第9話『暗闇に浮かぶ』
「……っ!?」
霜吉の頭の両脇に手をつき、覆い被さる氷蔵の頭から、さらさらと青黒の幕が落ちてくる。氷蔵自身の体で遮光され、彼の表情はよく見えない。笑っているような気がする。間近で聞こえた吐息に、霜吉は息を呑んだ。
「僕は、とても驚いてしまってね。若旦那の頬を引っ叩いた後、胴を蹴り飛ばして、旅籠から逃げてきちゃったんだ」
「っ、はぁ……!?」
「髪と服が崩れたのはそのせいだ。御前には誤解をさせてしまったね。途中で直してから会いに行こうとしたんだけど……御前に任せっきりだった弊害だね。中々上手くいかなかったんだ。ほら、帯の締め付けが弱くて、胸元がこんなに開いている」
「い……いい、説明しなくていいです……」
固く目を閉じる霜吉。そこに追い打ちをかけるように、こつんと額同士を重ねられる。
「可笑しな子だね。御前は僕の裸なんて見慣れているだろう。着付けや湯浴みを手伝って、ここ十年は見てきたはずだ。なのにどうして、そんなにいじらしい顔をするの。どうして、そんなに御前は可愛いの」
「だ……だって、ここは楽屋でも、湯場でもありません……俺の部屋です……!」
「そうだね。霜吉は、自分の部屋で僕が肌を見せているのは嫌かい」
「嫌っていうか……心臓に悪くて……春河屋の旦那みたいに、変な気を起こしそうで……! こ、怖いんです!」
霜吉は両手で顔を防御し、なんとか逃げようと身を捩る。すると、氷蔵の目がきらりと光った気がした。
次の瞬間、がっと霜吉の手が掴まれた。引き剥がされそうになり、慌てて霜吉も対抗する。どちらも譲らない攻防戦が始まった。
「別に、起こしたければ起こせばいいじゃないか。その、変な気ってやつを」
「ハァ~~!?」
「ただ、何故か御前も若旦那も、勘違いしてるから言っておくけど……」
氷蔵は攻防戦に打ち勝つと、霜吉の顎を掴んで持ち上げた。摘むどころではなかった。指がめり込む勢いだった。
「その時は僕が主導する。御前は、僕の手元でたくさん恥を晒してね。……ま、今日は疲れたし帰って寝るけど」
体を起こす氷蔵。霜吉の腹に座った彼は、乱れた髪を豪快に掻き上げ、『じゃあ、おやすみ』と立ち去ろうとする。ようやく攻防戦が終わり、息も絶え絶えの霜吉は、その背中をぼんやり見送ろうとして――
「あ……待ってください、氷蔵様。足を、怪我なさって……」
「は? 怪我?」
「はい。なんだか、右足を庇うように立ってらっしゃるから、気になって見てたら……月の下に出てください。怪我をしてるなら、薬を塗らないと。次の舞台に障ります」
「ちょ……変なとこで強引だよね、御前」
有無を言わさぬ霜吉に押され、氷蔵はしぶしぶ離れの縁側に立つ。崩れた着物の裾を上げると、氷蔵の右足には確かに、引っ掻いたような裂傷が入っていた。生地が吸っていたようで、足の汚れはそれほどでもなかったが。
「うわ」
氷蔵は顔をしかめた。自覚した途端、痛みがやってきたらしい。旅籠から逃げたときの興奮で、今までは麻酔がかかっていたのだろう。
霜吉が塗り薬を持って迫ると、氷蔵はげんなりとして足を出した。霜吉の常備する傷薬は、よく効き、よく染みることで有名だった。
*
雨雲が立ちこめて、空気が湿りを帯びる次の晩。氷蔵と霜吉は、栞座からの帰路を並んで歩いていた。
いつもは酔いどれで賑わう通りも、今日は客足が遠のき、消灯しているところが殆どだった。あまりに静かなので、温い風に押されて転がる、葉っぱの音さえよく聞こえた。
「この様子だと、夜中は嵐が来そうですね。明日は休演でしょうか」
「そうだね。……霜吉、ちょっとこっちに」
栞家の屋敷まであと少し。町内の小川にかかる橋を渡るところで、氷蔵は付き人の袖をぐいと引き寄せた。体を反転させられ、来た道を戻らされる。
「わっ……!?」
「声を出さないで。道を変えよう。屋敷のほうから来てる彼奴、小刀を隠し持ってる」
「……え」
霜吉は息を呑んだ。しかし、真偽を確かめたくても振り返れない。事実の場合、その挙動が着火剤になり得るからだ。霜吉は、氷蔵に引かれるがまま、橋から降りようとした。
「――なァ、おい」
話しかけられた。足を止めそうになるが、氷蔵に強く引っ張られる。速度を変えずに歩み続けた。
「止まれよ。なァ、止まれって。聞こえねーのか、てめェはぁ――!」
「っ!」
橋が軋んで、声の主が踏み出したのがわかった。霜吉はたまらず振り返る。そして、目を見開いた。鞘から外され、暗闇に浮かぶ鈍色の刀が、氷蔵の背に向かって振り下ろされていた。
「氷蔵様!」
「栞屋、氷蔵ぉぉ――っ!!」
声が重なった。霜吉は、刀と氷蔵の間に体を捩じ込ませた。考える余地はなかった。ただ腕を交差させ、盾のようにして、落ちてくる白刃に差し出した。
血が、飛び散った。




