第11話『僕が好きなのは』
九月某日。蝉の声も幾らか遠くなった朝。霜吉は朝餉を食べてすぐ、栞邸近くの菩提寺を訪れていた。
「来たよ、松ばぁ」
道具一式を持って、墓地に入る霜吉。ある墓石の周りを掃き、水を打って、布巾で石の汚れを落とす。湯呑みを替え、線香を焚くと、墓前にしゃがみこんで手を合わせた。
ここは、霜吉を拾ってくれた女中頭の、松が眠る場所。霜吉は、興行の合間の僅かな暇に、こうしてよく墓参りをしに来ていた。
――松ばぁが亡くなったのは、霜吉が十二歳のとき。長年の奉公によるものか、足を悪くしていた彼女は、日課の散歩の最中に転び、頭を強く打ってしまったのである。
年は五十も離れていたけれど、実の母親のように育ててくれた松ばぁ。彼女を弔う日、人目を憚らず泣いたことは、今でも霜吉の脳に強く焼き付いている。
まだ、彼女のような手際の良さや、料理の腕は、霜吉にはないけれど。
「いつか、必ず……」
誓いを口にしかけたそのとき、近づいてくる足音が聞こえた。
ここは栞家の人間や、栞家によく尽くした奉公人の眠る場所。人気役者の命日でもない限り、部外者の人間は滅多に入らない墓域だ。一体誰かと振り返ると、
「……氷蔵様?」
そこには、おろしたての番傘を差した氷蔵がいた。元々幽鬼のように肌の白い氷蔵は、清涼な空気が満ちる菩提寺にいると、いつもより浮世離れした容貌に見えた。
氷蔵は小さく笑った。
「栞家の墓になんて、滅多に来ない僕がいて、吃驚したかい? ふふ、悪いね。でも、御前に話したいことがあったんだ。出来れば、今すぐにさ」
「話したいこと……どうしたんですか」
霜吉が、きょとんと目を瞬かせると、氷蔵は傘の中で目を伏せた。
言い難いことがあるときの癖だ。幼少の頃は特によく見た。主に、霜吉が取っておいた飴玉や金平糖を、勝手に食べた氷蔵が頻繁にしていた。
いや――それとも少し違うだろうか。
霜吉が、静かに続きを待っていると、凪いだ湖畔に石を投げるように、その言葉は落とされた。
「さっき、父上に見合いの話を持ちかけられたんだ」
「……え」
霜吉の息が詰まった。寺の林がざわめいて、朝の風が二人の間を吹き抜けていく。氷蔵の目が、霜吉を見た。
「この前、僕が春河屋の若旦那に殺されかけたとき……あのクソ親父、なんて言ったと思う? 『有事の前に、お前の子供を残せ』って言ったんだ」
「――」
「『認めたくないが、お前は美しい。栞屋にお前の血を残さなきゃならない』『あの神田屋に勝つためだ。お前は成すべきことをしろ』ってね。アイツ、息子が殺されかけたって聞いて、誰かと交配させることしか考えてなかったんだ」
「そんな……」
霜吉は言葉を失った。氷蔵の父の考え方にも、氷蔵に見合い話が来たことにも、ひどく衝撃を受けていた。
神田屋。大阪を中心に、今も絶大な人気を獲得している上方歌舞伎の名門。伝統ある栞家の家督として、氷蔵の父が、闘争心に燃えているのは理解できるけれど。
「……するんですか? 見合い」
重たい口調で尋ねると、氷蔵はぶん、ぶんと大きく首を振った。
「いーや? 全然」
「……え? えっ、え? う、受けるから、俺を探して言いに来たんじゃ……」
「いや全く。彼奴の態度に腹が立ったから、御前に愚痴を言いにきただけ。見合いなんかするわけないだろ」
氷蔵は、華奢な肩をはっきりと竦めてみせた。
「僕の人生は僕のもの。歌舞伎も、好きでやってることだ。家に貢献したいなんて思ったことないし。どこぞの娘との結婚願望なんかもっとない」
「あ、あの、一応ここ、栞家の墓前……」
「そうだよ。だから言いにきたんだろ」
「えっ?」
霜吉が唖然と聞き返すと、栞氷蔵は真っ直ぐに、当然のように、何のためらいもなく言ってのけた。
「霜吉。僕が本当に好きなのは、御前だ」




