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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第四章 札がなくても

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第93話 向こう側


 爪が石を掻く音が止まった。


 静かになったわけではない。


 左下にある反復は、まだそこにいる。


「クリフクロー……ですか?」


 後ろからエルザの声が届く。


「たぶん」


 見えてはいない。


 でも、何かが岩を伝って上がってきている。


 ゆっくりではない。


「ノワール様、こちらへ来られますか!」


 向こうのヴェラが呼ぶ。


 平たい岩棚までは、まだ少しある。


「行きます!」


 右手を岩壁へ置いたまま、足を前へ出す。


 一歩。


 左下で石が鳴った。


 近い。


 もう一歩。


 足場の縁に、黒いものが掛かった。


 爪だった。


「来ます!」


 太い前脚が岩へ引っ掛かる。


 続いて、平たい頭が縁から上がった。


 灰色の毛。


 岩と似た色の身体。


 口元から短い牙が見える。


 〈クリフクロー〉。


 俺と同じ高さまで身体を上げる前に、前脚が動いた。


 避ける場所がない。


 右は壁。


 左は崖。


 後ろへ下がればエルザの方へ戻ることになる。


 身体を岩壁へ押しつける。


 爪が左から来る。顔を庇うように左腕を上げた瞬間、布が裂けた。


「っ!」


 熱いものが前腕を走る。


 クリフクローの爪が、そのまま岩壁を擦った。


「ノワールさん!」


「大丈夫です! 向こうへ着いてから見ます!」


 左腕を下ろす。


 指は動く。


 今はそれだけでいい。


 ここから抜ける方が先だ。


 クリフクローがもう一度身体を持ち上げる。


 足場へ上がられたら、さらに狭くなる。


「こちらへ来てください!」


 ヴェラの声。


「はい!」


 右肩と背中を岩壁へ押しつける。右手を壁から離し、身体を預けたまま剣へ伸ばした。


 普段のようには抜けない。


 横へ振る場所もない。


 鞘から刃を出しながら、身体の前へ寄せる。


 クリフクローのもう片方の爪が足場へ掛かり、頭がせり上がってきた。


 剣を短く落とす。刃は前脚へ当たったが、深くは入らない。


 それでも爪が一つ外れ、クリフクローの身体が傾く。残った爪が石を掻き、耳に痛い音が走った。


 もう一度。


 今度は脚ではなく、岩へ掛かっている爪のすぐ横へ剣を入れる。


 獣が頭を振った拍子に爪が外れ、身体が落ちた。途中で一度、岩を引っ掻く音がして、それから少し下で、また爪が石へ掛かる。


 反復は消えていない。


 落ちたというより、下の岩へ移ったらしい。


「まだいます!」


「追わないで!」


 エルザの声が飛ぶ。


「はい!」


 剣を鞘へ戻す。


 右手を岩壁へ。


 左腕から血が指先へ落ちた。


 思ったより出ている。


「ノワール様、あと少しです」


「はい」


 足を出す。


 急がない。


 走るな。


 白墨の文字が頭へ戻る。


 一歩。


 もう一歩。


 足場が広がり、その先にヴェラが立っている。


 最後の一歩を越えて、平たい岩棚へ入った。


「着きました」


 ヴェラの視線が左腕へ落ちた。


「怪我を」


「エルザさんがまだです」


 振り返る。


 エルザは狭所の手前で待っている。


「そのまま待ってください!」


「はい!」


 左下へ意識を向ける。


 反復はある。


 さっきより下。


 まだ動いている。


「少し待ちます」


 ヴェラが盾を崖側へ向けた。


 俺も左下の反復から意識を外さない。


 石を掻く音が一度した。


 さらに下。


 少し横へ。


 反復が遠ざかっていく。


