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明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第四章 札がなくても

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第91話 一番簡単なところ


 翌日の昼前、〈鈍色亭〉の食堂で茶を飲んでいると、入口の扉が開いた。外の明るさが一瞬だけ床へ伸びる。


「こんにちは」


 エルザだった。


「いらっしゃい」


 女将が厨房から返す。鍋の蓋が鳴り、煮込みの匂いが少しだけ食堂へ流れてきた。


 昼にはまだ早いせいか、客は俺たちのほかに二組ほどしかいない。エルザはいつもの鞄を肩から下ろし、俺たちの卓へ歩いてきた。


 髪の横に、見覚えのある色がある。


「あ」


「何ですか?」


 淡い黄色の細い紐が、髪の一部をまとめていた。


「使い道、決まったんですね」


 エルザが自分の髪へ触れる。


「はい」


 以前買った紐だ。


「似合います」


 ヴェラがすぐに言った。


「ありがとうございます」


「俺もそう思いますよ」


「聞いていません」


「……そうですか」


 ヴェラが変な顔をしている。無理せず笑えば良いのに。


 エルザが椅子へ座ると、木の脚が床を短く擦った。


「それと、今日はもう一つあります」


 鞄を開き、取り出したのは小さく丸めた糸だった。輪になった糸を卓へ置くと、柔らかな束が少しだけ形を崩す。


「……まさか」


「約束しましたので」


「覚えてたんですか」


「ノワールさんが教えてほしいと言ったんですよ」


「言いましたね」


 村から帰った日の食事を思い出す。


 一番簡単なところからお願いします。


 確かに言った。


「今日は依頼もありませんし、ちょうど良いかと思いまして」


「逃げ道を塞がれました」


「嫌ならやめますよ」


「やります」


 即答した。


 ここで逃げたら、あの子供より下だと認めることになる気がする。


「ヴェラさんもやりますか?」


 エルザが聞く。


「私もよろしいのですか?」


「もちろんです」


 ヴェラが少し姿勢を正した。


「では、お願いします」


 参加者が増えた。


 リンもエルザの肩口から卓へ降りてくる。


 ちりん。


 白い光が木の天板すれすれで揺れた。


「リンも見ますか?」


 ちりん。


 エルザが糸を手に取ると、リンがその指先へ近づいた。


「近いです」


 リンが少しだけ後ろへ下がる。


「ちゃんと見たいんでしょうね」


「あとでリンにも出来るところを考えます」


 ちりん。


 鈴の音が一度鳴った。


◆


「まず、親指と小指です」


「はい」


 俺も真似をして、輪を両手へ掛ける。細い糸が指の根元へ触れた。


 思っていたより滑る。


「右手の中指で、左の掌側の糸を取ります」


「これ?」


「……ふざけてます?」


「え? 真面目にやってますけど……」


「一回目で違っています」


 早い。


 隣を見ると、ヴェラは黙ってエルザの手元を見ていた。右手の中指を伸ばし、糸を拾って戻す。


 張られた糸が、指の間で細く震えた。


「こうでしょうか」


「はい。合っています」


「あれ?」


 ヴェラが俺を見る。


「エルザ様の指を見ただけです」


「俺も見てましたよ」


「ノワールさんは見る場所が多くてわからなくなってるのかも?」


「指しかありませんでしたけど」


 エルザが俺の手を見る。


「一度戻しましょう」


「はい」


 糸を外すと、指先へ残っていた張りが消えた。


 一番簡単なところ。


 まだ形にすらなっていない。


 もう一度掛ける。


「親指と小指」


「はい」


「中指で取る」


「はい」


「反対も」


 今度はできた。糸が左右へ均等に張っている。


「出来ました?」


「そこまでは」


「えらいですね」


 かなり要求が低い指導になった。


 エルザがゆっくり次の動きを見せる。指を入れ、糸をすくい、手を開くと、糸が指の間で交差した。


「これが最初の形です」


「なるほど」


 俺もやる。


 絡まった。


「……」


「どうしてそうなるんですか?」


「俺が聞きたいです」


 右の人差し指と左の中指の間に、妙な結び目ができている。少し動かすと、余計に締まった。


 ヴェラを見る。


 ちゃんと形になっていた。


「ヴェラさん」


「はい」


「初めてですよね?」


「はい」


「本当に?」


「本当です」


 疑う理由はない。


 ないのだが、少し納得がいかない。


「子供より簡単なところから始めたんですよね?」


「始めています」


「俺だけ難易度が違いません?」


「同じ糸です」


「そういう意味ではないです」


 エルザが俺の手から糸を外し、絡んだ部分を指先でほどいていく。


「力を入れすぎています」


「力?」


「糸を落とさないように、指をずっと広げています」


 自分の手を見る。確かに、妙に力が入っていた。指先が少し白くなっている。


「少し緩めてください」


「落ちません?」


「落ちない程度に緩めてください」


 ドランにも最初の頃言われた気がする。


「簡単に言いますね」


「簡単ですから」


