第5話『春を知らない氷』
栞屋の稽古場。畳張りの広間に集った役者たちは、代わる代わる中央に出て、八月の興行に向け稽古をしていた。
今度の作品は、かつての栞屋を盛り上げた代表作『木田白玉伝』。
世間を賑わせる大泥棒・木田が、逃亡中に茶屋の娘に助けられ、義理を果たすため、娘の母の形見である伝説の石を巡り、幕府を相手に大暴れする人情モノである。
氷蔵は、その準主役。元気な働き者の茶屋娘・お春の役を割り当てられていた。ところが――
「馬鹿だねえ。あたしみたいな小娘だって、あんたの名前は知ってるよ。木田百之助……今やお上もお冠の、天下の大泥棒――だらう?」
台帳を携えた寒九郎の指示のもと、台詞を確認しながら進んでいた稽古は、氷蔵の台詞に入った途端淀み始めた。
「氷蔵。言葉に含みを持たせすぎだ」
「――寒九郎さん」
「今回お前が演じる、茶屋の娘『お春』は、ただのお人好しの娘だ。木田を助けたのもその善性からで、他に理由はない。もっと素直に話してみろ」
「はい、わかりました」
そうして、一時は調子を取り戻した稽古も、動きをつけ始めると、頻繁に途切れるようになった。
「歩き方は早く、自信に満ちた感じで」
「相手の目を意識するな。顔の力を抜いて、自然体で振る舞うんだ」
「口角をはっきり上げろ。笑うときは大きく笑え」
「……っ」
部屋の端から見ていた霜吉は、ぎゅっと拳を握りしめる。氷蔵が、これほどつまずいた稽古を知らなかった。寒九郎から指示が飛ぶたび、自分事のように焦って身が竦んだ。
初めは、栞屋にとって大事な作品の再演だから、いつもより指導に熱が入っているのだと思った。
だが、見守るほどそれが違うことに気づく。氷蔵は、普段と比べて明らかにぎこちなかった。痛感しているのか、氷蔵の眉根にも、ぐっと皺が寄る瞬間が幾度かあった。
ふいに霜吉は、先日訪れた水茶屋で、氷蔵が零した言葉を思い出す。
――本当に愛される人間ってのは、あの子みたいなのを指すんだろうね。
「……もしかして」
あの発言が関係しているのだろうか。あの日は、結局理由を聞けずじまいだったが――まだ、役割は仮決めの状態だ。このままだと氷蔵は、役を外されてしまうかもしれない。
尤も、栞屋を観に来る客の半分は、氷蔵目当てに来ているので、舞台そのものから外されることはないだろうが――
氷蔵にはなるべく、長く舞台に立ってほしい。全力を出し切って、汗だくになって、なおも『楽しかった』と帰ってくる、彼を労る時間が好きだから。
「……よし」
霜吉は心を決めた。今度こそ言葉の理由を聞き、自分が氷蔵を支える。そう決意して。
その日、稽古が終わると霜吉は、水を絞った手拭いと共に、氷蔵のもとに駆け寄った。が、その名前を呼ぶ前に、氷蔵が振り返る。
「霜吉。御前、好きな食い物はあるかい」
「えっ、あ、えぇ? す、好きな食べ物……?」
出鼻を挫かれた霜吉は、目を白黒させながら、氷蔵の真っ赤な頬や首を拭く。頭の中を、米やら肉やら魚やらが飛んでいった。
「ええっと、塩むすび、あさりの味噌汁……焼いたほっけ、大根の煮物……あっあと、蕎麦、でかい海老天の乗った蕎麦が好きです」
「そうか。じゃあ、今からでかい海老天の乗った蕎麦を食いに行こう」
「今から!?」
霜吉が目を剥くと、その手首を氷蔵は、両手で包むようにして握った。そして、首を傾げて手拭いに頬を当てる。氷蔵は、気持ちがよさそうに目を細めた。
「あぁ。そこで何かが掴める気がするからね」