 待っている間にも、左腕から血が落ちた。


 一滴。


 岩の上に赤い点が残る。


 ヴェラが何か言いかけたが、俺は首を横へ振った。


「もう少しだけ」


 反復がまた動く。


 さっきよりずっと遠い。


 身体の内側へ引っかかっていた感覚も薄くなっている。


 やがて、爪の音も聞こえなくなった。


 さらに少し待つ。


 反復はかなり弱くなり、位置もはっきりしなくなっていた。


「今なら渡れそうです」


 俺は狭所の手前へ声を掛けた。


「エルザさん、ゆっくり来てください!」


「行きます!」


 エルザが壁へ右手を添える。リンは肩口にいる。


 松明を身体の近くへ寄せ、一歩ずつこちらへ進んでくる。俺とヴェラは岩棚の端から離れ、何かが上がってきてもエルザの着地点を塞がない位置を空けた。


「急がなくて大丈夫です」


「分かっています」


 エルザは何度か足を止め、そのたびに壁と足元を確かめながら進んでくる。途中で一度だけ左下へ目を向けたが、すぐに前へ戻した。


 やがて最後の一歩を越える。


「着きました」


 三人が同じ岩棚へ揃った。リンもいる。


 そこでようやく左腕へ目を落とす。前腕の外側で袖が裂け、その下の皮膚も斜めに切れていた。血が布へ広がっている。


「座ります」


 通路と崖側の両方を見られる位置へ腰を下ろした。ヴェラが岩棚の奥へ目を配った。


「エルザさん、松明をお願いします。ヴェラさん、清潔な布と包帯を出してもらえますか」


「はい」


「すぐに」


 二人がすぐに動く。右手で袖をめくろうとすると、裂けた布の一部が傷へ張り付いていた。引けばまた血が出そうだ。手を止める。


「エルザさん。短剣を貸してください」


「袖を切りますか?」


「はい。傷に触れないように」


「私がやります」


 エルザが俺の横へしゃがみ、短剣を構えた。


「動かさないでください」


「お願いします」


 裂けたところから、傷へ触れないよう少しずつ布を切り広げていく。袖が開くと、前腕の外側に斜めの傷が走っていた。血は流れているが、噴き出すほどではない。


「布をください」


 ヴェラから布を受け取り、傷へ当てて右手で押さえる。しばらく待ってから左手を握り、開いた。指は全部動く。痺れもなく、血の勢いも少しずつ落ちてきていた。


「指は動きます。痺れもありません」


「では、大きな傷ではないのですか?」


 エルザが聞く。


「まだそうは言えません。爪なので、まず洗います」


 布を外すと、まだ血は滲んでいるものの、量はさっきよりずっと少ない。右の掌を左腕の上へ向けた。


 いつもの水球ではなく、細い流れを作る。傷を叩かない程度まで勢いを落として上から流すと、少し沁みた。赤く濁った水が腕を伝い、岩の上へ落ちていく。


 もう少し。爪についていたらしい細かな汚れも流れた。


「傷を洗うことにも使えるんですね」


 なるほど、そういう捉え方もあるのか。魔法で生成した水は清潔だと思い込んでいた。


「傷を洗うのに使うのは初めてですけど、問題ないと思います」


 エルザが微妙な顔をした。他人の傷で試す方がよくないだろう。そう思いながら、もう一度水を流す。傷の中は擦らず、周りに残った血だけを落としていく。


「これでいいと思います」


 水を止める。新しい布で、傷の周囲だけ水気を取った。


「ヴェラさん。治癒をお願いできますか」


「はい」


 ヴェラが傷を確認する。


「この程度なら、ハルトさんの時よりは効くと思います」


「出血が落ち着くところまででお願いします」


 ヴェラが俺を見る。


「もう少し続けなくてもよろしいのですか?」


「まだダンジョンの中ですから。ヴェラさんの魔力は残しておきたいです」


 奥へ続く通路へ目を向ける。


「何があるか、まだ分かりませんし」


「承知いたしました」


 ヴェラが俺の左腕へ手を添えると、淡い光が広がった。傷の奥を引っぱられるような感覚に続いて、滲んでいた血が少しずつ減っていく。開いていた傷の縁も、わずかに寄ってきた。


