第92話 一人ずつ
冒険者ギルドの掲示板で一枚の札に目が止まった。〈灰石の口〉第一層、第三道標より先、最初の分岐の右側通路。
「あ」
隣でヴェラも同じところを見た。
「右ですね」
エルザが札の前へ寄る。前に分岐まで行った時、右と左のどちらへ進むかは決めなかった。次の仕事を見てからでいい。そう話して帰ってきた。
その右側だけに、今日は札が出ている。
「依頼が決めてくれましたね」
「まだ受けるとは言っていません」
エルザに止められた。
「言ってみただけですよ」
「声がもう行く声でした」
「そんな声あります?」
「ノワールさんにはあります」
ヴェラまで小さく頷いた。顔の次は声か。俺には分からない。札を読む。
第一分岐から右側の公開路。既設の白墨印二箇所を確認し、薄れている場合は元の形を変えず補修する。
その先にある平たい岩棚まで通行状態を確認。地図との相違、崩落、著しい漏水、通行困難その他の危険があれば、それ以上進まず報告する。討伐は目的ではない。
ここまでは、以前受けた確認依頼と大きく変わらない。ただ、下の方に短い注意書きがあった。
――狭所あり。一名ずつ通行。
「これ、何でしょう」
俺が指差すと、エルザも注意書きを読んだ。
「確認した方がいいですね」
「ミラさんに聞きましょう」
三人で受付へ向かった。
◆
依頼札を見たミラは、すぐに地図を一枚出した。
「こちらですね」
ミラがいつものように机の上へ地図を広げた。第三道標から先へ伸びる線を辿り、前回確認した最初の分岐で指を止める。左右へ分かれた線のうち、右側へ指が動いた。
「今回はこちらです」
分岐の右側に、小さな印がある。
「こちらは前回、皆さんが確認した白墨印です」
「まだ残っているはずのところですね」
「はい。今回はこちらも確認対象に含まれています」
そこから線は右へ進み、一度緩く曲がる。もう一つ小さな印があった。
「二箇所目がこちらです」
「今回はその先まで行くわけですよね」
「はい」
さらに指が進む。通路の線が急に細く描かれていた。
「ここですか?」
「はい」
細い部分の先には、短い横線がある。
「こちらが今回の終点になる平たい岩棚です」
「途中が細くなっていますね」
ヴェラが地図を見る。
「通路そのものが狭いのですか?」
「少し違います」
ミラが細い線の横を指した。
「このあたりで床の左側が落ちています」
「落ちてる?」
「右側の岩壁に沿って、足場だけが残っている形です」
「幅は?」
「一人なら通れます。二人並ぶのは無理です」
俺はもう一度地図を見る。線で見ると短い。
「どのくらい続くんですか?」
「十歩少し、と報告されています」
「下は?」
「確認できている範囲では、すぐ下に足場はありません」
「確認できている範囲では?」
「松明の光が届く位置までです」
思わず地図から顔を上げた。
「思ったより嫌な場所ですね」
「だから注意書きがあります」
ミラは淡々としていた。
「封鎖するほどではありません。通行自体は以前から行われています。ただ、急いで渡る場所ではありません」
「事故は?」
エルザが聞く。
「あります」
ミラは少しだけ間を置いた。
「足を滑らせた報告が複数。壁側に残れた者、仲間に支えられた者です。下まで落ちたという最近の記録はありません」
最近の。そこは聞かない方がいい気がした。
「滑らせたということは、濡れているんですか?」
ヴェラが聞く。
「時期によります。壁から水が滲むことがあります。今のところ、大きな漏水報告はありません」
手を掛けられるのは、凹凸のある岩壁だけらしい。手すりも縄もない。ミラが、地図の細い部分の手前を指した。
「白墨には『一人ずつ』と『走るな』とあります」
「分かりやすいですね」
「そこで分かりにくいことを書いても困りますから」
確かに。
「魔物は?」
俺が聞いた。
「最近では〈クリフクロー〉が一体確認されています」
「クリフクロー?」
