第91話 一番簡単なところ
翌日の昼前、〈鈍色亭〉の食堂で茶を飲んでいると、入口の扉が開いた。外の明るさが一瞬だけ床へ伸びる。
「こんにちは」
エルザだった。
「いらっしゃい」
女将が厨房から返す。鍋の蓋が鳴り、煮込みの匂いが少しだけ食堂へ流れてきた。
昼にはまだ早いせいか、客は俺たちのほかに二組ほどしかいない。エルザはいつもの鞄を肩から下ろし、俺たちの卓へ歩いてきた。
髪の横に、見覚えのある色がある。
「あ」
「何ですか?」
淡い黄色の細い紐が、髪の一部をまとめていた。
「使い道、決まったんですね」
エルザが自分の髪へ触れる。
「はい」
以前買った紐だ。
「似合います」
ヴェラがすぐに言った。
「ありがとうございます」
「俺もそう思いますよ」
「聞いていません」
「……そうですか」
ヴェラが変な顔をしている。無理せず笑えば良いのに。
エルザが椅子へ座ると、木の脚が床を短く擦った。
「それと、今日はもう一つあります」
鞄を開き、取り出したのは小さく丸めた糸だった。輪になった糸を卓へ置くと、柔らかな束が少しだけ形を崩す。
「……まさか」
「約束しましたので」
「覚えてたんですか」
「ノワールさんが教えてほしいと言ったんですよ」
「言いましたね」
村から帰った日の食事を思い出す。
一番簡単なところからお願いします。
確かに言った。
「今日は依頼もありませんし、ちょうど良いかと思いまして」
「逃げ道を塞がれました」
「嫌ならやめますよ」
「やります」
即答した。
ここで逃げたら、あの子供より下だと認めることになる気がする。
「ヴェラさんもやりますか?」
エルザが聞く。
「私もよろしいのですか?」
「もちろんです」
ヴェラが少し姿勢を正した。
「では、お願いします」
参加者が増えた。
リンもエルザの肩口から卓へ降りてくる。
ちりん。
白い光が木の天板すれすれで揺れた。
「リンも見ますか?」
ちりん。
エルザが糸を手に取ると、リンがその指先へ近づいた。
「近いです」
リンが少しだけ後ろへ下がる。
「ちゃんと見たいんでしょうね」
「あとでリンにも出来るところを考えます」
ちりん。
鈴の音が一度鳴った。
◆
「まず、親指と小指です」
「はい」
俺も真似をして、輪を両手へ掛ける。細い糸が指の根元へ触れた。
思っていたより滑る。
「右手の中指で、左の掌側の糸を取ります」
「これ?」
「……ふざけてます?」
「え? 真面目にやってますけど……」
「一回目で違っています」
早い。
隣を見ると、ヴェラは黙ってエルザの手元を見ていた。右手の中指を伸ばし、糸を拾って戻す。
張られた糸が、指の間で細く震えた。
「こうでしょうか」
「はい。合っています」
「あれ?」
ヴェラが俺を見る。
「エルザ様の指を見ただけです」
「俺も見てましたよ」
「ノワールさんは見る場所が多くてわからなくなってるのかも?」
「指しかありませんでしたけど」
エルザが俺の手を見る。
「一度戻しましょう」
「はい」
糸を外すと、指先へ残っていた張りが消えた。
一番簡単なところ。
まだ形にすらなっていない。
もう一度掛ける。
「親指と小指」
「はい」
「中指で取る」
「はい」
「反対も」
今度はできた。糸が左右へ均等に張っている。
「出来ました?」
「そこまでは」
「えらいですね」
かなり要求が低い指導になった。
エルザがゆっくり次の動きを見せる。指を入れ、糸をすくい、手を開くと、糸が指の間で交差した。
「これが最初の形です」
「なるほど」
俺もやる。
絡まった。
「……」
「どうしてそうなるんですか?」
「俺が聞きたいです」
右の人差し指と左の中指の間に、妙な結び目ができている。少し動かすと、余計に締まった。
ヴェラを見る。
ちゃんと形になっていた。
「ヴェラさん」
「はい」
「初めてですよね?」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
疑う理由はない。
ないのだが、少し納得がいかない。
「子供より簡単なところから始めたんですよね?」
「始めています」
「俺だけ難易度が違いません?」
「同じ糸です」
「そういう意味ではないです」
エルザが俺の手から糸を外し、絡んだ部分を指先でほどいていく。
「力を入れすぎています」
「力?」
「糸を落とさないように、指をずっと広げています」
自分の手を見る。確かに、妙に力が入っていた。指先が少し白くなっている。
「少し緩めてください」
「落ちません?」
「落ちない程度に緩めてください」
ドランにも最初の頃言われた気がする。
「簡単に言いますね」
「簡単ですから」
出来ない人の気持ちを理解してほしい。
俺は手の力を抜いた。