「もう少し続けられます」


 ヴェラが言う。傷を見る。血の滲みはもうほとんどない。それでも裂け目そのものは残っていた。


「そこまでで大丈夫です」


「はい」


 淡い光が消え、ヴェラの手が離れる。


「ありがとうございます」


「痛みは?」


 左手を握る。開く。


「あります。でも、さっきより楽です。ヴェラさんは大丈夫ですか?」


「はい、問題ありません」


「剣は使えますか?」


 エルザが聞く。剣を握るのは右手だが、左も身体を支えたり、両手を使ったりする時には必要になる。


「動かせます。ただ、今日はこれ以上無理をしない方がいいですね」


「依頼は?」


 エルザに聞かれ、平たい岩棚へ目を向ける。ここが今回の終点だ。白墨印二箇所と狭所、それにこの岩棚までの通行状態。依頼で確認する範囲には、もう来ている。


「ここを確認したら戻りましょう」


「私もそれがいいと思います」


 エルザが答え、ヴェラも頷いた。


「異議ありません」


「では、包帯をお願いします」


 片手では巻きにくい。頼むと、エルザが包帯を取る。


「どう巻けばいいですか?」


「傷に布を当てて、その上から。ずれない程度でいいです。締めすぎないでください」


「このくらい?」


「もう少しだけ」


 包帯が前腕を一周する。


「そこです」


 ヴェラが布の端を押さえ、そのままエルザが続きを巻いて最後を留めた。


 左手を握る。開く。指先を見る。問題ない。


「ありがとうございます。大丈夫です」


 エルザは巻き終えた包帯をしばらく見ていた。


「……本当に、前のお仕事でもこういう確認をしていたんですか?」


「傷の状態を見ることはありましたよ」


「そうなんですね」


「これならエルザさんに教える側に立てます」


「……あやとりのことを根に持ってますね」


「まさか」


 ヴェラが小さく笑った。


「立てますか?」


「はい」


 右手を岩へついて立ち上がる。左腕は少し痛む。でも、指も手首も動く。予定どおり、ここを確認して帰ればいい。


「岩棚を見ましょう」


 三人で奥へ向く。平たい、と聞いていた通り、俺たち三人が立ってもまだ余裕がある。岩壁側は乾いていて、大きな亀裂も見えない。さらに奥へ続く通路もあった。


「地図と合っています」


 エルザが手帳を開いた。


「漏水も見えません」


 ヴェラが岩壁を確かめる横で、俺は床へ目を向けた。縁の近くには、クリフクローのものらしい爪痕がいくつか残っている。それ以外は――。


「……あれ」


 岩壁の奥。影になる場所に何か置かれていた。


 荷袋。一つ。その隣にもある。


「二つ?」


 エルザが松明を向ける。壁際へ寄せられた荷袋が二つ。一つは口が閉じているが、もう一つは開いたままで、中から布が少しはみ出していた。


 その脇には水筒と短い縄、それに予備らしい松明まで置かれている。三人とも足を止めた。


「さっきガイルさんが言っていた人たちでしょうか」


 ヴェラが言う。


「分かりませんが……可能性は高そうですね」


 名前は見えず、持ち主の姿もない。ただ、荷物に埃が被っている様子はなかった。


「二人分には見えますね」


 エルザの言葉で、入口の帳面を思い出す。先に二人いる。


 第一分岐の右。平たい岩棚より先まで。夕方前に戻る予定。


 奥へ続く通路を見る。人の姿はなく、声も聞こえない。左腕の包帯へ一度目を落としてから、二つの荷袋へ視線を戻した。


「……これ、置いて先へ行っただけですかね」


 誰もすぐには答えなかった。


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