「岩場に棲む四足の魔物です。爪を岩の凹凸へ掛けて、傾いた場所や壁際を移動します。あの周辺では、人より動ける場所が多いと思ってください」
細い足場でも出るらしい。嫌な場所に、嫌な生き物がいる。
「細いところで戦った記録は?」
「避けて引き返した記録の方が多いです」
俺は地図を見た。細い線。その向こうの平たい岩棚。
「向こうまで渡ってからなら?」
「平たい岩棚は、三人で立てる広さがあります」
「なるほど」
ヴェラが俺を見る。
「戦う前提ではありません」
「分かっています」
そんなに好戦的な奴に見られているのだろうか。エルザが地図へ目を戻す。
「今回の依頼は、あの狭所を通って平たい岩棚まで確認することですか?」
「はい。ただし、現地を見て危険と判断した場合は手前で戻って構いません」
「渡らなくても?」
「依頼失敗にはしません。理由を報告してください」
前の確認依頼でも、危険があればそこで引き返すことになっていた。
「右側の確認が必要な理由は?」
「最後の通行確認から少し日が空いています」
ミラが答えた。
「左側は?」
「別の冒険者が最近通っています」
「だから右だけなんですね」
「はい」
ヴェラが地図を見る。
「私は受けられると思います」
「私も」
エルザが頷いた。二人の視線がこちらへ来る。俺は細く描かれたところをもう一度見た。
地図でしか知らない場所。足元の片側がなくなる道。
「では、受けます」
「承りました」
依頼票に名前を書き、支給された白墨をヴェラが受け取って荷袋へ収めた。それからミラが、最後に言った。
「狭所では、前の方に合わせて後ろが急がないでください」
「はい」
「一人ずつです」
依頼札と同じ言葉だった。
◆
昼前。〈灰石の口〉。入口の卓で、ガイルが俺たちを見る。
「また来たか」
「また来ました」
「今日は?」
「第一分岐の右です」
依頼票を渡す。ガイルが目を通し、卓の上の帳面を開いた。
「どこまで行くんだ」
「平たい岩棚まで」
「ああ」
それだけで通じた。
「あの細いところを通るのか」
「一応その予定です」
「予定な」
「現地を見て決めます」
ヴェラが答える。ガイルは帳面へ何かを書きかけて、途中で手を止めた。
「ん? ちょっと待て」
帳面を少し戻す。
「先に二人いる」
「右……同じ道ですか?」
「ああ。第一分岐の右だ」
「同じ依頼?」
「違う」
ガイルが首を横へ振った。
「そいつらは仕事じゃねえ。自前だ」
「自前?」
「ギルドの依頼を受けずに潜ってる」
俺は少し意外だった。
「それでも入れるんですね」
「入れる。ダンジョンに入るたび、ギルドの仕事が必要なわけじゃねえ」
「名前と人数、行き先と戻る予定は、仕事じゃなくてもここへ出してもらう」
「なるほど」
「ギルドを通してなくても?」
エルザが尋ねた。
「関係ねえ。入ったまま出てこなかったら気持ち悪いからな」
言い方は乱暴だが、分かりやすい。
「戻らなかった場合は?」
エルザが聞いた。
「自主で入った奴なら、こっちで扱う。《鉄鎖》の案件だ」
「俺たちみたいに、ギルドの依頼で入った場合は?」
「入口の管理と救助の初動はこっちでもやる。依頼の報告や契約の話はギルドだ。自主で入った奴の未帰還も、必要ならギルドへ知らせる」
誰が入ったかはガイルたちが把握し、依頼の処理はギルドが扱う。少なくとも、帰ってこなかった人を依頼の有無だけで放っておくわけではないらしい。
「仕事かどうかで、戻ってこなくていい奴になるわけじゃねえ。それだけだ」
「先の二人は、どこまで行く予定なんです?」
「第一分岐の右。平たい岩棚より先まで、と出してる」
「戻る予定は?」
「夕方前だな」
俺たちより少し長く入る予定らしい。
「顔を合わせるかもしれませんね」
「かもな」
ガイルが帳面を閉じた。
「だが、見かけてもそいつらと仲良くするために入るわけじゃねえ。お前らは自分の依頼をやれ」
「分かりました」
