第94話 二人分
「……これ、置いて先へ行っただけですかね」
誰もすぐには答えなかった。置かれているのは二つの荷袋と水筒、短い縄、それに予備の松明。どれも、長く放置されていたようには見えない。
「触らない方がいいですよね」
俺が聞く。
「持ち主が分からないうちは、その方がいいと思います」
エルザが答えた。ヴェラは奥へ続く通路を見ている。
「お二人とも、この先へ進まれたのでしょうか」
「ガイルさんには、平たい岩棚より先まで行くって届けてるんですよね」
「はい」
なら、荷物をここへ置いて、必要な物だけ持っていった可能性はある。細い足場を、大きな荷袋を背負って通りたくないのも分かる。俺だって嫌だ。
「呼んでみます?」
「そうしましょう」
エルザが松明を少し上げた。俺は奥へ向く。
「すみませーん!」
声が通路へ入っていく。少し遅れて、薄い反響が戻った。返事はない。
「もう一度」
「はい」
「誰かいますか!」
待つ。何も聞こえない。水音もない。風もほとんどない。俺たちの呼吸と、松明が燃える小さな音だけだった。
「戻った方がいいでしょうか」
ヴェラが聞く。左腕を見る。包帯に血は広がっていない。痛みも、さっきより強くなってはいない。
依頼の目的は、ここまでだ。本来なら確認して戻ればいい。そのつもりだった。
「少しだけ待ってください」
奥へ意識を向ける。
ヴェラ。
エルザ。
俺。
その先。
何もない。
いや。
弱い。
さっきのクリフクローとは違う。
もう少し奥。
「……います」
「人ですか?」
エルザが聞いた。
「たぶん」
集中する。
一つ。
その近くに、もう一つ。
人の身体に近い流れ。
「二人……だと思います」
「動いていますか?」
「片方は分かります。もう片方は……」
止まっている、と言いかけてやめた。反応そのものはある。
「反応はあります。でも、何をしてるかまでは分かりません」
「距離は?」
「そんなに遠くないと思います」
正確には分からない。壁や曲がり方で、感じ方が変わる。エルザが奥を見た。
「確認しますか?」
俺たちの依頼は終わっている。俺は怪我をしている。さっきのクリフクローも、まだ下にいる。進まない理由はいくつもある。でも、二人分の荷物がここにあって、その二人らしい反応が奥にある。
「見えるところまでにしませんか」
俺が言った。
「反応を追うんじゃなくて、次の曲がり角まで。そこで何も分からなければ戻ります」
エルザが俺の左腕を見る。
「腕は?」
「今のところ変わりません」
左手を握る。開く。
「使わないようにします」
「分かりました」
ヴェラが奥へ目を向ける。
「私が先に行きます」
「お願いします」
盾を使える場所なら、その方がいい。
「エルザさん、真ん中でいいですか?」
「はい」
三人で並びを変える。先頭はヴェラ、真ん中にエルザ、俺が最後尾。リンはエルザの肩口にいる。
「荷物はそのままで」
「はい」
俺たちは岩棚の奥へ入った。
◆
通路は、さっきの細い足場よりずっと歩きやすかった。三人が横には並べないものの、一人ずつ進むには十分な幅がある。少し先で右の岩壁が内側へ曲がり、その向こうは見えなくなっていた。
「反応はいかがですか?」
ヴェラが小さな声で聞く。
「あります」
少し近い。
二つ。
人の反応だと思う。
「声を掛けます」
エルザが前へ向く。
「すみません! 聞こえますか!」
通路に声が響く。
「――いるぞ!」
今度は返事があった。男の声だった。少し掠れている。
「こっちだ!」
ヴェラが一歩を大きくしかけて、すぐ戻した。
「走りません」
「はい」
俺たちも同じ速度で続く。曲がり角を越える。そこから十歩ほど先。
松明の光が、人の背中を照らした。男が一人、床へ膝をついている。その向こうには、岩壁へ身体を預けるようにもう一人の男がいた。
「助けてくれ!」
膝をついていた男が振り向く。額には汗が浮いている。
「こいつの脚が抜けないんだ」
ヴェラが盾を前へ出したまま近づく。
「周囲に魔物は?」
