第10話『死ぬなら勝手に』
霜吉の腕が、降ってきた白刃に深々と斬りつけられた。
「ぐ、ぁぁぁ……っ!?」
縦一文字の熱に、思わず後退り傷口を押さえる。もちろん血は止まらない。手の中からこぼれた血が、ぼた、ぼたと橋に落ちた。
相手の男も驚いたようだった。しかし、邪魔が入ったことへの怒りが瞬時に勝り、男は別の角度から再び斬りかかってきた。
「邪魔だ……! すっこんでろ!」
「……っ!」
斬られる痛みを覚えた体は、二度は言うことを聞かなかった。飛んでくる凶刃に、身を竦ませ受け身になる霜吉。すると、ぐいと後ろ襟を引っ張られた。
氷蔵だ。霜吉と入れ替わるように前へ出た彼は、凶刃の下で閉じた番傘を振り上げる。衝突。直後、氷蔵は男の脇腹を蹴り飛ばした。
「ぐっ……!?」
勢いよく体勢を崩した男は、欄干に頭を打ち付ける。男の手から離れた小刀は、軽く跳ねた後、橋の上をするりと滑った。
男の立て直しは早かった。強打した頭を振り、得物を取り戻そうと急いで這う。が、伸ばした手は氷蔵の下駄に踏みつけられた。氷蔵から、ひどく冷淡な声がこぼれる。
「春河屋の、若旦那だね。贔屓の男に振られた次は、殺して恨みを晴らそうってのかい? むなしいねえ、女々しいったらありゃしない」
「……! 春河屋って……」
腕の痛みに苦悶を浮かべ、体を縮こめていた霜吉は、合点がいき唾を呑む。氷蔵が、手を踏む足をぐにりと捻ると、若旦那が呻き声を上げた。
「が、ぁぁ……っ! はっ、はは……俺にちゃらちゃら愛想振りまいて、慎ましく笑ってた野郎の……裏の顔がこれか……女狐たぁ、テメェのような、奴を言うんだろうなァ……その様子じゃあ、俺がテメェに、いくら使ったかも……把握しちゃ、いねェんだろうよォ……!」
橋に伏せた男が、悪態をつき嘲笑を浮かべる。すると、氷蔵は心外だとでも言いたげに眉をひそめた。
「はあ? 僕を馬鹿にしてんのかい。それくらい覚えてるよ。個人に贈られた花は、個人で計上するんだから。何度も算盤を弾いたし、きちんと頭に残ってるよ」
「~~ッ、どっちが……!」
若旦那は、無理やり氷蔵の足を振り切ると、小刀を掴み取った。四つん這いの状態から、氷蔵のふくらはぎ目掛けて刀を振るう。空振り。ひょいと跳んで後退し、小気味よく下駄を鳴らした氷蔵は、霜吉を背に番傘を構えた。
「氷蔵様……っ!」
「ごめんね、すぐに片付けてやれなくて。申し訳ついでに、遠回りで屋敷に帰って、人を呼んできてくれるかい? それまでは、なんとか生きてみるつもりだから」
「……っ、はい!」
霜吉は橋から降り、若旦那を迂回する経路で栞邸を目指した。
残された氷蔵は、小さく息を吸って吐く。つい先月、露姫として荒くれ者と得物を交えたばかりだ。あの再演だと思い込めば、不思議と心は落ち着いていた。
「……そういえば、聞きそびれていたけど。御前の目的はやっぱり、振られた腹いせに僕を殺すこと……でいいのかい?」
「ハッ、殺す? 違うな……テメェはここで、俺と心中するんだ……!」
「心中? 僕が、御前と? 冗句にしても出来が悪いね。それに、そこまで想われていた覚えも……あぁ、そうか!」
氷蔵は無邪気に驚いてみせた。
「御前、酒の席かどこかで浮かれて、『栞屋氷蔵は俺が囲う』なんて豪語したんだろう! 商売敵にでも」
「――ッ!」
「そしてそれが叶わなかったから、面子がボロボロで業界の居心地が悪くなってしまったんだ。僕を連れて逝こうってのは、せめてもの自分への慰みか。はぁ、さっきは出来が悪いなんて言って悪かったね。抱腹絶倒の傑作だよ」
「ッ、いちいち気に障るガキだ――!」
若旦那は肉薄し、氷蔵に攻撃を叩きこんだ。技術もへったくれもない、怒りを力に繰り出される剣技。氷蔵は極めて冷静に、番傘で受け流していたが、傘の耐久限界が来た。度重なる斬撃――否、もはや打撃と呼ぶべき乱暴な殴打により、傘の芯に亀裂が入ったのである。
「ちっ……」
たたらを踏んで下がった氷蔵は、これ好機と突進してくる若旦那の顔に、脱いだ下駄を投げつける。続けてもう片方をぶつけると、若旦那が怯んだその一瞬に、右足でぐっと踏みこんで、若旦那の懐に肩からぶつかった。
「ぐぅ……っ!」
転倒した若旦那は、氷蔵と揉み合いになって橋を転がる。より重い体を活かし、氷蔵の上に乗り上げた若旦那は、氷蔵の細い首に無骨な両手をかけた。
「……っ、ははは、死ねェ……っ!!」
「か、ぁっ……! はっ、ごほ、死ぬなら……勝手に、死ね……っ!」
緩く握った二本指の背で、若旦那の喉を殴りつけた。若旦那はむせ、咄嗟に喉を押さえる。氷蔵はその隙に、彼の横っ面を殴り飛ばした。若旦那が倒れた方向と、真逆に体をねじって股ぐらから脱出する。
「はぁっ、はぁ、はぁ……っ」
ぽつぽつと、雨が降り出した。雨音に混じって、栞邸のほうから数人、大人が走ってくる音が聞こえる。
ひゅう、ひゅうと、隙間風のような息をしながら、恨みがましく睨む若旦那を前に、氷蔵は覚束なく立ち上がった。最後に、どんな言葉を吐いてやろうか、と思案して――
「……御前はこれから、殺人未遂の罪人として裁かれ、おそらく江戸から追放されるだろう。春河屋が、別の者に継がれるか、悪評によって潰れるかはわからないけど……どのみち、今度こそ御前の居場所がなくなる」
「……っ」
「でも。栞屋は……御前を歓迎してやるよ。衣装の件で、少なからず世話になっていたしね。御前が良い子でいる限り、観劇することを赦してやる」
駆けつけた大人たちが、三人がかりで若旦那を捉える。氷蔵は、若旦那に背を向けて、
「――ま、時間はたっぷりあるさ。ゆっくり自分を改めておいで」