ガイルは木札を三枚出した。一人一枚受け取る。
「それと」
ガイルが俺たちを順に見た。
「向こう側で魔物を見ても、細いところで無理にやるなよ」
「ミラさんにも言われました」
「言われててもやる奴がいる」
ガイルが俺を見た。
「何で俺を見るんです?」
「長く人を見ていると、なんとなく感じるものがある」
それはわかる。
「勘違いかもしれませんよ?」
「勘違いですむようにしてくれ」
「努力します」
ヴェラが荷袋の白墨を指した。
「既設印の確認と補修もあります」
「余計な印は足すなよ」
「はい」
装備を確認する。俺の剣、エルザの短剣、ヴェラの丸盾と短槍。松明、水、布、包帯、白墨、食料も揃っている。
「行きましょう」
ヴェラが言った。三人で入口へ向かった。リンがエルザの肩口から少し浮く。
ちりん。昨日は糸を引いていた。今日はまたダンジョンだ。
◆
第一道標で三人とも木札に印を入れ、第二道標でも同じように打刻してから、第三道標へ向かった。何度か歩いた道だが、慣れたとは思わない。ただ、最初に来た時ほど、一つ一つの角で足が止まることはなくなった。曲がる前に先を見る。狭ければ並びを変え、聞こえた音が自分たちのものか確かめる。必要なら立ち止まった。
第三道標でも三人それぞれが木札へ印を入れ、水を飲んだ。ヴェラも歩きに問題はないと言い、俺も身体に気になるところはない。エルザは松明と荷物を確かめていた。
「行けます」
「私も」
「俺もです」
第三道標を越える。前回確認した白墨印を過ぎ、落石のあった場所と床の凹みを確かめる。見える範囲では新しい石も増えておらず、前に通った時と変わりはない。その先に、最初の分岐が見えた。右と左。前回はここで止まった。
右側の壁には、前にも確認した白墨印が残っている。エルザが近づき、表面を見る。
「まだ濃いですね」
「補修は?」
「必要ないと思います」
ヴェラも横から確認する。
「形も前と同じですね」
「では、そのまま記録します」
エルザが手帳へ書き込んだ。
「ここから右です」
「分かりました」
ヴェラが先に入り、俺、エルザと続く。リンはエルザの肩口にいた。右の通路は、分岐から見た時より少し広かった。床は緩く下がり、壁の色は本道より少し濃い。ところどころ、水が通ったような筋が残っている。
「濡れてはいませんね」
ヴェラが足元を見る。
「今のところは」
エルザが松明を少し高くした。少し進んだところで、二つ目の白墨印を見つけた。
「あります」
壁の低い位置に残る印は、少し薄いが形は分かる。
「こちらは補修した方が良さそうです」
「お願いします」
ヴェラが荷袋から白墨を取り出してエルザへ渡した。エルザは松明をヴェラに預け、元の線をなぞって薄れたところだけを補修する。俺が後方を見る間、ヴェラは松明で前方を照らしていた。
終わるとエルザは白墨を布で包んでヴェラへ返し、松明を受け取った。それから地図を開く。
「ここから少し先です」
「細いところ?」
「はい」
自然と声が小さくなった。何かを見つけたわけではないが、さっきまでとは違う場所が近づいている。
通路が少しずつ右へ曲がる。壁際に古い白墨の文字が見えた。
【一人ずつ。】
その下には【走るな。】
「ありましたね」
俺が言う。
「ありますね」
ヴェラが足を止めた。
「ここからです」
松明を前へ出す。最初は、何が危険なのか分からなかった。数歩先まで普通の床が続いている。
そこから先。左側が消えていた。
「……ああ」
思わず声が出る。通路の半分以上がない。右には岩壁。
左には暗い空間。壁沿いに、人一人が歩ける幅だけ足場が残っている。その細い足場が、少しずつ曲がりながら先へ続いていた。
松明の光を下へ向ける。岩肌が途中までは見える。さらに下は黒い。
「底、見えませんね」
「見ようとしなくていいです」
エルザに言われた。
「確認しただけです」
「身体ごと寄らないでください」
「寄ってません」