「今はいない。さっき音はしたけど、見てない」
俺も周りへ意識を向ける。目の前の二人。俺たち三人。ほかに、近くで引っかかる反応はない。
「今のところ、近くには感じません」
ヴェラが頷く。
「確認します」
倒れている方は若い男だった。上半身だけを起こし、顔を歪めながら右脚を伸ばしている。足首から先は見えない。二つの岩の間へ挟まっていた。
「どんな状態ですか」
「落ちてきたんじゃない」
隣の男が言った。
「こいつが踏んだら、横の石がずれた。足だけ挟まった」
ずれたのは大きな岩が一つらしい。身体ごと押し潰されてはいないが、一人で持ち上げられる重さには見えない。男の手元には短い鉄棒があり、岩の下へ差し込まれていた。
「これで上げようとしたんだけど、一人じゃ無理で」
「どのくらい前から挟まってます?」
二人が顔を見合わせた。
「そんなに経ってない」
膝をついた男が答える。
「ここへ来て、少し見て回って……そのあとだ。半刻も経ってないと思う」
「分かりました」
圧迫されているのは足首の少し上から先。脚全体ではない。時間も長くはなさそうだ。それでも、外せば終わりとは限らない。
「名前を聞いてもいいですか」
「俺がロイ。挟まってるのがネッド」
「ネッドさん、足の指は動かせます?」
見えない。少し間があった。
「……動く」
「痺れは?」
「ない。痛いけど」
「分かりました」
返事ははっきりしている。顔色も極端には悪くない。
「平たい岩棚にあった荷物は二人のものですか?」
ロイが頷く。
「そうだ」
「〈コンパス〉です。通路の確認依頼で来ました」
「頼む。手を貸してくれ」
「もちろんです」
岩と鉄棒、周囲の石を見る。最後に、自分の左腕へ目を落とした。両手で岩を持ち上げるのはやめた方がいい。
「一度に持ち上げるより、少しずつ隙間を広げませんか」
エルザが周りを見る。
「石を挟むんですね」
「はい。急に落ちないようにしたいです」
ロイが鉄棒を見る。
「それならできるかも」
ヴェラが丸盾を下ろしかける。
「盾は持っていてください」
「ですが」
「魔物が来ないとは限らないので」
全員で岩へ手を掛ける必要はない。
「ロイさんが鉄棒。俺はネッドさんを見ます。エルザさん、挟めそうな石を探せますか」
「分かりました」
「ヴェラさんは周囲をお願いします」
「承知いたしました」
エルザが近くの石を二つ拾う。平たくて、手のひらより少し大きい。
「これくらいですか?」
「良さそうです」
俺はネッドを見る。
「痛みが急に強くなったり、気分が悪くなったらすぐ言ってください」
「分かった」
ロイが鉄棒へ力を掛ける。
「少し上げるぞ」
「頼む」
ネッドが奥歯を噛んだ。
「一、二――」
岩がわずかに浮いた。
「今です」
エルザが石を滑り込ませる。
半分しか入らない。
「止めて」
ロイが力を緩める。
岩が石の上で止まった。
「もう一回できます?」
「いける」
「無理なら言ってください」
「分かってる」
もう一度。
鉄棒が軋む。
岩が少し浮く。
エルザが二つ目の石を入れた。
今度はさっきより深い。
「止めます」
ロイが手を離す。
隙間が少し広がった。
「ネッドさん、今引けそうですか」
「やってみる」
「ゆっくりで」
ネッドが身体を後ろへずらす。
右脚が少し動いた。
「痛っ……!」
「止めます?」
「いや。いける」
もう少し。
革靴の先が見えた。
「そのまま」
俺は右手をネッドの膝の下へ入れた。
「引っぱりません。持ち上げるだけです」
「頼む」
脚を少し浮かせる。
ネッドが身体を後ろへずらした。
靴が岩の隙間から抜けた。
「抜けた!」
ロイの声が響く。
「そのまま動かさないでください」
脚を床へゆっくり下ろした。
エルザが松明を近づける。
ヴェラはまだ通路の奥を見ている。
「靴、脱がせますね」
「ああ」
紐を緩め、引っぱらないように靴を外す。右足首の外側は赤く、すでに腫れ始めていた。左足と比べても、右だけが明らかに白くなっている様子はない。
足先へ触れる。冷たくもない。
「指を動かしてください」