もう一度。
親指。
小指。
中指。
反対側。
糸をすくう。
手を開く。
「あ」
今度は形になった。
張った糸が、指の間でちゃんと同じ形を作っている。
「出来ましたね」
「出来ました」
エルザとヴェラが、ぱちぱちと拍手してくれた。
思ったより嬉しい。
単純な形なのに、しばらく眺めてしまう。糸が少し動くたび、形も一緒に揺れた。
「これが一番簡単なところですか?」
「かなり簡単な方です」
「……『かなり』が増えましたね」
ヴェラが小さく笑った。
厨房から包丁がまな板へ当たる音が続いている。昼が近づいているらしい。
◆
しばらくすると、ヴェラは次の形を教わっていた。
俺はというと、一度できたはずの最初の形が、なぜかまた絡まっている。
「さっき出来ましたよね?」
エルザが言う。
「俺もそう思ってました」
「もう一度戻しましょう」
「はい」
卓の上へ糸を落とすと、細い輪が木目の上へ重なった。エルザが拾い、また形を整える。
卓の端では、リンがずっとこちらを見ていた。特にエルザが糸を動かすたび、少しずつ位置を変えている。
糸へ寄る。
離れる。
また別の側へ回る。
「リン、やりますか?」
エルザが聞いた。
ちりん。
「何をするんです?」
「少し待ってください」
エルザが糸を両手へ掛けた。
今まで俺たちへ見せていたものより、指の動きが速い。
右。
左。
指を返す。
糸が重なり、細長い形へ変わっていく。動かすたび、糸が指の腹を滑った。
「速いですね」
「これは教えるためではありませんので」
あっという間に、何本もの糸がエルザの指の間へ並んだ。張られた線が重なっている。
ただ、まだ形は完成していないらしい。
「リン」
エルザが片手を少し前へ出した。
「この一本を引いてください」
ちりん。
示された糸へリンが近づき、一度その前で止まった。
「それです」
リンが身体を寄せ、糸へ触れる。細い一本がわずかに揺れ、少しずつ横へ動いた。
一本だけが引かれていく。
「そのままです」
エルザが残った糸を広げる。
形が変わった。
細長く伸びた何本もの糸と、その端にまとまった部分が出来ている。
「箒です」
「おお」
思わず声が出た。
リンが引いた一本が、最後の形を作っている。窓から入る光に、細い糸が何本も浮いて見えた。
ちりん、ちりん。
「出来ましたね、リン」
エルザが笑った。
リンが箒の形を維持したまま、くるくると回る。引かれた糸も一緒に動いた。
「リン、俺より先に一つ作りましたね」
ちりん。
「ノワールさんは競わなくていいです」
「まだ一番簡単なところで苦戦してるので、少し悔しいんですよ」
ヴェラが箒を見る。
「リンにも出来るのですね」
「全部を一人でするのは難しいですけど」
エルザが糸を見ながら答える。
「一緒に出来ることはあります」
リンがもう一度、鈴を鳴らした。
厨房から、今度は器を並べる音が聞こえてきた。
◆
昼食が運ばれてきたところで、糸を片づけた。
煮込みの湯気と焼いたパンの匂いが卓へ広がり、さっきまで糸を広げていた場所へ器が順に置かれていく。
エルザは輪を丁寧に丸め、指先で形を揃えてから鞄へ戻した。
「次もやりますか?」
「もちろんです」
「では、次は二つ目ですね」
「一つ目を安定させてからにしましょう」
「慎重ですね」
「学びました」
ヴェラが横から言う。
「次は私も二つ目からでしょうか」
「ヴェラさんは、その先でも大丈夫だと思います」
「え」
「差がつきましたね」
少し悔しい。
「言わなくていいです」
エルザの目元が和らぐ。
髪をまとめた黄色い紐が、窓から入る風で少し揺れた。
「そういえば」
俺は聞く。
「エルザさん、あやとりってどのくらいやってたんです?」
「長いですよ」
「どれくらい?」
エルザが少し考え、匙を取ろうとしていた手を止めた。
「かなり長いです」
「答えになってません」
「そうですね」
それ以上は教えてくれなかった。
女将が置いた煮込みから湯気が上がっている。香草の匂いが近い。
俺は匙を取った。
向かいでは、ヴェラがまだ自分の指を見ていた。
「どうしました?」
「次は忘れないようにしようと思いまして」
「俺もです」
指を動かしてみる。
親指。
小指。
中指。
「ノワールさん」
「はい?」
「食べながら練習しないでください」
「まだ何も持ってませんよ」
「今からやりそうでしたので」
匙を持つと、金属が器の縁へ小さく当たった。
「今は食べます」
「そうしてください」
エルザが頷いた。
卓の端では、リンがさっき箒を作った辺りを漂っている。糸はもう片づけられているのに、同じ場所を一度だけ回った。
俺は匙を持ちながら、自分の指を見た。
次は、せめてリンより先に作りたい。




