第95話 戻す順番
「――ノワールさん!」
聞き慣れた声だった。
「はい!」
思ったより大きな声が出た。岩壁の向こうで、松明の明かりが揺れる。
「そこにいますか!」
「います! 三人とも動いてません!」
「分かりました!」
三人。言ってから、ロイを見る。
「今度はちゃんと数えましたよ」
「今回も数えなかったら、さすがに怒るぞ」
ネッドが小さく笑った。声を出しても、顔を歪める様子はない。足首の腫れはさっきより少し増えているが、急ではない。俺はもう一度、足先へ触れた。
「分かります?」
「分かる」
指も動く。冷たくもなっていない。
向こうから、また声がした。
「先に私が渡ります!」
ヴェラだ。
「お願いします!」
しばらくして、細い足場の向こうから丸盾の縁が見えた。ヴェラが岩壁へ身体を寄せ、一歩ずつこちらへ来る。右手には何も持っていない。盾も身体の前ではなく、邪魔にならないよう左側へ寄せていた。
途中で一度足を止める。
足元。
壁。
それからまた進む。
岩棚へ足を掛けた。
「戻りました」
「お帰りなさい」
ヴェラは俺ではなく、まずネッドの足元を見た。
「状態は?」
「少し腫れが増えました。痛みも少し強くなってます。他は変わりないです」
「承知いたしました」
ヴェラが頷く。すぐに細い足場へ振り返った。
「エルザ様、大丈夫です!」
「行きます!」
ヴェラが岩棚に残っていた予備の松明を取り、燃えている松明から火を移した。そのまま細い足場へ向ける。岩壁と足元が明るくなった。
次にエルザが来る。リンはいつものように髪際にいる。エルザは壁へ手を添え、一歩ずつこちらへ近づいてきた。
岩棚へ着くと、エルザは壁から手を離して息を吐いた。ヴェラは予備の松明を岩壁の隙間へ立て、細い足場へ光が届く向きに直した。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
エルザの視線が俺の左腕へ落ちる。
「腕は?」
「大丈夫です。ずっと座ってました」
「痛みは増えていませんか?」
「変わってません」
「それならよかったです」
エルザの肩から少し力が抜けた。細い足場の向こうから、低い声が飛んだ。
「次、行くぞ!」
ガイルだった。
「はい!」
エルザがすぐに返す。俺も足場から少し離れた。
続いてガイルが渡ってくる。前に見た左腕の短い鎖が、松明の光を返した。腰には太い縄が巻かれている。
肩には布を畳んだようなもの。岩棚へ着くと、俺たちより先にネッドを見た。
「どっちだ」
「俺です」
ネッドが右手を上げる。ガイルはそのまましゃがんだ。
「状態を教えてくれ」
俺へ向けて言った。
「右足首の少し上から先を岩に挟まれていました。挟まっていたのは半刻より短いと思います。出血はありません。外す前は、本人から指は動く、痺れはないと聞いています」
「外した後は」
「腫れが少しずつ増えています。痛みも少し強くなりました。足首に熱を持っていたので、濡らした布を当てています。ただ、足先の色と温かさは大きく変わっていません。触った感覚もあります。右足には体重を掛けさせていません」
「治癒は」
「使ってません」
ガイルが一度だけヴェラを見る。
「分かった」
短い。それで話が終わった。
「あと」
俺は付け足す。
「急に痛みが強くなったり、痺れたりはしていません」
「わかった」
ガイルはネッドの足先を見た。
「指、動かせ」
ネッドが動かす。
ガイルが足先へ指を当てた。
「触ってるのは分かるか」
「分かる」
「よし」
ガイルが立つ。
「後ろ、来い」
向こうへ声を掛けた。
一人の男が細い足場へ入ってくる。背中に細長い包みを縛り、腰には縄。岩棚へ着くと、すぐに包みを下ろした。
もう一人も続く。こちらは短い板と、何本かの革帯をまとめて持っていた。前にハルトさんを引き継いだ時にも見た顔だった。
「また会ったな」
救助員の一人が俺を見た。
「今回もお世話になります」
「今日はそっちも怪我か」
