第8話『月の庭の逢引』
その晩、霜吉は暇を持て余した。久しぶりの感覚だった。
氷蔵が売れっ子になった十四くらいの頃から、霜吉にとって夜とは、氷蔵のために過ごす時間だった。
観客の役になり、彼の自主練を見守ることもあれば、息抜きに将棋や、かるたに付き合うこともある。内容は日によって異なったが、兎角ひとりで過ごすものではなかった。
せっかくの暇だ。利用しようとも考えたが、特段したいことを思いつかなかった。かといって、いつもより早く床に着いても、眠気が全くやって来ない。それどころか、余計なことを考え出して、更に目が冴える始末だった。
氷蔵は今頃、何をしているのだろうか。相手は春河屋の若旦那だ、きっと旬の食材を贅沢に使った馳走でもてなされ、とびっきり金のかかった贈り物をされて、その後は同じ床に――。
「うわぁぁっ!」
危ない光景が過ぎりかけ、霜吉は布団から飛び上がった。こめかみに嫌な汗が滲む。その想像を消し去るように、霜吉は左右に頭を振り、部屋の障子に手をかけた。――夜風にあたろう。早く落ち着かなければ。
――氷蔵に付けられた霜吉のような、権力ある役者の付き人には、離れの各部屋を割り当てられていた。
この時期の夜半は、月の昇る位置が絶妙で、月光に白む栞家の庭園を拝むことが出来る。蝉の鳴く声も相まって、それは風雅な眺めであり、乱れた霜吉の心を優しく落ち着けてくれた。
「ふー……」
自然豊かな庭園の、澄んだ空気を体に循環させる霜吉。ゆっくりと、心拍が落ち着いていく。ところが、
「えっ……」
なんとなく、視線を横にずらしたそのとき。母屋から渡り廊下を通ってこちらに来る、氷蔵の姿が見えてしまった。
その服装はわずかに崩され、青黒の長い髪は、霜吉の付けた髪留めを外されて、夏夜の温い風に靡いていた。
どくん、と心臓が跳ね上がる。何か言わなければ、と口を開くも、言葉が出てこなかった。意味もなく、口を開閉させることしか出来ない。
一方、霜吉に気づいた氷蔵は、驚くほど平然としていた。
「霜吉? まだ起きてたんだ。いや、眠れなかったのかい? 僕が、朝帰りするんじゃないかって気になって」
「――!? い、いえ……」
「ふふ、隠さなくてもいいのに。……霜吉、これから少し、御前の部屋に邪魔してもいいかい? 今は、御前と話したい気分なんだ」
「あ……はい」
霜吉は、今しがた出た部屋に戻り、布団の上に正座した。入ってすぐ膝を崩した氷蔵は、月光を背負って霜吉と向かい合う。
「――単刀直入に言うよ。春河屋の若旦那に求愛された。『答えはいつでも構わない、いつか俺のものになってくれ』ってね」
「ッ……!」
霜吉は硬直した。春河屋は、氷蔵にとっても栞屋にとっても、重要な仕事先でありお客だ。その若旦那の求愛を無下にすれば、大なり小なり、栞屋の営業に影響が及ぶのは確実だった。
それに、豪商である春河屋に身を置けば、安泰な人生が約束される。それが分からない人でもあるまい。霜吉は、膝に置いた拳を握りしめた。
「……氷蔵様は、どう……なさったのですか」
「断った」
「エッ」
目を瞬かせる霜吉。氷蔵は、嘆かわしげに目を閉じて息を吐いた。
「あの旦那は知らないんだ。羽を捥いで飼い殺しにした蝶が、もはや蝶と呼べない半端な虫であることをさ。……わかるかい? 莫大な金と引き換えに、舞台から降ろされた僕はもう、若旦那の好きな『栞屋氷蔵』じゃないんだよ」
「……!」
そうだ。皆の愛する『栞屋氷蔵』は、舞台に立って、演じて舞を披露するから『栞屋氷蔵』なのだ。それを私物化し、誰かの愛人にされた氷蔵など、揶揄い好きで手を出すのが早い、ただの『栞氷蔵』であり――求めた人間とは別人である事実を、若旦那はまだ知らないのか。
「それで後々、『俺の知る栞屋氷蔵じゃない!』って返金願いを出されても困るんだけど……ってやんわり伝えたら、今度はあの旦那、なんて言ったと思う?」
「え? えーっと……」
「『じゃあ、君のことが知りたい。君のことを教えてくれ』って言われて……旅籠の畳に押し倒されたんだ。こういう風にね」
「えっ……え?」
霜吉の肩に手を置く氷蔵。次の瞬間、ぐっと体重をかけて押し倒された。




