↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
栞屋の女役には近づくな  作者: 霜月アズサ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/15

第8話『月の庭の逢引』

 その晩、霜吉は暇を持て余した。久しぶりの感覚だった。

 氷蔵が売れっ子になった十四くらいの頃から、霜吉にとって夜とは、氷蔵のために過ごす時間だった。

 観客の役になり、彼の自主練を見守ることもあれば、息抜きに将棋や、かるたに付き合うこともある。内容は日によって異なったが、兎角(とかく)ひとりで過ごすものではなかった。


 せっかくの暇だ。利用しようとも考えたが、特段したいことを思いつかなかった。かといって、いつもより早く(とこ)に着いても、眠気が全くやって来ない。それどころか、余計なことを考え出して、更に目が冴える始末だった。


 氷蔵は今頃、何をしているのだろうか。相手は春河屋の若旦那だ、きっと旬の食材を贅沢に使った馳走でもてなされ、とびっきり金のかかった贈り物をされて、その後は同じ床に――。


「うわぁぁっ!」


 危ない光景が過ぎりかけ、霜吉は布団から飛び上がった。こめかみに嫌な汗が滲む。その想像を消し去るように、霜吉は左右に頭を振り、部屋の障子に手をかけた。――夜風にあたろう。早く落ち着かなければ。


 ――氷蔵に付けられた霜吉のような、権力ある役者の付き人には、離れの各部屋を割り当てられていた。

 この時期の夜半は、月の昇る位置が絶妙で、月光に白む栞家の庭園を拝むことが出来る。蝉の鳴く声も相まって、それは風雅(ふうが)な眺めであり、乱れた霜吉の心を優しく落ち着けてくれた。


「ふー……」


 自然豊かな庭園の、澄んだ空気を体に循環させる霜吉。ゆっくりと、心拍が落ち着いていく。ところが、


「えっ……」


 なんとなく、視線を横にずらしたそのとき。母屋(おもや)から渡り廊下を通ってこちらに来る、氷蔵の姿が見えてしまった。


 その服装はわずかに崩され、青黒(せいこく)の長い髪は、霜吉の付けた髪留めを外されて、夏夜の(ぬる)い風に靡いていた。


 どくん、と心臓が跳ね上がる。何か言わなければ、と口を開くも、言葉が出てこなかった。意味もなく、口を開閉させることしか出来ない。

 一方、霜吉に気づいた氷蔵は、驚くほど平然としていた。


「霜吉? まだ起きてたんだ。いや、眠れなかったのかい? 僕が、朝帰りするんじゃないかって気になって」


「――!? い、いえ……」


「ふふ、隠さなくてもいいのに。……霜吉、これから少し、御前の部屋に邪魔してもいいかい? 今は、御前と話したい気分なんだ」


「あ……はい」


 霜吉は、今しがた出た部屋に戻り、布団の上に正座した。入ってすぐ膝を崩した氷蔵は、月光を背負って霜吉と向かい合う。


「――単刀直入に言うよ。春河屋の若旦那に求愛された。『答えはいつでも構わない、いつか俺のものになってくれ』ってね」


「ッ……!」


 霜吉は硬直した。春河屋は、氷蔵にとっても栞屋にとっても、重要な仕事先でありお客だ。その若旦那の求愛を無下にすれば、大なり小なり、栞屋の営業に影響が及ぶのは確実だった。

 それに、豪商である春河屋に身を置けば、安泰な人生が約束される。それが分からない人でもあるまい。霜吉は、膝に置いた拳を握りしめた。


「……氷蔵様は、どう……なさったのですか」


「断った」


「エッ」


 目を瞬かせる霜吉。氷蔵は、嘆かわしげに目を閉じて息を吐いた。


「あの旦那は知らないんだ。羽を()いで飼い殺しにした蝶が、もはや蝶と呼べない半端な虫であることをさ。……わかるかい? 莫大な金と引き換えに、舞台から降ろされた僕はもう、若旦那の好きな『栞屋氷蔵』じゃないんだよ」


「……!」


 そうだ。皆の愛する『栞屋氷蔵』は、舞台に立って、演じて舞を披露するから『栞屋氷蔵』なのだ。それを私物化し、誰かの愛人にされた氷蔵など、揶揄(からか)い好きで手を出すのが早い、ただの『栞氷蔵』であり――求めた人間とは別人である事実を、若旦那はまだ知らないのか。


「それで後々、『俺の知る栞屋氷蔵じゃない!』って返金願いを出されても困るんだけど……ってやんわり伝えたら、今度はあの旦那、なんて言ったと思う?」


「え? えーっと……」


「『じゃあ、君のことが知りたい。君のことを教えてくれ』って言われて……旅籠(はたご)の畳に押し倒されたんだ。こういう風にね」


「えっ……え?」


 霜吉の肩に手を置く氷蔵。次の瞬間、ぐっと体重をかけて押し倒された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。