第3話『橋の下の棄児』
茹だるような炎天の下。霜吉は、栞家の庭園にしゃがんでいた。青々と伸びた雑草を、一つ、またひとつと抜いていく。大粒の汗が頬をつたった。遠くで蝉が鳴いている。
七月の興行が無事に終わり、栞家の家督である氷蔵父は、栞座を管理する『座元』や、栞家に資金提供をしている『金主』を招き、これから盛大な酒宴を開こうとしていた。
そして、家の女中たちに豪勢な料理の用意をさせるほか、霜吉にも中庭の手入れを命じたのである。
氷蔵の付き人である霜吉は、氷蔵の身の回りの世話や、化粧道具の点検が主な仕事だ。が、こうして家の手伝いをすることもままあった。
「まぁ、氷蔵様は俺が手伝ってるのをよく思ってないみたいだけど……」
ブツブツ呟きながら、足元の雑草を追い詰めていく霜吉。庭を跨ぐ渡り廊下に突き当たると、からかうような声が降ってきた。
「へえ? 自覚があったんだ。自分は、寂しがる御主人様をほっぽって、他の男に媚びを売る駄犬だって」
「っ、氷蔵様!?」
バッと顔を上げると、渡り廊下に感心した顔の氷蔵が立っていた。
黒を基調とした、涼しげな軽装だった。女物だ。数ある一門の中でも、格別と謳われる『栞屋の女形』は、その私生活でも女の格好を求められていた。栞屋独自の役作りである。
覗いた手足は幽鬼のように生白く、また藍に染めた絹を思わせる細髪は、形に可愛らしい工夫が施されていた。
髪全体を片側に流し、耳の下でひとつ結びにする。束ねた髪に二度折れ癖をつけ、最初の結び目に留めて三角を作った後、残りの毛先を胸に垂らす――というものである。
霜吉と氷蔵が九つのとき、思いつきで作ってやって以来、休演日は毎朝ねだられる髪型だった。
「い、いつからいらしたのですか」
「少し前からだけど……暑さで頭がやられたのかな。急に喋り出して吃驚したよ。やっぱり、あのクソ親父の言うことなんか聞くべきじゃないね」
「……そう仰らないでください。俺が栞屋にいられるのは、当主様の寛大な措置のおかげ。あの方には多大な恩があります。氷蔵様も、よくわかっておいででしょう」
それは、十八年前のこと。生まれて間もなく捨てられた霜吉は、当時栞家に三十年近く奉公していた、松という女中頭に拾われた。
氷蔵父からも慕われていた松は、当主になりたてだった氷蔵父に、『故郷でこの子を育てたい』と相談をしたらしい。
ところが、母親代わりの松を手放せなかった氷蔵父は、どうにか彼女を引き留めるため、霜吉を栞家の皆で育てることを提案したのだそう。
「……」
扇子で顔を扇いでいた氷蔵は、不服そうに眉をひそめた。
「御前が逆らえないとすれば、クソ親父じゃなく松のほうだろう。クソ親父は結局、赤ん坊の御前にろくすっぽ関わらなかったそうじゃないか。育ての母を取られたからって、御前に醜い嫉妬をして」
「う……それは……」
霜吉がぎこちなく目を逸らすと、氷蔵は溜息をついた。しゃっと手持ちの扇子を閉じる。
「……まぁいいさ。ところで、今日の朝稽古の付き合いをすっぽかした分の、埋め合わせをしてほしいんだけど。削り氷を食べに行くから、出かける準備をしなよ」
「……え? 削り氷って、あの……ふわふわの細かい氷の山に、甘い蜜をかけて食べるっていうアレですか? アレって、俺たちも食べられるんですか?」
「あぁ。あれはもう、姫様だけの菓子じゃないよ。ついこの前、市井に降りてきてね。相模のほうから始まって、最近は江戸でも流行ってるんだそうだ。まぁ、かなり値は張るらしいけど」
氷蔵は袂から財布を取り出した。長方形の、布製の入れ物だ。少し膨らんだそれは、紐でくくって綴じてあった。
「この前の興行で、気前のいい旦那たちにたんまりと花をもらった。今日は、御前にたっぷり食わせてやるよ」
「は、花って……いけません、氷蔵様! それは、お客さんが氷蔵様の芝居を気に入って出したものでしょう! 俺の贅沢には使えません」
「ふん。自惚れるんじゃないよ。これは、僕の贅沢だ。兄さんたちが遊郭の女に、酒をじゃぶじゃぶ飲ませるのと同じさ。誰かが、自分のおかげで幸せになってるのを見る……そういう、悪ぅい娯楽なのさ」
氷蔵はおもむろに膝を折り、霜吉の顎を革財布でクイと持ち上げた。
「高いもの、珍しいもの、たくさん御前にあげる。だからちゃあんと楽しませるんだよ、僕の子犬」
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