ヴェラが短槍を背負った荷袋の脇へ縛りつけ、丸盾を身体の左側へ寄せた。普段の構えでは、この幅を歩きにくい。
「これは盾を構えたままでは通れません」
「どうします?」
「身体へ寄せます。戦う構えではなく、運ぶ形になります」
ヴェラが入口から一歩だけ足場へ入る。右手を岩壁へ添える。靴底を置く。
戻る。
「床は乾いています」
「滑りは?」
「今のところ感じません」
俺も入口から確かめる。幅も距離も聞いていた通りなのだろう。たぶん。それでも、地図で見た細い線とは全然違う。エルザが松明を少し下げ、足場の下へ続く岩肌を照らした。光の届く範囲に動くものは見えない。俺も耳を澄ませたが、聞こえるのは火の音と、三人の装備が触れる小さな音くらいだった。
「数字で聞くのと違いますね」
「幅は聞いた通りです」
ヴェラが言った。
「そういう問題じゃないんですよ」
左側の暗さが目に入る。落ちたらどうなるか。考えたくないのに、勝手に考える。
エルザが地図を閉じた。
「渡る前に決めましょう」
「はい」
「俺が行きましょうか?」
俺が聞く。
「私が先に行きます」
ヴェラが答えた。
「向こう側の足場を確認します。平たい岩棚まで安全なら、ノワール様。その後にエルザ様」
「俺が真ん中ですね」
「はい」
「リンは?」
ちりん。エルザの肩口にいる。
「私と一緒に行きます」
「まあ、そうですよね」
「途中では追いつこうとせず、お互い距離を保ちましょう」
ヴェラが続ける。
「前の者が向こうへ着いてから、次です。途中で何かあれば、後ろの方は入らずに待ってください」
「一人ずつ」
「はい」
壁の白墨と同じだ。
ヴェラが深く息を吐いた。
丸盾を左腕へ寄せる。
右手を岩壁へ添えた。
一歩。
細い足場へ出る。
もう一歩。
左側には何もない。
松明の光が、ヴェラの背中と岩壁を照らしている。
俺はその場から動かなかった。
エルザも動かない。
ヴェラが少しずつ進む。
途中で止まった。
足元を見る。
壁を見る。
また一歩。
やがて、曲がった先で道幅が広がった。
「着きました!」
ヴェラの声が届く。
距離があるので自然と声が大きくなる。
姿は半分しか見えない。
「平たい岩棚まで来ました。こちら側は立てます。見える範囲に動くものもありません!」
「了解です!」
俺は返事をした。
自分の剣を見る。
鞘に入ったまま。
この幅では、いつものようには抜けそうにない。
「ノワールさん!」
後ろからエルザの声。
「はい!」
「無理だと思ったら戻ってください!」
「分かってます!」
「本当に!?」
「本当に!」
すごい心配をされている。
右手を岩壁へ添えた。
冷たい。
右足を、細い足場へ置く。
次に左。
左側を見ないようにするつもりだった。
でも、一度だけ見た。
暗い。
やっぱり底は見えない。
「嫌ですね、ここ!」
向こうからヴェラの声が返った。
「はい。出来れば通りたくない道ですね!」
「安心しました!」
「何がです!?」
「ヴェラさんでも嫌なんだなと!」
「……」
「どうしました!?」
「……ノワール様は時々変なことを気にされますね!」
「そうですか!?」
「ノワールさんの変は時々ではなくいつもです!」
後ろのエルザからきつい言葉が飛んできた。
俺たちは大声で何をやりとりしてるんだ。
もう言わない。
注意深くもう一歩進む。
その時。
視界ではなく、身体の内側に引っかかるものがあった。
俺は止まった。
「ノワール様!?」
「待ってください!」
壁へ添えた右手に力を入れる。
前。
ヴェラ。
後ろ。
エルザ。
それとは別。
生きているもの。
「何かいます!」
曲がった先に見えているヴェラの丸盾が動いた。
「どこです!?」
エルザの声。
俺は答えようとして、止まった。
前ではない。
後ろでもない。
左。
いや。
もう少し下。
「……下です!」
自分でも嫌になる位置だった。
ミラとガイルの顔が頭をよぎる。
暗い空間の下から、爪が石を掻く音がした。




