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栞屋の女役には近づくな  作者: 霜月アズサ


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第6話『でかい海老天と蕎麦』

 蕎麦屋の暖簾(のれん)をくぐると、鰹節と甘醤油の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。昼時を過ぎていたのもあり、霜吉の腹の虫がぐうぐう鳴く。

 入って右側に、厨房とそれに面する立ち食い席が。左側に、机と腰掛けが並んでいた。氷蔵は、机を挟んで奥の腰掛けに、霜吉は手前の腰掛けに腰を下ろした。


 女将が注文を取りに来ると、氷蔵は壁にかかった木札を見上げた。


「海老天の蕎麦を大盛りひとつ。芋天の蕎麦を並でひとつおくれ。薬味は生姜と(ねぎ)と……霜吉は何がいい?」


「あっ、大根おろしが好きです……」


「じゃあ、そいつも追加で頼むよ」


 はいよ、と女将が立ち去っていく。霜吉は机に身を乗り出し、思いきって口を開いた。


「あ、あの……氷蔵様。何か掴めるかもしれないっていうのは……?」


「内緒。今言ってしまっては意味がないからね。あとで教えてあげる。それより御前、稽古場を出るときに何か言いかけてた気がしたけど」


「あ……その……」


 おずおずと引っ込む霜吉。近くに客がいないのを確認すると、たっぷり息を吸い込んで、吐き出した。


「……氷蔵様。俺は、氷蔵様のことが好きです」


「は?」


 突然の告白。流石の氷蔵も面食らったようだった。目を剥く彼の視線を受け、かぁっと顔を赤くしながら、霜吉は言葉を絞り出す。


「だから、その……もし氷蔵様が、自分は愛されてない、って思ってるんだとしたら……俺はそれを、断固否定します。だって、俺がいますから」


「……」


「す、すみません。急にこんなこと言って。でも、氷蔵様が……珍しく、稽古でつまずいてたから。もしかして、この前水茶屋で言ってたことが、演技の邪魔をしてるんじゃないかと思って……その憂いを、少しでも無くしたかったんです」


 思い出すのは、茶屋娘のミツを見る氷蔵の、寂しげな眼差し。

 結局、本当に愛されるのは彼女のような人なのだ――と零していた氷蔵。江戸中の観客を虜にし、溺れるほどの愛情を注がれる彼が、どうしてそんなことを言ったのかは、分からないけれど。


 もし、氷蔵が茶屋娘に劣等感を抱いているのなら。それを演じることに、苦痛を感じているのなら。霜吉は伝えたかった。

 氷蔵もまた、誰かに心から愛されているのだという事実を。


「氷蔵様、よく覚えておいてくださいね。俺は、その……氷蔵様を……くっ……」


「ふっ。あははははは!!」


 羞恥で言葉が続かない霜吉に、氷蔵は腹を抱えて笑いだした。机に伏したかと思うと、肩を小刻みに震わせて、白い指でたんたんたん、と机を叩いていた。霜吉は、全身から湯気が上がるような思いだった。


 じきに、揚げたての天ぷらと蕎麦が運ばれてきた。霜吉はヤケクソに手を合わせると、逃げるように海老天を勢いよく頬張った。

 口の中で油が飛び散り、ほくほくの海老が転がる。舌が火傷しそうに熱い。けれど、急ぐ手が止められなかった。


 やがて、氷蔵は顔を上げて目元を拭った。


「あぁ、面白かった。格好いいところが見られなかったのは残念だけど……ふふ、御前はいい子だね。僕のことを気にかけていたんだ。……美味しいかい?」


「……っ、はい……凄く……美味しいです、けど……」


「そうか。それはよかった。……うん。そろそろ、話してもいい頃合いだろう」


「……!」


 霜吉の手が止まった。氷蔵はそっと手を合わせると、袖を引き上げて箸を手に取った。


「御前の推理だけど、残念だが少し外れている。茶屋娘の役が苦手なのは確かだよ。でもそれは、僕が茶屋娘に敗北感や、劣等感を覚えているからじゃない。単純な、茶屋娘への無理解だよ」


「……無理解?」


「あぁ。……僕はさ、分からなかったんだ。ありのまま愛される方法が。芝居の世界に、長く浸かった弊害だね。上っ面を、綺麗に塗り固めた自分を売ることに慣れて……素直な自分で愛される、茶屋娘の存在が理解できなかったんだ」


 氷蔵は、蕎麦を取ってつゆに浸した。出汁の香る水面には、自嘲げな笑みが映っていた。


「大役に抜擢(ばってき)されるために、脚本に名前を売り込んだり。特別な指導をつけてもらうために、先輩役者に愛想を振り撒いたり……贔屓にしてもらうために、客と一夜を共にする役者も、この世界には多くいる」


「……そう、ですね」


「僕は、それしか見てこなかった。だから、打算尽くしの愛され方しか知らなくて……茶屋娘になりきれず、あんな醜態を晒したのさ」


 からからと、氷蔵は乾いたように笑った。横髪を耳にかけて、静かに蕎麦を啜る。


「……それから、考えたよ。稽古をしながら、ずっと考えてた。どうしたら、茶屋娘の在り方が理解できるだろうって。それで……とりあえず、御前に何か食わせてみようと思ったんだ」


「えっ……?」


「高いものや、珍しいものじゃない。御前が本当に好きなものをあげて、御前が腹を一杯にして、幸せそうな顔をしてくれたら、茶屋娘のことがわかるんじゃないかと思ってね。ま、僕は奢っただけだけど……」


 氷蔵は、頬杖をついた。霜吉の顔を覗き込む目が、うっとりと細められる。


「正直、絶景だね。高いものや、珍しいものをあげるときとは、格別の悦楽だ。もっと、質のいい喜びを感じるよ。なんというか……何もいらないって感じだね」


「何も、いらない……?」


「ああ。大袈裟にありがたがられなくても、大した見返りが得られなくても、まぁいいか、と思えるくらい満たされてるのさ。きっとこの気持ちが、愛される茶屋娘の気持ちなんだろう」


 氷蔵は、挑発するように口角を引いた。


「まぁ、でも、あわよくば……もっと僕に惚れこめばいい、とは思ってるけどね」

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