「軽いです」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。二人はネッドの横へしゃがむ。一人がガイルから状態を聞き、もう一人が右足首を見る。
「ここが一番痛いか」
「そこ」
「こっちは?」
「痛いけど、そこよりはまし」
足を大きく動かさず、いくつかの場所を確認していく。俺は少し離れた。もう俺が見る必要はない。
エルザとヴェラは周囲を警戒している。俺も周りに意識を向ける。今のところ、気になる反復は感じられない。
救助員が短い板へ布を巻く。二枚。ネッドの右脚の左右へ当て、革帯で固定していく。
「きつすぎたら言え」
「ああ」
固定したあと、もう一度足先を見る。
「指を動かせ」
動く。
ガイルが足の指を親指から順に触る。
「感覚はあるか?」
「ある」
「色も変わってないな」
俺も同じところを見ていた。変わっていない。それだけ確認して視線を外す。ガイルは、さっき持ってきた太い縄をほどいていた。
「エルザ」
「はい」
「途中の出っ張りってのはどこだ」
「こちらです」
エルザが壁際へ寄る。
「中央より少し手前です。ロイさんたちの縄を掛けて確認しました」
ガイルがロイを見る。
「お前が見つけたのか」
「来る時に使えそうだと思ってた」
「使ったか」
「いや。持ってただけだ」
「そうか」
ガイルは細い足場へ目を向けた。
「まず縄を張る」
「担架を使うんですか?」
俺が聞く。
「普通のは使わん」
救助員が広げていた布を指した。細長い。両脇に棒を通す部分がある。
「幅を取らないやつだ。前後に一人ずつつく」
「それでも、外側が……」
「だから縄を張る」
ガイルが俺を見る。
「お前も渡る時に使え」
左腕を見る。
「助かります」
「先にお前たち三人を戻す」
「俺もですか?」
「お前にはもう残る理由がないと思うが?」
「確かに」
言われてみればそうだった。ネッドを見る。もう救助員が二人ついている。ガイルもいる。俺がここに残る意味はない。
「分かりました」
ガイルが太い縄の端をヴェラへ渡す。
「先に向こうへ行け。向こうで固定する。無理なら手で保持するな。戻れ」
「承知いたしました」
ヴェラが受け取る。ガイルが縄の端をヴェラの腰帯へ結ぶ。
「途中で引っ張らないからな」
「はい」
渡る前にもう一度、周囲へ意識を向ける。俺たち以外の反復は感じられない。
ヴェラが細い足場へ入った。一歩ずつ。縄が少しずつ伸びていく。
途中の出っ張りで止まり、壁へ寄る。そこへ縄を回した。
「掛かりました!」
「そのまま行け!」
さらに進む。やがて姿が曲がり角の向こうへ消えた。
「着きました!」
少しして声が返る。
「固定できます!」
「やれ!」
縄が動く。しばらくして、張りが変わった。ガイルが手で確かめる。
「エルザ、次」
「はい」
エルザも渡る。リンが髪際で揺れた。今回は誰も冗談を言わなかった。エルザも無事に向こうへ着く。
「次、お前」
ガイルが俺を見る。
「はい」
縄へ手を伸ばす。
「右で持て」
「壁は左ですよ」
「胸の前で持てる高さにしてある」
言われた通りにしてみる。右手で縄を握る。左手は岩壁へ軽く添えるだけ。これなら、さっきよりずっと楽だった。
「左に体重を預けるな」
「分かりました」
「急ぐな」
「はい」
「縄は支えに使え。引っぱって進むな」
「分かりました」
細い足場へ出る。右手の縄。左の壁。右側は暗い。帰りは落ちる側が逆になっている。
一歩。縄は張りすぎていない。引かれている感じもない。手掛かりがあるだけで違う。
途中の出っ張りを越える。もう少し。
「ノワールさん、こちらです」
エルザの声。
「見えてます」
最後の一歩。広い側へ出た。ほっと息をついた。
ヴェラが少し離れたところで縄の固定を見ている。
「大丈夫でしたか?」
「はい。これならかなり楽です」
左腕を見る。包帯にも変化はない。俺は壁際へ寄った。
「ネッドさん、来ます!」
エルザが言った。
足場の向こうへ目を向ける。まず救助員が一人見えた。後ろ向きではない。こちらへ身体を向け、少しずつ足を運んでいる。
その後ろから、細長い搬送布の先端が出てきた。ネッドが横になっている。
