第四話 婚約が終わっても、橋まで壊させません
橋の亀裂は、図面で見るより深かった。
石造りの橋脚を斜めに走る黒い筋へ、技師が細い金具を差し込む。先端の半分近くが見えなくなった。
「今すぐ落ちる状態ではありません。ですが、増水すれば亀裂へ水が入り、内側から石を押します」
橋の下では、夏の日差しを受けた川が速く流れている。両岸には通行を待つ荷馬車が列を作り、古い橋板が車輪のたびに軋んだ。
「全面封鎖せずに直せますか」
私が尋ねると、技師は橋の中央を指した。
「片側ずつ荷重を制限すれば。一車線を工事に使い、もう一方は監視員を置いて交互に通します。ただ、大型の荷馬車は荷を分ける必要があります」
「日没後は?」
「足元が見えません。工事が終わるまでは通行を止めるべきです」
「雨量が増えた場合の中止基準も決めましょう」
セオドアが上流の水位標へ目を向けた。
「あの標を水が越えたら、荷の大きさにかかわらず閉鎖する。閉鎖の知らせは両岸の宿場と市場へ、同時に出すのがよいでしょう」
「片方だけが先に知れば、知らない側の商人が橋まで来て立ち往生します。増水が予想される日は、前日から街道の分岐にも使者を置きましょう」
安全の条件まで記録し、私たちは互いの控えへ同じ文言を書いた。誰かの裁量で、危険な日に特別扱いを生まないためだ。
私は条件を書き留めた。住民の往来、行商の荷、収穫期の穀物。ひとつの橋を止める影響は、数字だけでは測れない。
「荷を分ける場所が要りますね」
「東岸には空き地がありますが、西岸は狭い」
セオドアの言葉に、私は川下へ目を向けた。オルブライト家の共同倉庫が、街道から少し外れた場所に見える。
「倉庫の裏手を仮の荷捌き場にできます。小型馬車も貸し出せるよう、王都の業者へ手配します」
「では、ヴァルター側で監視員と技師を出します。料金の徴収係は、双方から一人ずつ。記録を互いに照合できるようにしましょう」
提案に、私は頷いた。
橋の側面を見るため、仮設の足場へ降りる。濡れた板の前でセオドアが立ち止まり、手を差し出した。
「必要ですか」
当然のように腕をつかむのではなく、私に選ばせる尋ね方だった。
「お願いします」
手袋越しに触れた手は、しっかりしていた。足場へ降りるとすぐに離れ、それ以上の意味を持たせない。その節度が心地よかった。
亀裂の根元には、上流から流れてきた枝が絡んでいた。増水すれば、ここへさらに水圧がかかる。
「補強だけでなく、流木を逃がす杭も要ります」
私が言うと、セオドアは技師へ向き直った。
「設計へ追加できますか」
「費用は増えますが、再発防止には有効です」
「目先の安さで、同じ修理を繰り返す方が高くつきます」
私とセオドアの声が重なった。
顔を見合わせ、どちらからともなく笑う。川音の中で生まれた一瞬の笑いは、仕事の場に不釣り合いではなかった。
「交渉の考え方が似ているようです」
「ですから、意見が違うときは厄介かもしれませんね」
「そのときは、根拠の多い方に譲ります」
「肩書の高い方、ではなく?」
「橋は肩書では支えられませんから」
その答えを、私は記録帳の余白ではなく、心の中へ留めた。
◇
現地確認を終えた午後、王家契約院で最初の審理が開かれた。
ジュリアンは私より先に来ていた。対面の席へ座るなり、冷たい声で言う。
「橋の件でヴァルターと会っていたそうだな」
「オルブライト家の代表として、現地を確認しました」
「婚約者の不利益になる提案を、よく平然とできるものだ」
「ここは婚約契約について話す場です。橋の条件は商務会館でお話しください」
審理を担当する官吏が、双方へ発言の順序を告げた。