五本とも動く。
「触ります」
親指側から小指側へと順に触れる。
「分かる」
「こっちは?」
「分かる」
最後に親指の爪を軽く押して離すと、白くなった色もすぐ戻った。
「もう一度、指を動かしてください」
五本とも動く。今のところ、血が届いていない感じはない。
「痛みは、挟まっていた時と比べてどうです?」
「まだ痛い。でも……少し違う」
「強くなってます?」
「いや。今は同じくらい」
「分かりました」
時間も圧迫範囲も、ひどいものではなさそうだ。それでも、このあと腫れや痛みが強くなる可能性はある。
「右足をついて歩くのはやめましょう」
「折れてる?」
「分かりません」
そこは決められない。
「外したあとに痛みや腫れが強くなることもあります。痺れが出たり、指が動かしづらくなったらすぐ教えてください」
「分かった」
ロイがその場へ座り込んだ。肩で息をしている。
「助かった……」
「まだ帰ってませんよ」
「そうだな」
少し笑った。
俺はヴェラを見る。
「治癒は、まだ使わないでおきましょう」
「よろしいのですか?」
「骨や中がどうなっているか分からないので。今は動かさない方を優先したいです」
「承知いたしました」
ヴェラが頷く。俺はまだ治癒魔法についてよく知らない。安易に治癒して後遺症が残ることになれば、目も当てられない。
魔力も残せる。今はその方がいい。
「一度、荷物のある岩棚まで戻りませんか」
エルザが言った。
「そこなら座って待てます。水も予備の松明もあります」
ロイが頷く。
「そうしよう」
◆
ロイとヴェラが左右から身体を支え、ネッドは右足を地面につけず、左足だけで少しずつ進んだ。俺は後ろ。エルザが前。
距離は短い。それでも時間を掛け、平たい岩棚へ戻る。
二つの荷袋と水筒、縄、予備の松明は、そのまま残っていた。
「これです」
ロイが言った。
「俺たちの荷物だ」
「やっぱり」
「狭いところを通る時に邪魔だったから、必要なものだけ持っていった」
「鉄棒も持っていったんですね」
「あれは一応な」
役には立った。足りなかっただけだ。
ネッドを岩壁側へ座らせる。背中へ畳んだ布を入れる。
「水は飲めます?」
「ああ」
ロイが自分たちの水筒を取った。
「寒くないですか」
「今は平気」
「痛みが急に強くなるとか、腫れが増えるとか、指が動かしづらくなるとか、感覚がおかしくなったら言ってください」
「分かった」
「足の色が明らかに変わったり、冷たくなった時もです」
「分かった」
エルザが手帳を開いた。
「入口へ伝える内容を確認していいですか」
「お願いします」
「第一分岐右側。細い足場の向こう、平たい岩棚。自主探索の二名。ネッドさんが右足首付近を岩に挟まれ、現在は岩棚で待機」
エルザが俺を見る。
「意識は問題なし。出血なし。指は動く。痺れなし。解除後に腫れあり。右足への荷重はさせていません」
「それでお願いします」
エルザが書き終える。俺はネッドの足へもう一度目を向けた。今のところ、急に腫れが増えてはいない。色も変わっていない。
でも、このまま入口まで運べるかは別だ。それに、あの細い足場がある。
「俺がここに残ります」
エルザが顔を上げた。
「ノワールさんが?」
「はい」
ネッドを示す。
「圧迫を外したばかりなので、しばらく状態を見ていたいです。それに、この腕であそこを往復するより、その方がいい」
左腕の包帯を見る。ヴェラも細い足場へ目を向けた。
「私たちが入口まで戻るのですね」
「お願いします」
口にしてから、もう一度二人を見る。
「ガイルさんに、ネッドさんの状態を見ながら、ロイさんとここで待っていると伝えてください。場所と状態は、エルザさんの記録どおりで」
「分かりました」
エルザが手帳を閉じる。ヴェラも頷いた。
「救助の方を連れて戻ります」
「お願いします」
それで話は決まった。ロイが少し戸惑ったように俺たちを見る。
「いいのか?」
「三人とも戻る必要はないですから」
「でも、お前も怪我してるんだろ」