胸と腰。太腿。固定した右脚。何本かの革帯で身体が留められていた。搬送具から伸びた細い縄が、先ほど張った太い縄へ留められている。
「止まるぞ!」
前の救助員が言う。
「止める!」
後ろから声。
搬送布が動かなくなる。ネッドが壁側を向いた。
「これ、下見たら駄目なやつだな」
「見なくていい」
救助員が即答した。
「天井でも見てろ」
「天井も岩しかないからつまらないな」
「じゃあ目閉じてろ」
「それもつまらない」
響いて聞こえてくる声にはまだ余裕がある。俺は少し安心した。
また動く。
一歩。
止まる。
また一歩。
細い足場から半分ほど外へ出ている搬送布が、暗い空間の上を進んでくる。外側の縄が張ったままなのを見て、ようやく息を吐いた。
崖下へ意識を向ける。〈クリフクロー〉の反復があった。が、遠い。こちらへ上がってくる様子もない。今だけは、そのままでいてほしい。
「あと少し!」
エルザが声を掛ける。
「聞こえてる!」
ネッドが返した。
前の救助員が広い足場へ出る。続いて搬送布。最後に後ろの救助員。三人ともこちらへ着いた。
「着いたぞ!」
救助員が言う。
「分かってる。揺れなくなった」
「元気だな」
「足以外はな」
ネッドが答える。
ヴェラが小さく息を吐いた。そのあとロイ。最後にガイル。全員が戻るまで、縄は外されなかった。
「人数」
ガイルが言う。エルザが周りを見る。
「〈コンパス〉三名。ロイさん、ネッドさん。救助員二名。ガイルさん。八名です」
「よし」
ガイルが縄を外す。
「戻るぞ」
◆
帰り道は遅かった。ネッドを運ぶ二人に合わせる。曲がり角では一度止まり、足場を確認してから進む。
俺たちは搬送具へ手を出さなかった。必要なら言われる。それまでは邪魔をしない方がいい。
ヴェラが先を確認する。エルザは途中で一度、白墨の印を見た。
「薄れてはいません」
「今日は触るな」
ガイルが言う。
「はい」
依頼では補修も含まれている。でも今は、そこじゃない。俺も通り過ぎた。
第三道標。第二道標。知っている道へ戻るほど、松明とは違う明るさが少しずつ近づいてくる。
やがて石段が見えた。その上に昼の光。
「もうすぐだ」
ロイがネッドへ言う。
「分かってる」
「寝るなよ」
「寝てない」
「なんで目を閉じてるんだよ」
「さっき目閉じろって言われたからな」
くだらない会話が続いている。良かった。
石段を上がる。外の空気が入ってきた。入口には別の《鉄鎖の盟約》の男たちが待っていた。搬送具がそのまま引き継がれる。
「大聖堂へ」
ガイルが言う。
「右足。岩による圧迫。解除済み。右足には体重を掛けさせてない」
「了解」
ネッドが運ばれていく。ロイもすぐ横へついた。少し進んだところで、ロイが振り返った。
「ノワール!」
「はい」
「またな!」
「はい。また」
ネッドも搬送具の上から片手を上げた。俺も右手を上げる。二人が遠ざかる。
「さて」
ガイルの声で振り返った。
「お前らの依頼だが」
「はい」
「報告はギルドでしろ。細い足場、クリフクロー、負傷者二名。見た順でいい」
「分かりました」
エルザが手帳へ手を伸ばす。
「ただし、その前に」
ガイルが俺を見る。
「その腕」
「あ」
「見せろ」
「もう処置してますよ」
「見れば分かる」
包帯を巻いている。
「出血も止まってますし、指も動きます」
「そうか」
「はい」
「なら治療所でそう言え」
「俺もですか?」
「お前もだ」
横を見る。エルザは何も言わず頷いた。ヴェラも頷いた。
「二対一ですね」
「三対一だ」
ガイルが言った。
「ガイルさんまで数に入るんですか」
「入れろ」
逃げ道がなくなった。
俺は左腕を見る。包帯。少し残る痛み。確かに、診てもらって困ることはない。
「……分かりました」
「最初からそう言え」
ガイルが大聖堂の方角を顎で示した。俺たちも、先に運ばれたネッドたちの後を追って歩き出す。今日は、依頼の報告より先に行く場所ができた。
「……診てもらうの、面倒なんだよな」
思わず、小さくこぼれた。




