第1話『栞屋の女形』
「――帰り来たる、我が故郷。懐かしきかな町の匂い、安らぐかな川のせせらぎ。今こそ、この本田十右衛門が、参った、参ったぞぉ!」
江戸は夏の盛り。歌舞伎三座がひとつ、『栞座』の舞台に上がった男に、客は酒と煙草臭い声援を浴びせかけた。
「栞屋ーー!」
「よっ、日本一!」
客席に突き出る造りの舞台。それを囲む、畳と座布団一面の『平土間』は、老若男女で埋めつくされていた。黒の頭がぎっちり並び、上から見ると「凹」を墨で潰したようである。
その左右にある、客席が二層になった『桟敷』も、男性を中心とした上客でいっぱいになっていた。
平土間の座布団のひとつに正座した若者が、隣の酔っ払いに口を寄せた。
「師匠、あれは?」
「ありゃあ、栞屋寒九郎だ。今回の主役だな……ヒック」
公演は序盤も序盤。天井のそばにズラリとついた、障子張りの窓から日光が差し込む朝方。既に酒が回って赤ら顔の男は、とくとくと手元の猪口に酒を注いだ。
「今の歌舞伎は、西の神田屋・東の栞屋ッつってなあ……二大名門の役者たちが引っ張ってるんだが。寒九郎はその代表的な役者だよ。今の日本で、随一を争う実力派さ。まー……だいぶオッサンになっちまって、引退も囁かれてるが」
「へぇ……あの、師匠。『屋』ってなんですか?」
「あ? あー、そいつァどこの一門に所属してるかを表すもんだ。役者としてのそいつを言いてぇときに使う。栞家の人間はもちろん、栞家に弟子入りしてる山本や鈴木も、舞台上では『栞屋うんぬん』になるのさ」
男は酒を啜りつつ、イマイチ回らない舌でうんちくを垂れ続ける。その間舞台では、寒九郎演じる侠客の前に、負傷した武士が膝をついていた。
「いかに衣擦り切れど、いかに肌うす汚れど。ごまかせぬその鋭き眼! さては、尋常ならざる剣客と見受けたり! ならば頼もう、この一大事――我らの姫を、露姫を、悪しき者からお助けくだされい!」
若者は、うんちくをぶった斬ってまた尋ねる。
「師匠。歌舞伎には、女も出るのですか? 栞座の表で見た看板……まねき? には、男の名前しかありませんでしたが」
「あー、昔は女もいたんだがなぁ。不健全だなんだって、御上が禁止しちまったもんで。今は野郎が演じてるんだ。町娘も姫様も、中身はみぃんなテメェと同じ男さ。なんだ、綺麗な娘が見れると思ったか? ぶははははは!」
「そ、そういうわけでは……」
ご機嫌な男に肩を小突かれ、若者は赤面して居住まいを正す。
「けど、男だけの芝居に、あまり興味は――」
そのとき。ふいに若者は、空気が澄むのを肌に感じた。波が引いていくように、客席の騒めきが消えていく。酒を呑む者も、煙草を吸う者も、揃ってあるひとりを見つめていた。どこかから、感嘆の溜息が聞こえた。
「――あれが」
せりに乗って舞台に現れる、紅緋の衣装の姫君。悪党たちと対峙したその人が、穏やかに、しかし力強く声を紡ぎ出した。
「死にゆく河川、枯れゆく穀物。ついぞ、民にも魔の手が伸びる苦境に、世へ仇をなす不埒者よ。天は全てを御覧じる――必ずや、その身に罰が、天罰が下ろうぞ」
「――栞屋氷蔵。年は確か、十八だ。さっきの寒九郎の甥っ子さ。美と技を兼ね備え、その人気は寒九郎に次ぐ」
氷蔵――露姫は、悪党のひとりから刀を奪うと、簪の銀装飾をしゃらんと揺らし、流麗な身のこなしで悪党たちを倒していく。
「綺麗なもんだろう。すらっとした体にしなやかな仕草、巧みに操られる声音。儚え雰囲気をまといながら、時折見せる刺すような気迫……客はみんな、あの人にポカーンと口開けちまってね。それが、命を吸い取ったように見えるから、ついた異名が『魔物』さ」
悪党の親玉が現れ、窮地に立たされる露姫。そこに主役の侠客が飛びこみ、決め台詞と共に見得を切ると、わっと観客が沸き立った。
しかし若者には、男の酒臭い熱弁も、客の歓声も耳に入っていなかった。姫君の動向にかぶりつき、膝の上で拳を握っていた。それを横目に見た男は、満足げに徳利を傾ける。
「こうしてみると、野郎歌舞伎も悪くねぇだろう。だが、間違っても栞屋氷蔵にゃ魅入られるんじゃねえぞ」
「……ぁ、え?」
「昔、ここいらで酷ぇ放火事件があったんだがな。犯人の動機は、当時いた栞屋の女役と、駆け落ちするためだったんだ。惚れ込むあまり見境がなくなって、凶行に及んだんだな。以来、栞屋の常連は新参者にこう語り継ぐのさ」
男は猪口の酒を一気に呷ると、けふと酒臭い息を吐いた。
「心を寄せれば囚われる。身を滅ぼし、金も縁も尽きる。どれだけそれが美しくとも――栞屋の女役には近づくな、ってさ」