 出来ない人の気持ちを理解してほしい。


 俺は手の力を抜いた。


 もう一度。


 親指。


 小指。


 中指。


 反対側。


 糸をすくう。


 手を開く。


「あ」


 今度は形になった。


 張った糸が、指の間でちゃんと同じ形を作っている。


「出来ましたね」


「出来ました」


 エルザとヴェラが、ぱちぱちと拍手してくれた。


 思ったより嬉しい。


 単純な形なのに、しばらく眺めてしまう。糸が少し動くたび、形も一緒に揺れた。


「これが一番簡単なところですか?」


「かなり簡単な方です」


「……『かなり』が増えましたね」


 ヴェラが小さく笑った。


 厨房から包丁がまな板へ当たる音が続いている。昼が近づいているらしい。


◆


 しばらくすると、ヴェラは次の形を教わっていた。


 俺はというと、一度できたはずの最初の形が、なぜかまた絡まっている。


「さっき出来ましたよね?」


 エルザが言う。


「俺もそう思ってました」


「もう一度戻しましょう」


「はい」


 卓の上へ糸を落とすと、細い輪が木目の上へ重なった。エルザが拾い、また形を整える。


 卓の端では、リンがずっとこちらを見ていた。特にエルザが糸を動かすたび、少しずつ位置を変えている。


 糸へ寄る。


 離れる。


 また別の側へ回る。


「リン、やりますか?」


 エルザが聞いた。


 ちりん。


「何をするんです?」


「少し待ってください」


 エルザが糸を両手へ掛けた。


 今まで俺たちへ見せていたものより、指の動きが速い。


 右。


 左。


 指を返す。


 糸が重なり、細長い形へ変わっていく。動かすたび、糸が指の腹を滑った。


「速いですね」


「これは教えるためではありませんので」


 あっという間に、何本もの糸がエルザの指の間へ並んだ。張られた線が重なっている。


 ただ、まだ形は完成していないらしい。


「リン」


 エルザが片手を少し前へ出した。


「この一本を引いてください」


 ちりん。


 示された糸へリンが近づき、一度その前で止まった。


「それです」


 リンが身体を寄せ、糸へ触れる。細い一本がわずかに揺れ、少しずつ横へ動いた。


 一本だけが引かれていく。


「そのままです」


 エルザが残った糸を広げる。


 形が変わった。


 細長く伸びた何本もの糸と、その端にまとまった部分が出来ている。


「箒です」


「おお」


 思わず声が出た。


 リンが引いた一本が、最後の形を作っている。窓から入る光に、細い糸が何本も浮いて見えた。


 ちりん、ちりん。


「出来ましたね、リン」


 エルザが笑った。


 リンが箒の形を維持したまま、くるくると回る。引かれた糸も一緒に動いた。


「リン、俺より先に一つ作りましたね」


 ちりん。


「ノワールさんは競わなくていいです」


「まだ一番簡単なところで苦戦してるので、少し悔しいんですよ」


 ヴェラが箒を見る。


「リンにも出来るのですね」


「全部を一人でするのは難しいですけど」


 エルザが糸を見ながら答える。


「一緒に出来ることはあります」


 リンがもう一度、鈴を鳴らした。


 厨房から、今度は器を並べる音が聞こえてきた。


◆


 昼食が運ばれてきたところで、糸を片づけた。


 煮込みの湯気と焼いたパンの匂いが卓へ広がり、さっきまで糸を広げていた場所へ器が順に置かれていく。


 エルザは輪を丁寧に丸め、指先で形を揃えてから鞄へ戻した。


「次もやりますか?」


「もちろんです」


「では、次は二つ目ですね」


「一つ目を安定させてからにしましょう」


「慎重ですね」


「学びました」


 ヴェラが横から言う。


「次は私も二つ目からでしょうか」


「ヴェラさんは、その先でも大丈夫だと思います」


「え」


「差がつきましたね」


 少し悔しい。


「言わなくていいです」


 エルザの目元が和らぐ。


 髪をまとめた黄色い紐が、窓から入る風で少し揺れた。


「そういえば」


 俺は聞く。


「エルザさん、あやとりってどのくらいやってたんです?」


「長いですよ」


「どれくらい?」


 エルザが少し考え、匙を取ろうとしていた手を止めた。


「かなり長いです」


「答えになってません」


「そうですね」


 それ以上は教えてくれなかった。


 女将が置いた煮込みから湯気が上がっている。香草の匂いが近い。


 俺は匙を取った。


 向かいでは、ヴェラがまだ自分の指を見ていた。


「どうしました?」


「次は忘れないようにしようと思いまして」


「俺もです」


 指を動かしてみる。


 親指。


 小指。


 中指。


「ノワールさん」


「はい?」


「食べながら練習しないでください」


「まだ何も持ってませんよ」


「今からやりそうでしたので」


 匙を持つと、金属が器の縁へ小さく当たった。


「今は食べます」


「そうしてください」


 エルザが頷いた。


 卓の端では、リンがさっき箒を作った辺りを漂っている。糸はもう片づけられているのに、同じ場所を一度だけ回った。


 俺は匙を持ちながら、自分の指を見た。


 次は、せめてリンより先に作りたい。


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