私は、茶会で聞いた文章と自分が保管していた恋文の写し、ジュリアンとの会話を記した覚書を提出した。彼は文章を流用した事実を否定しなかった。
「聖女を慰めただけです。求婚したわけでも、愛人にしたわけでもない」
「問題は不貞の有無だけではありません」
私は自分の番を待って答えた。
「私が婚約者へだけ伝えた気持ちを、了承なく別の女性へ渡したこと。それを傷ついたと伝えても、訂正も謝罪もせず、さらに私自身へ許しの手紙を書くよう命じたことです。私は今後、この方と信頼を保てません」
「リディアは感情的になっています。これまで、私を支えることに満足していた」
「満足していた時期があったから、これからも同じ扱いを受け入れる義務があるのでしょうか」
「君は橋の交渉まで利用して、私へ報復している」
官吏が橋の件は別問題だと制した。私は膝の上で指を組み、声を荒らげずに続ける。
「婚約を続けたくない意思と、領民のために橋を直す責任は両立します。私はどちらも、自分の判断で果たします」
その日の審理では結論が出なかった。次回までに、セレナからも事情を聞くという。私とジュリアンには、審理中の私的な接触を避けるよう申し渡された。
契約院を出ると、胸の奥へ重い疲れが沈んだ。
それでも、後悔はなかった。
◇
橋の負担回答期限が来た。
メルフォード家から届いた書状は、整った文章で参加を拒んでいた。
交易を任されていたジュリアンの判断を、メルフォード侯爵もこの時点では承認したらしい。個人の返事ではなく、家としての正式な回答だった。
――橋は三領共通の財産であり、一家に全体の半分を負わせるのは公平を欠く。
――ヴァルター家とオルブライト家が補修を必要と判断するなら、まず両家の責任で着工されたい。
以前のジュリアンの返書とは違い、礼儀正しく読みやすい。新たに経験のある書記を雇ったらしい。
だが、言葉を整えても、中身は変わらない。利用記録への反証も、自らが妥当と考える負担案もなかった。
「あちらは、私たちが結局折れると考えているのでしょう」
父の執務室で私が言うと、父は苦い顔で書状を置いた。
「橋がなければ我々も困るからな」
「ええ。ですから、橋は直します。ただし、拒んだ負担まで贈り物にはしません」
セオドアとまとめた着工案を広げる。
ヴァルター家とオルブライト家が、協力する周辺領とともに不足分を一時的に立て替える。工事中も一車線を制限つきで開け、住民の日常の往来は無料。小口の行商には低い料金、大口の商用馬車には正規料金を設ける。工事費を負担した家の荷は、拠出額に応じて減免する。
徴収記録は毎週公開し、立替分を回収し終えた時点で料金を見直す。誰かへの罰ではなく、維持費を負担した者だけが損をしない仕組みだ。
着工の三日前には、料金表と通行時間、雨天時の閉鎖基準を三領の市場へ掲示する。すでに街道上にある荷には猶予を設け、知らないまま橋へ来た商人へ突然料金を課すこともしない。反対する時間も、別の道を選ぶ時間も与えた上で始める計画だった。
父は条項を一つずつ読み、特定の家だけを狙う文言がないことを確認した。
「伯爵家として、これを承認しよう」
父が署名し、家印を押した。
夕刻、橋のたもとでヴァルター家とオルブライト家の着工許可書が取り交わされた。
セオドアが先に名を記し、ペンを私へ渡す。
以前の私は、ジュリアンが署名する書面の草案を作るだけだった。
今は違う。
私は、自分が確かめ、自分が決めた計画へ、自分の名を書く。
――リディア・オルブライト。
最後の一画を書き終えると、対岸で待っていた職人たちが資材を運び始めた。
婚約が終わるかどうかを待たなくても、私の人生は動かせる。
そして橋もまた、私たち自身の手で守れるのだ。




