第7話『若旦那のお誘い』
「――嗚呼、楽しかった」
鏡台の前に腰を下ろした氷蔵は、全身に汗をまとい、吐息に熱を滲ませながらも、ひどく満足げだった。
八月の演目『木田白玉伝』は、氷蔵を含む役者たちの名演技により、七年前の初公演の伝説に劣らない、熱狂的な人気を博していた。
「お疲れ様でした、氷蔵様! お客さんの声、凄かったですね。舞台裏までガンガン響いてきて」
準備万端で待機していた霜吉は、お春の鬘と衣装を外し、化粧を落とし、氷蔵の全身を次々揉みほぐしていく。
霜吉たち付き人は基本、公演中の舞台をうかがうことは出来ない。舞台裏を走り回り、役者の着替えを手伝ったり、汗で落ちた化粧を直したりして、全く暇がないからだ。
しかし観客たちの声援から、誰の演技がよかったのか、どこが一番盛り上がったのかは、容易に知ることが出来た。
「氷蔵様のお春、今日も好評でしたね」
「……ああ。皆、いい顔をしていたよ。まるで僕に恋してるみたいだったね。熱っぽく見つめるものだから、全身が焼け焦げるかと思った」
足裏の指圧を受けながら、くすくすと笑う氷蔵。そのときだった。楽屋の襖が開いて、氷蔵の先輩役者の付き人が現れた。
「失礼しやす、氷蔵様。春河屋の旦那が、氷蔵様にお会いしたいと」
「……!?」
霜吉は目を見張り、足を揉む手を思わず止めた。
春河屋は、日本橋に構える大商店だ。並いる競合の中でも業績の抜きん出た呉服屋であり、栞屋は古くから、春河屋に一部の――主に、女形の衣装製作を委託していた。
確か、氷蔵によく『花』を贈っている贔屓のひとりでもある。その春河屋の若旦那が何故。
否、霜吉は答えを知っていた。役者を贔屓にする旦那が、舞台に通い詰め、たんまりと花を贈った後にすることなど知れている。
「……氷蔵様」
霜吉の口から零れたのは、自分でも驚くほど、不安に満ちた声音だった。氷蔵は少しの間口を結び、それから立ち上がった。
「そうか。あの若旦那が、ね。……そろそろ来るころだと思ってたが、読みは当たっていたか」
「……っ」
「ふふ。なに悲壮な顔をしてるんだい。まぁ、可愛い付き人との時間を邪魔されて、あまり気乗りしたものじゃないが……残念ながら、そう無下に出来る相手でもない。寒九郎さんに声をかけて、少しばかり出掛けてくるよ」
氷蔵の手が、霜吉の明るい茶髪をさらりと撫でる。遠ざかる背中に焦燥を掻き立てられながら、しかし引き留めるための言葉を口にすることは出来なかった。
見送りの言葉はひどく掠れ、氷蔵に届いたかは分からなかった。




