第六話 もう、あなたの婚約者ではありません
二度目の審理の日、セレナは神殿の白い正装で王家契約院へ現れた。
茶会で見たときより顔色が硬い。私と目が合うと、彼女は深く頭を下げた。
「リディア様。直接お詫びする機会をいただけますか」
「証言の後で、お話ししましょう」
今ここで彼女を許す、許さないという場面にしたくなかった。確かめるべきなのは、ジュリアンが何を伝え、何を隠したかだ。
審理室には、私と父、ジュリアンとメルフォード侯爵家の代理人が座った。官吏が事実だけを答えるよう告げ、セレナへ質問する。
「手紙を受け取った際、ジュリアン殿からどのような説明がありましたか」
「わたくしのために書いた、と伺いました。婚約者のいらっしゃる方から受け取ってよいものか尋ねると、リディア様も承知している、親しい友人を励ますだけだと」
「茶会の後、文章がリディア嬢の私信から取られたと知りましたか」
「はい。リディア様へ謝りたいと申し上げました。ですがジュリアン様は、すぐにリディア様から気にしていないという手紙が届くから、何もしないようにと」
セレナは膝の上で両手を握った。
「わたくしは、その手紙が届かなかったことで、初めて説明が違っていたのだと気づきました」
官吏が証言を書き留める。
「ジュリアン殿。相違はありますか」
「細かな言葉は覚えていません。ただ、セレナを安心させるために説明しただけです」
「リディア嬢の承諾を得ていたのですか」
「明確には得ていない。だが、後から理解すると思っていた」
「許しの手紙を書くことは、決まっていたのですか」
「リディアなら書くはずでした。いつも私の意図を理解していた」
その答えを聞いても、もう驚かなかった。
官吏が私を見る。
「リディア嬢。補足はありますか」
「許しの手紙を書くことへ、同意した事実はありません。書くよう求められた際に婚約解消を決めました」
「待ってくれ」
ジュリアンが身を乗り出した。
「結局、文章の出所が問題なのだろう。私の書記が書いても、リディアが書いても、私が内容を認めて送れば私の言葉になる。公的な書状では、誰もがしていることだ」
「公的な書状の草案と、婚約者から受け取った恋文は同じではありません」
「そこまで区別する意味が分からない」
「ええ。あなたには、今も分からないのでしょう」
私は声を整えた。
「私は、手柄を返してほしくて婚約を終えるのではありません。私の気持ちを私物のように扱い、傷ついたと伝えた後も、その気持ちまであなたの都合に合わせて書き直させようとした。これから先も同じことが起きると分かったからです」
「ならば、今後は恋文を使わない。それで済む話だ」
「何を使わないかを決めれば、信頼が戻るのではありません」
「七年も私を支えてきた君が、急にそんなことを言うはずがない。ヴァルターに何を吹き込まれた?」
「セオドア様は、この決断に関与していません」
「では、橋の仕事で持ち上げられて気が大きくなったのか」
私はジュリアンをまっすぐ見た。
「あなたは、私が誰かに動かされたのでなければ、自分の意思を持てないと思っているのですね」
審理室が静まった。
「私が婚約を終えたい理由を、今ご自身で増やされました」
ジュリアンは何かを言おうとしたが、官吏が発言を制した。
提出された書状、双方の説明、セレナの証言、婚約契約の条項が順に確認される。やがて官吏は、王家契約院の決定を読み上げた。
婚約者以外へ誤解を招く私信を贈り、その由来と承諾の有無について虚偽の説明をしたこと。異議を受けた後も訂正せず、相手へ虚偽に沿う書状を要求したこと。これらは、婚約契約が求める信義を損なう。
私の婚約解消申し立ては認められた。
両家の婚約は、本日をもって終了する。
指輪の返還も、持参財や贈答品の精算も、記録に従って処理される。どちらの家にも、相手へ結婚を求める権利は残らない。
最後の言葉を聞いたとき、胸の奥にあった結び目が、静かにほどけた。
嬉しくて跳び上がりたいわけではない。七年間を失った悲しみもある。それでも、これ以上失わずに済む安堵は確かだった。
私は席を立ち、ジュリアンへ一礼した。
「これまで、お世話になりました」
「リディア」
「もう、あなたの婚約者ではありません」
その言葉を残し、父と審理室を出た。
◇
廊下では、証言を終えたセレナが待っていた。
「わたくしは、自分が褒められたことに浮かれて、あなたのお顔をよく見ていませんでした」
「あなたは、嘘をつかれたのです」
「それでも、気づいた後に証言するまで迷いました。聖女が騒ぎを大きくしたと言われるのが怖かったから」
「今日、事実を話してくださった。それで十分です」
セレナの目に涙がにじんだ。
「ありがとうございます」
私たちは友人になったわけではない。けれど、互いを都合のよい役へ押し込めずに話せた。それでよかった。
契約院の正面へ出ると、オルブライト家との共同配送契約を登録しに来た商人たちが、私を見つけた。
「オルブライト嬢、予約表のことで相談が」
「午後の便へ空きが出たと聞いたのですが」
父が先に馬車へ向かい、私は短く事情を聞いた。管理所へ連絡すれば解決できる内容だったので、その場で紹介状を書く。
ペンを置いたところで、背後からジュリアンの声がした。
「君は、本当に私がいなくても平気なのだな」
商人たちが気まずそうに離れる。
審理中の接触制限は終わったが、話す義務はない。それでも、私は一度だけ向き合うことにした。
「平気な日ばかりではありません。でも、生きていけます」
「私を愛していたことは、一度もなかったのか」
「愛していました」
ジュリアンの表情がわずかに緩む。
「では――」
「過去の話です」
その顔から、期待が消えた。
「君が本当に去るとは思わなかった」
「それが、あなたの間違いです」
私は一礼し、今度こそ背を向けた。
◇
玄関広間には、橋の契約書を登録しに来たセオドアがいた。
私の顔を見ても、結果を尋ねるより先に近づいてはこなかった。父から小さく頷かれると、ようやく口を開く。
「終わったのですね」
「はい」
「おめでとう、と言う場面でしょうか」
「まだ、自分でも分かりません」
「では、言いません」
彼は少し考え、選択肢を並べた。
「すぐに帰りますか。少し歩きますか。それとも、静かな場所でお茶を?」
何をすべきかではなく、何をしたいかを聞かれている。
「お茶が飲みたいです。今日は書類なしで」
「私も、それがいい」
近くの茶店で、私たちは初めて仕事以外の話をした。
私は香辛料のきいた茶が好きで、砂糖菓子は甘すぎると苦手なこと。セオドアは馬に乗るのは好きだが、早朝に起きるのは得意ではないこと。沈黙が訪れても、私は話題を探して埋めなくてよかった。
帰り際、彼が少しだけ緊張した顔で尋ねる。
「橋の連絡とは別に、あなたへ手紙を書いてもよいでしょうか」
「仕事ではない手紙を?」
「はい。返事を義務にはしません」
私は自分の心へ尋ねた。
嫌ではない。それどころか、彼がどんな言葉を自分で選ぶのか、知りたいと思った。
「お待ちしています」
そう答えたのは、誰かのためではない。
私自身が、その手紙を受け取りたかったからだ。




