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私の恋文を聖女へ贈った婚約者へ、最後の手紙です  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第二話 婚約は一人では続けられません

翌朝、朝食を終えるより先に、ジュリアンがオルブライト伯爵邸へ乗り込んできた。


先触れもない訪問だった。応接室へ入ってきた彼は、私が昨夜送った小箱を卓上へ置いた。蓋が開き、婚約指輪が朝の光を弾く。


「悪い冗談はやめろ、リディア」


「冗談ではありません」


「では、嫉妬に任せた脅しか。私が謝れば気が済むのか?」


「何について謝るのですか」


ジュリアンは答えに詰まり、苛立ったように手袋を外した。


「君の文章を使ったことだ。無断だったのは認める。だが、婚約を壊すほどのことではない」


「私が傷ついたことではなく、あなたが今もそれを些細なことだと決めている。それが理由です」


「七年の婚約を、手紙一通で捨てるつもりか」


「一通で決めたのではありません。その一通で、七年間をどう扱われていたか分かったのです」


父は私の隣に座り、口を挟まずにいてくれた。扉のそばには家令もいる。二人きりなら、ジュリアンは私の沈黙を都合よく了承へ変えるだろう。もう、それを許すつもりはなかった。


「指輪は受け取らない。婚約解消にも同意しない」


「一人が拒めば永遠に続く婚約ではありません」


私は卓上へ、封をした書類を置いた。


「今朝、王家契約院へ審理を申し立てました。両家当主にも写しを届けています。婚約契約に従い、信義が保たれているかを確認していただきます」


「そこまでする必要がどこにある」


「必要があると、私が判断しました」


自分の決断を自分の口で言う。それだけのことが、以前の私にはひどく難しかった。


ジュリアンは父へ向き直った。


「伯爵からも言ってください。リディアは冷静ではない」


「娘は昨夜、契約書と事実を照らし合わせた上で私に説明した。少なくとも、本人に尋ねず冷静でないと決めつける者よりは、よく考えている」


父の静かな返答に、ジュリアンの頬がこわばる。


私は脇に置いていた革鞄を押し出した。中には彼から預かっていた文書が、用途別、期限別に整理してある。


「こちらもお返しします。未処理の案件には、必要な期日と先方からの要望を一覧にしました」


「待て。ヴァルター家への返事は今日が期限だ」


「存じています」


「橋が使えなくなれば、三領の商いが止まる。君だって困るだろう」


「ですから、期限を書いてあります」


「草案は?」


「ありません」


彼は、そこで初めて本当に驚いた顔をした。


「私に失敗しろと言うのか」


「ご自身の考えを、ご自身の言葉で伝えてください」


「君は私の婚約者だ。支えるのが役目だろう」


「その婚約を終わらせるための審理を申し立てたところです」


「まだ終わってはいない」


「終わっていないから、私の労力を使えるのですか?」


その問いに、ジュリアンは答えなかった。


彼が欲しいのは、婚約を続ける私ではない。必要なときに正しい返事を用意し、失敗の前に道を整える私なのだ。その事実を認めると、悲しみの中にも妙な明瞭さが生まれた。


代わりに鞄を乱暴に閉じ、立ち上がる。


「分かった。手紙くらい、私にも書ける。君が思い上がっているだけだと、すぐに分からせてやる」


「そうですか」


「後悔しても知らないぞ」


「後悔しないために、今ここでお返しするのです」


ジュリアンは指輪の小箱を残したまま、応接室を出ていった。


馬車の音が遠ざかってから、私はようやく息を吐いた。


「無理をしていないか」


父が尋ねる。


「苦しくはあります。でも、間違ってはいません」


「ならばよい。指輪は契約院へ証拠品として預けよう」


私は頷いた。手元からなくなった指輪より、左手の軽さの方が、まだ不思議だった。


    ◇


三日後、ヴァルター侯爵家は橋の補修協議を停止した。


ジュリアンが送った返書は、メルフォード領に求められた負担を「不当に重い」と退けながら、妥当と考える割合も根拠も示していなかった。さらに、工事中もメルフォード家の荷馬車を優先して通すよう要求していたという。


ヴァルター家から届いた通知には、こう記されていた。


――費用を負担せず便益のみを求める条件では、領民へ説明できない。新たな提案が示されるまで、協議を保留する。


橋は、メルフォード領の穀物を王都へ運ぶ最短路だ。同時に、オルブライト領の織物やヴァルター領の木材も行き交う。秋の長雨が始まる前に橋脚を補強しなければ、大型馬車を止めざるを得ない。


私は過去の通行記録を取り出した。ジュリアンの返事を代わりに書くためではない。オルブライト領の商人が何を失うのか、私たち自身の責任を確かめるためだ。立場が変われば、同じ数字にも別の意味が見えた。


「本当に、あの方へ何も助言しなかったのね」


契約院へ提出する記録を確認しながら、父が言った。


「助言しなければ交渉が止まると、私も分かっていました」


胸は痛んだ。困るのはジュリアンだけではない。荷を運ぶ商人も、収穫を売る農家もいる。


けれど、だから私が永遠に彼の影でいるしかないという結論にはならない。


「橋のことは、オルブライト家の利害として対応します。ジュリアン様の代筆者としてではなく」


その日の午後、ヴァルター侯爵家の紋章をつけた馬車が伯爵邸の前に止まった。


訪れたのは、侯爵嫡男セオドア・ヴァルターだった。濃紺の礼服に身を包み、父へ正式な訪問状を差し出す。父と家令が同席した応接室で、彼は礼を尽くして頭を下げた。


「突然の訪問をお許しください。リディア嬢に、どうしても確認したいことがございます」


「私に、ですか」


セオドアは鞄から、過去にメルフォード家から届いた書状を数通取り出した。橋の修繕、共同倉庫の使用、洪水時の物資輸送。いずれも私が草案を書いたものだ。


「これらの文面を作ったのは、ジュリアン殿ではありませんね」


私は返事を急がなかった。ジュリアンの名で送られた手紙について、私が勝手に作者を名乗れば、別の争いを生むかもしれない。


「なぜ、そう思われたのでしょう」


「今回の返書には、以前まで必ずあったものがありませんでした。相手の事情を認めた上で、自家の利益と両立させる道筋です。文章の巧拙ではなく、交渉の考え方そのものが違う」


彼は私を値踏みするようには見なかった。答えを奪わず、ただ待っている。


私は父を見た。父が小さく頷く。


「草案を作っていたのは、私です。ただし、最終的な署名と決定はジュリアン様のものでした」


「やはり、そうでしたか」


セオドアの声に勝ち誇った響きはなかった。


「作者を暴きたいのではありません。橋を守るため、正しい相手と話したいのです」


彼は一枚の地図を卓上に広げた。亀裂が見つかった橋脚と、三領へ延びる街道が記されている。


「オルブライト家の代表として、私と直接交渉していただけませんか」


「私が断れば?」


「別の方を探します。あなたが断る自由まで、交渉材料にはいたしません」


その答えに、胸の奥がわずかにほどけた。


七年間、私の言葉は誰かの署名の下に置かれていた。


けれど今、初めて私自身の返事が求められている。


私は地図へ目を落とし、亀裂から街道までを指でなぞった。


「条件があります」


「伺います」


「私の提案は、私の名で記録してください」


セオドアは、迷うことなく頷いた。


「もちろんです、リディア・オルブライト嬢」

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