「利き腕じゃないですし、無理に動かさなければ困らない程度です」
左手を握る。開く。
「それより、ネッドさんを一人にしない方がいいです」
「俺もいるぞ」
ロイが言った。
「そうでした」
「忘れるなよ」
「すみません」
ネッドが小さく笑った。さっきより顔の強張りが少ない。
エルザが荷袋の脇にあった短い縄を見る。
「これ、使ってもいいですか?」
ロイがそちらを見る。
「ああ。俺たちのだ」
「二本ありますね」
「繋げれば、細いところで手掛かりにできるかもしれない。途中に出っ張りがある」
ヴェラが一本を取った。
「救助の方がこちらへ来る時にも使えそうですね」
「持っていってくれ」
「ありがとうございます」
二人が縄を受け取る。俺は細い足場へ目を向けた。
「気をつけて」
「はい」
エルザが答える。
「ノワール様も気をつけてください」
「動かないで待ってます」
「戻ったら、腕も見せてくださいね」
エルザが言った。
「分かりました」
「では、行ってきます」
「お願いします」
二人が細い足場の手前へ向かう。ヴェラが縄を確認し、エルザが松明を持ち直した。一人ずつ。
先にヴェラ。そのあとにエルザ。
俺は二人が向こう側へ着くまで見ていた。
「着きました!」
エルザの声が届く。
「了解です!」
返す。
やがて二人分の灯りが岩壁の向こうへ消えた。足音も聞こえなくなる。俺はネッドの横へ戻った。
「痛み、変わりました?」
「今のところ同じ」
「痺れは?」
「ない」
「指を動かしてみてください」
五本とも動く。足先へ触れる。
「分かります?」
「分かる」
爪を押して離す。色も戻る。
「大丈夫そう?」
ロイが聞いた。
「今のところは変わってません」
「今のところ、か」
「変わらないのを確認するために残ったので」
「なるほどな」
ロイが壁へ背を預けた。何度か入口側へ目をやったあと、ようやく息を吐く。
静かになった。さっきまで五人でいた岩棚から、二人分の声がなくなっている。崖の方へ耳を向ける。
爪の音はしない。下の反復も、かなり遠いままだった。
左腕が少し疼く。包帯を見る。血は広がっていない。
「お前、本当に大丈夫なのか?」
ロイが聞いた。
「俺ですか?」
「そっちの腕」
「俺は大丈夫です。こっちはもう処置してますから」
しばらくして、ネッドの足首をもう一度見る。腫れは少し増えている。でも、急ではない。
「痛みは?」
「さっきより少し強いかも」
「どんな痛みです?」
「ずきずきする」
「腫れが出れば、痛みが増すことはあります」
「痛くなるのに大丈夫なのか」
ネッドが苦笑する。
「急に強くなるなら別です。痺れたり、感覚が鈍くなったりするのも嫌ですね」
「それは怖いな」
布を一枚取る。掌から少しだけ水を出し、布へ含ませた。腫れている場所へ軽く当てる。
「ああ……気持ちいいな」
「急に耐えられないくらいの痛みになっても言ってください」
「ああ」
ネッドが自分の足を見ようと少し身を起こしかける。
「無理に覗かなくて大丈夫ですよ。こっちで見てますから」
「……頼む」
足先の色と温かさ、感覚、動きをもう一度確かめる。今のところ、どれも変わっていない。待つ。
ネッドが口を開く。
「あの二人大丈夫かな」
「あの二人は俺より強いので大丈夫です」
「……一番弱い奴が残ったのか?」
「すみません」
みんなで少し笑った。
「ノワール……だったか?」
ロイが聞いてきた。
「はい」
「……ありがとうな」
「いえ」
松明の炎が小さく揺れる。ロイが予備の松明を確認する。濡らした布を当て直す。ネッドが水を飲む。
俺は時々、細い足場の方を見る。何も聞こえない。
ネッドの足へ視線を戻す。また待つ。
どのくらい経っただろう。遠くで、何か聞こえた。俺は顔を上げる。
「今、声しなかったか?」
ロイも入口側を見る。耳を澄ます。もう一度。
「――ノワールさん!」
聞き慣れた声だった。
「はい!」
思ったより大きな声が出た。少し遅れて、別の低い声も聞こえる。複数の足音。松明の明かりが、岩壁の向こうで揺れた。




