第二話 婚約は一人では続けられません
翌朝、朝食を終えるより先に、ジュリアンがオルブライト伯爵邸へ乗り込んできた。
先触れもない訪問だった。応接室へ入ってきた彼は、私が昨夜送った小箱を卓上へ置いた。蓋が開き、婚約指輪が朝の光を弾く。
「悪い冗談はやめろ、リディア」
「冗談ではありません」
「では、嫉妬に任せた脅しか。私が謝れば気が済むのか?」
「何について謝るのですか」
ジュリアンは答えに詰まり、苛立ったように手袋を外した。
「君の文章を使ったことだ。無断だったのは認める。だが、婚約を壊すほどのことではない」
「私が傷ついたことではなく、あなたが今もそれを些細なことだと決めている。それが理由です」
「七年の婚約を、手紙一通で捨てるつもりか」
「一通で決めたのではありません。その一通で、七年間をどう扱われていたか分かったのです」
父は私の隣に座り、口を挟まずにいてくれた。扉のそばには家令もいる。二人きりなら、ジュリアンは私の沈黙を都合よく了承へ変えるだろう。もう、それを許すつもりはなかった。
「指輪は受け取らない。婚約解消にも同意しない」
「一人が拒めば永遠に続く婚約ではありません」
私は卓上へ、封をした書類を置いた。
「今朝、王家契約院へ審理を申し立てました。両家当主にも写しを届けています。婚約契約に従い、信義が保たれているかを確認していただきます」
「そこまでする必要がどこにある」
「必要があると、私が判断しました」
自分の決断を自分の口で言う。それだけのことが、以前の私にはひどく難しかった。
ジュリアンは父へ向き直った。
「伯爵からも言ってください。リディアは冷静ではない」
「娘は昨夜、契約書と事実を照らし合わせた上で私に説明した。少なくとも、本人に尋ねず冷静でないと決めつける者よりは、よく考えている」
父の静かな返答に、ジュリアンの頬がこわばる。
私は脇に置いていた革鞄を押し出した。中には彼から預かっていた文書が、用途別、期限別に整理してある。
「こちらもお返しします。未処理の案件には、必要な期日と先方からの要望を一覧にしました」
「待て。ヴァルター家への返事は今日が期限だ」
「存じています」
「橋が使えなくなれば、三領の商いが止まる。君だって困るだろう」
「ですから、期限を書いてあります」
「草案は?」
「ありません」
彼は、そこで初めて本当に驚いた顔をした。
「私に失敗しろと言うのか」
「ご自身の考えを、ご自身の言葉で伝えてください」
「君は私の婚約者だ。支えるのが役目だろう」
「その婚約を終わらせるための審理を申し立てたところです」
「まだ終わってはいない」
「終わっていないから、私の労力を使えるのですか?」
その問いに、ジュリアンは答えなかった。
彼が欲しいのは、婚約を続ける私ではない。必要なときに正しい返事を用意し、失敗の前に道を整える私なのだ。その事実を認めると、悲しみの中にも妙な明瞭さが生まれた。
代わりに鞄を乱暴に閉じ、立ち上がる。
「分かった。手紙くらい、私にも書ける。君が思い上がっているだけだと、すぐに分からせてやる」
「そうですか」
「後悔しても知らないぞ」
「後悔しないために、今ここでお返しするのです」
ジュリアンは指輪の小箱を残したまま、応接室を出ていった。
馬車の音が遠ざかってから、私はようやく息を吐いた。
「無理をしていないか」
父が尋ねる。
「苦しくはあります。でも、間違ってはいません」
「ならばよい。指輪は契約院へ証拠品として預けよう」
私は頷いた。手元からなくなった指輪より、左手の軽さの方が、まだ不思議だった。
◇
三日後、ヴァルター侯爵家は橋の補修協議を停止した。
ジュリアンが送った返書は、メルフォード領に求められた負担を「不当に重い」と退けながら、妥当と考える割合も根拠も示していなかった。さらに、工事中もメルフォード家の荷馬車を優先して通すよう要求していたという。
ヴァルター家から届いた通知には、こう記されていた。
――費用を負担せず便益のみを求める条件では、領民へ説明できない。新たな提案が示されるまで、協議を保留する。
橋は、メルフォード領の穀物を王都へ運ぶ最短路だ。同時に、オルブライト領の織物やヴァルター領の木材も行き交う。秋の長雨が始まる前に橋脚を補強しなければ、大型馬車を止めざるを得ない。
私は過去の通行記録を取り出した。ジュリアンの返事を代わりに書くためではない。オルブライト領の商人が何を失うのか、私たち自身の責任を確かめるためだ。立場が変われば、同じ数字にも別の意味が見えた。
「本当に、あの方へ何も助言しなかったのね」
契約院へ提出する記録を確認しながら、父が言った。
「助言しなければ交渉が止まると、私も分かっていました」
胸は痛んだ。困るのはジュリアンだけではない。荷を運ぶ商人も、収穫を売る農家もいる。
けれど、だから私が永遠に彼の影でいるしかないという結論にはならない。
「橋のことは、オルブライト家の利害として対応します。ジュリアン様の代筆者としてではなく」
その日の午後、ヴァルター侯爵家の紋章をつけた馬車が伯爵邸の前に止まった。
訪れたのは、侯爵嫡男セオドア・ヴァルターだった。濃紺の礼服に身を包み、父へ正式な訪問状を差し出す。父と家令が同席した応接室で、彼は礼を尽くして頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。リディア嬢に、どうしても確認したいことがございます」
「私に、ですか」
セオドアは鞄から、過去にメルフォード家から届いた書状を数通取り出した。橋の修繕、共同倉庫の使用、洪水時の物資輸送。いずれも私が草案を書いたものだ。
「これらの文面を作ったのは、ジュリアン殿ではありませんね」
私は返事を急がなかった。ジュリアンの名で送られた手紙について、私が勝手に作者を名乗れば、別の争いを生むかもしれない。
「なぜ、そう思われたのでしょう」
「今回の返書には、以前まで必ずあったものがありませんでした。相手の事情を認めた上で、自家の利益と両立させる道筋です。文章の巧拙ではなく、交渉の考え方そのものが違う」
彼は私を値踏みするようには見なかった。答えを奪わず、ただ待っている。
私は父を見た。父が小さく頷く。
「草案を作っていたのは、私です。ただし、最終的な署名と決定はジュリアン様のものでした」
「やはり、そうでしたか」
セオドアの声に勝ち誇った響きはなかった。
「作者を暴きたいのではありません。橋を守るため、正しい相手と話したいのです」
彼は一枚の地図を卓上に広げた。亀裂が見つかった橋脚と、三領へ延びる街道が記されている。
「オルブライト家の代表として、私と直接交渉していただけませんか」
「私が断れば?」
「別の方を探します。あなたが断る自由まで、交渉材料にはいたしません」
その答えに、胸の奥がわずかにほどけた。
七年間、私の言葉は誰かの署名の下に置かれていた。
けれど今、初めて私自身の返事が求められている。
私は地図へ目を落とし、亀裂から街道までを指でなぞった。
「条件があります」
「伺います」
「私の提案は、私の名で記録してください」
セオドアは、迷うことなく頷いた。
「もちろんです、リディア・オルブライト嬢」




