処置が中心らしい。継続して治療が必要になれば、その分は別になる。正式な組織へ所属していて、その職務中に怪我をした場合は、所属先の規定でもっと多く負担するところもあるという。
俺は告げられた分を支払う。硬貨が受付の小皿へ落ちる。
高くはない。それでも、無料ではない。
「ありがとうございました」
「お大事になさってください」
冒険者証をしまう。
「帰りましょうか」
「まだです」
今度はエルザだった。
「ギルド」
「ああ」
そうだった。今日はまだ報告が残っている。
◆
大聖堂を出ると、石段へ昼の日差しが落ちていた。中にいた分、外の空気が少し暖かく感じる。
そこから冒険者ギルドへ向かう。着く頃には、昼を少し過ぎていた。中は朝より混んでいる。
掲示板の前。受付の列。奥の卓。人の話し声と、紙を扱う音が重なっている。いつもの光景だ。
ミラがこちらに気づく。
「お帰りなさい」
「戻りました」
視線が俺の左腕で一度止まった。今は薄い布を一枚巻いているだけだ。
「怪我をされたそうですね?」
既に報告が入っているのか。
「クリフクローの爪です。大聖堂で診てもらいました」
「分かりました」
ミラは台帳を開いた。厚い紙の端が何枚か一緒に持ち上がる。
「では、依頼の報告をお願いします」
「はい」
エルザが手帳を開く。俺たちは、見た順に報告した。
第一分岐右側の白墨は二箇所とも残っていた。平たい岩棚まで通行でき、地図との相違もない。大きな崩れや漏水も確認していない。
狭所では〈クリフクロー〉一体を確認した。渡っている途中に左下から上がってきて、そこで俺が左腕を切った。足場へ掛けた爪を剣で外したが、討伐はしていない。帰りに再び襲われることはなかった。
ミラのペンが動く。紙を擦る音が、俺たちの話す間だけ続いた。
「その先へは?」
「少しだけ進みました」
ペンが止まる。ミラが顔を上げる。
「依頼範囲の外ですね」
「はい。岩棚に荷物が二人分放置されていたので、奥に進んで次の曲がり角まで確認しました」
そこにいたのが、先に自主探索で入っていたロイとネッドだった。ネッドは右足首付近を岩に挟まれていた。岩を持ち上げて脚を抜き、平たい岩棚まで戻したことも伝える。
「歩かせたのですか?」
「右足はつかせていません。ロイさんとヴェラさんに支えてもらい、左足で短い距離だけ移動しました」
その後は俺が残り、エルザとヴェラが入口へ救助を要請しに戻った。
「《鉄鎖》へ?」
「はい」
ミラが頷く。
「救助そのものの記録は、《鉄鎖の盟約》側から上がることになります」
別の欄へ何かを書き込む。隣の受付から硬貨を数える音が聞こえる。
「こちらでは、皆さんの依頼中に自主探索者の負傷を発見したこと、救助要請のため依頼行動から切り替えたこと、それから右側通路の危険情報を記録します」
「分かりました」
「ネッドさんは大聖堂へ搬送されています」
「はい。入口から連絡が来ています」
やはり、もう届いているらしい。俺たちの報告と照らし合わせる意味もあるのだろう。ミラが頷く。
「ネッドさんの状態については、大聖堂と《鉄鎖》からの報告に任せます」
「はい」
そこは俺たちが報告を続けるところではない。ミラが手帳と台帳を見比べる。
「白墨二箇所。平たい岩棚までの通行状態。地図との相違なし。狭所でのクリフクロー確認」
一つずつ確認する。ペンの先が、項目を追って動く。
「依頼内容は満たしています。今回の依頼は達成として処理します」
「ありがとうございます」
エルザが頭を下げる。報酬が卓へ置かれた。硬貨の入った小袋が木の上で軽く音を立てる。
受け取る前に、ミラがもう一度地図を開く。
「一つ確認させてください」
「はい」
「救助の際、狭所へ縄を張ったと聞いています」
「張りました」
エルザが答えた。
「途中に縄を掛けられる岩の出っ張りがありました。ロイさんが気づいていた場所です」
「位置は記録できますか?」
「大体なら」
手帳を開く。簡単な線。狭所。途中の印。
「このあたりです」
ミラが身を寄せる。手帳と地図を見比べる。
「ありがとうございます。常に使える場所かどうかは《鉄鎖》と確認します」
地図へ小さく印を置く。新しい点が一つ増えた。今すぐ何かが変わるわけではない。でも、次に通る人が少し楽になるかもしれない。
「以上です」
「はい」
報酬を受け取る。窓口を離れようとしたところで、ミラに呼び止められた。
「ノワールさん」
「はい?」
「今日は、もう依頼を探さないでくださいね」
「探しませんよ」
「念のためです」
まただ。振り返る。エルザとヴェラがこっちを見ている。
「……そんなに無茶しそうですか?」
自分では慎重派のつもりなのに。
「ノワールさんが無茶しそうかどうかは、私にはわかりません。ただ、お二人が心配している様子は感じます」
ミラはエルザとヴェラを見ながら答えた。
二人とも頷く。俺は何も反論できなかった。
「帰りましょう」
エルザが言う。
「はい」
ヴェラも頷く。
俺は二人の後ろへ続いた。受付の列を避け、入口へ向かう。扉が開くと、外の明るさが細く差し込んだ。
左腕を見る。細い布の下に、少しだけ痛みが残っている。
診てもらうのは面倒だった。
でも。
まあ、来て良かったとは思う。




