第2話『氷蔵の世話係』
栞座の公演は、一日かけて行われる。お開きになる頃には、栞座の空は茜色に染まっていた。
「嗚呼、楽しかった」
楽屋の襖を引いた氷蔵は、鏡台の前で膝を崩す。楕円の鏡には露姫と、西日の差す八畳ほどの座敷が映っていた。白粉をはたいた顔の片側が、持ちこんだ手燭の灯りに濡らされている。
「全く。霜吉ったら遅いねえ。兄さんたちなんかほっといて、僕の世話だけしてればいいっていつも言ってるのに。要領が悪い癖をして、やたらあちこち手伝いたがるんだから」
鏡台に肘をドカリとつき、紅を引いた唇を尖らせる氷蔵。間に襖を一枚挟み、役者や付き人、裏方たちの喧騒を背中に聞く。
寒九郎や氷蔵のような、人気と実力のある役者にはひとり部屋が宛てがわれる。が、それ以外の者は皆、大部屋で一斉に着替えるので、この時間帯は騒々しいのが常だった。
ガタ、と慌てたように襖が開いた。
「お待たせしました! 申し訳ありません、氷蔵様!」
「ふん。待ちくたびれちまったよ。今の僕を待たせて許されるなんて、寒九郎さんくらいのものだと思っていたけど……御前も、知らないうちに随分偉くなったものだね。――霜吉」
氷蔵はゆっくり振り返り、現れた青年を見咎める。
氷蔵よりも少し、体格のいい男だった。歳は同じ十八歳。江戸では珍しい栗色の髪をしている。橋下に捨てられたところを、栞家の女中に拾われたのだという彼曰く、『南蛮人の血でも入っているのだろう』とのことだった。
太めの眉と柔らかい目尻の、純朴そうな面立ちは、人懐っこい成犬に似ている。尤も、氷蔵はこの顔が好きではなかった。飼い犬があちこちに盗まれ、頼み事をされる要因だからだ。飼い主はふうと溜息をついた。
「どこ行ってたの。御主人様をほっぽって」
「た……竹中さんのところです。『立ち回りで足を挫いた、移動もままならねえ』って俺の肩を」
「ふうん……」
氷蔵はじとりと目を細めた。朱を添えた双眸は、夕方の薄闇の中でも迫力がある。
「じゃあ、次は御前が足を挫くかもね。僕が魔除けをしてやるよ。ぺっぺっ。ほらもう大丈夫。……次は肩なんか貸すなよ、子犬」
「そんな無茶な……」
はたかれた肩を押さえる霜吉。それをよそに、氷蔵は鏡台に向き直った。
「ほら、早くしな。姫様の鬘は他より重くて、首が壊れちまいそうなんだ。それに急がないと、僕の夕餉がなくなっちまう。舞台が終わった男は恐ろしいんだ。腹をグウグウ鳴らして、あるものみぃんな食っちまうんだからね」
「わ……わかってます。でも、そう仰るなら俺なんか待たず、他の人をお呼びになったらいいじゃないですか。みんな言ってるんですよ。『化粧はともかく他が凡々、霜吉の腕じゃ、氷蔵様の付き人になるのは五年早い』って……」
声の調子を落としながら、霜吉は露姫の鬘を外し、氷蔵の地毛を留めていた紐を解く。さらりと、濡れたような青黒の髪が、背中一面に広がった。氷蔵は、鏡越しに霜吉の手元を見つめる。
「真っ当な評価だね。着付けはとろいし、肩揉みはヘタクソ。御前に部屋を掃除させると、たまに物がひとつ無くなる。本来、僕みたいな人気の役者には到底付けない実力だ。哀れみの言葉も出ないよ」
「ぐっ……」
渋柿を食わされたように、苦い顔をする霜吉。氷蔵の長髪をひと束にまとめ、毛先から丁寧に櫛を通していく。
「だったら五年前、なんで俺を指名して――」
「そんなの、御前が愚図で頓馬で、お馬鹿な霜吉だからさ」
「はぁ……?」
「頭のいい連中ほど、僕を一介の人間ではなく、莫大な財をもたらす小槌のように扱う。あるいは、商売敵や政敵に自慢するための、美術品として手元に置こうとする――僕の経済的、美術的価値をわかっているからだ」
「……!」
はたと、霜吉の手が止まった。氷蔵は口端を吊り上げる。
「僕はどっちも御免だね。僕には肉と骨があり、血が流れ、体温がある。演じたら疲れるし歌ったら腹が減る……そういう、賢い大人が忘れた小さなこと。なんでもないことを、御前は覚えているだろう?」
氷蔵は後ろに倒れ、霜吉の肩に後頭部を預けた。ごくりと霜吉の喉が鳴る。かすかに赤みを差す頬に、氷蔵の白い手が艶めかしく触れた。
「だから、傍に置こうと思ったのさ。僕は案外、御前の愚図で頓馬で馬鹿なところを、愛しているんだよ、霜吉」
「えっ」
「いたッ」
氷蔵が跳ね起き、霜吉を平手打ちした。
「なんでェ!?」
霜吉の声が裏返る。あまりに目まぐるしく、何が起きたかわからなかった。
どうやら手元を狂わせた霜吉が、梳かしかけの髪を何本かブチ抜き、仕返しに叩かれたらしい……と気づいたのは三秒後のこと。
頬の紅葉を押さえながら、呆然と目を瞬かせる霜吉。鏡台に向き直った氷蔵が、瞑目して首を横に振った。
「全く、前言撤回だよ。これだから霜吉は……」
「も、申し訳ありません……?」
はたして、悪いのは本当に自分なのか。ぐるぐる思考を巡らせながら、氷蔵の髪を梳かし終えた。




