第一話 その言葉を書いたのは私です
「あなたが黙っている時間を、私は寂しいとは思いません。そこに私の帰る場所があると、知っているからです」
王宮の薔薇園に、聖女セレナの澄んだ声が響いた。
初夏の茶会に招かれた令嬢たちは、うっとりとため息をつく。私はティーカップを持ったまま、指一本動かせなかった。
その一文を書いたのは、私だった。
三年前、北の砦へ派遣された婚約者ジュリアンへ送った恋文。口数が少なく、人前では滅多に笑わない彼が、周囲から冷たい男だと誤解されていた頃のことだ。
一晩かけて書き直し、淡い青色の封蝋に実家の鈴蘭の印を押した。書き間違えるはずがない。一字一句、私の恋文と同じだった。
「まあ、なんてお優しいお言葉でしょう」
「メルフォード侯爵令息には、このような一面もおありなのですね」
貴婦人たちが微笑む。
「ええ。わたくしも驚きました」
セレナは頬を染め、胸元に一通の手紙を抱いた。白い封筒には、ジュリアンが公的な書状に使う黒い封蝋と鷹の印章がある。
「神殿での務めが重なり、少し弱気になっていたのです。そうしたらジュリアン様が、わたくしのためにこのお手紙を」
彼女の視線が、少し離れた場所に立つジュリアンへ向く。私の婚約者は満足そうに頷いた。
集まった人々の視線が、一斉に私へ集まる。ジュリアンと私が婚約して七年になることは、誰もが知っている。
「リディア様も、素敵だと思われませんか?」
セレナには悪意がなかった。ジュリアンから、私も承知していると聞かされているような無邪気さだった。
「……ええ。とても、よく知っている言葉ですわ」
「まあ。ジュリアン様は、以前にも同じことを?」
「似たようなものだ」
私が答えるより早く、ジュリアンが会話へ入ってきた。私の椅子の背へ手を置き、いつもの無表情な顔で言う。
「気に入った表現は、何度でも使う性分なんだ」
違う。
あの言葉を彼からもらったことなど、一度もない。受け取ったのは彼だ。私から。
「セレナ様。少しだけ、ジュリアン様をお借りしてもよろしいでしょうか」
声が震えなかったことだけは、自分を褒めてもよいと思う。
私たちは薔薇園を離れ、人気のない東屋へ入った。二十四歳にもなって、嫉妬で取り乱す令嬢だと思われたくはない。けれど胸の奥では、何かが冷たく砕け続けていた。
「先ほどの文章は、私が三年前に送った手紙のものでした」
「ああ。そのことか」
ジュリアンは悪びれもしなかった。
「昔の手紙を整理していて見つけた。セレナを励ますのにちょうどよいと思って、少し整えて使った」
「私があなたに宛てた恋文を、別の女性へ贈ったのですか」
「その言い方はよせ。まるで私が不貞を働いたようではないか」
「違うとおっしゃるのですか?」
「セレナは聖女だ。王国のために働く彼女を慰めることに、何の問題がある」
「慰める言葉なら、あなたご自身で考えるべきです」
ジュリアンが眉を寄せる。面倒なことを言われたときの顔だ。
婚約したばかりの頃、彼は南部の伯爵へ用件だけを記した手紙を送り、相手を怒らせた。謝罪状を書いたのは私だった。
それからも見舞い状、招待状、領地間の折衝状まで、彼は私へ草案を持ってきた。
『君は言葉を選ぶのがうまい』
そう言われるのが嬉しかった。彼に頼られているのだと思っていた。私の文章を彼が清書し、二人で一つの役目を果たしているつもりだった。
けれど、公的な文書と恋文は違う。
「あの手紙を受け取ったとき、あなたは何とおっしゃったか覚えていらっしゃいますか」
「三年も前のことだ。覚えているわけがないだろう」
私は覚えている。
ひどく短い返事だった。それでも『何度も読み返した』と書かれていた。その一言を宝物のように思い、私は彼を支えてきた。
「私の気持ちを、何度も読み返してくださったのではなかったのですか」
「だから使えると思ったのだ。よい文章は、しまっておくより役立てた方がいい」
「役立てる……?」
「あの言葉を贈ったことでセレナは笑った。誰も損をしていない」
私が損なわれている。
そう言いかけて、やめた。口にしなければ分からない人へ、今さら何を説明すればよいのだろう。
ジュリアンは私の沈黙を了承と受け取ったらしい。
「それより、今夜中にヴァルター侯爵家へ返事を書いてくれ。橋の補修費について、細かな条件が届いている」
「私が、ですか」
「今までどおりだ。草案を作れば私が清書する」
胸の内側で、何かが音もなく切れた。
私の恋文を別の女性へ贈った、その口で。まだ私に、彼の言葉を書けという。
「それから、セレナにも一通頼む」
「なぜでしょう」
「君が気を悪くしたのではないかと心配していた。気にしていない、あの言葉が慰めになって嬉しい、とでも書けばいい。君なら角の立たない表現ができるだろう」
私自身の恋文を盗まれたことを、私自身の言葉で許せというのか。
「分かりました」
私が答えると、ジュリアンの眉間から皺が消えた。
「そうか。助かる」
「ええ。最後の手紙を書きます」
「最後?」
「今夜、お届けいたしますわ」
聞き返す彼を残し、私は東屋を出た。ジュリアンは追ってこなかった。
明日も私が彼の隣にいると、疑ってさえいないのだ。
◇
伯爵邸へ戻ると、私は自室の机へ向かった。
泣いてはいなかった。けれど便箋を取り出した指先は震えていた。
衝動のまま姿を消すつもりはなかった。七年前に交わした婚約契約を戸棚から出し、信義を損なう行為があった場合の条項を読み直す。婚約者以外への求愛と受け取られる書状、その後の説明、訂正を拒む態度。今日起きたことを、感情ではなく事実として紙へ書き出した。
父にもすべて話した。オルブライト伯爵は長く黙ったあと、「おまえが戻りたいと言うなら支える。終わらせたいと言うなら、それも支える」とだけ答えた。決めるのは私だ。その言葉が、震えていた背筋を支えてくれた。
机の脇には、ジュリアンから預かった書類が積まれている。ヴァルター侯爵家への返書、夜会を欠席した公爵夫人への詫び状、収穫祭の招待客一覧。
私はそれらを一つにまとめ、紐で結んだ。一番上に白紙の便箋を載せる。
これからは、自分の言葉で書けばよい。
私の言葉は、もう彼のものではない。
新しい便箋を取り、ペン先をインクへ浸す。
――ジュリアン・メルフォード侯爵嫡男殿。
――本日、貴殿が聖女セレナ様へ贈った書状が、私から貴殿へ宛てた私信を流用したものと確認いたしました。
――婚約者以外の女性へ求愛と受け取られる書状を贈り、その行為を改める意思もない以上、両家の婚約契約に定められた信義は失われたものと判断いたします。
――よって、ここに婚約解消を申し入れます。
書き終え、私は左手から婚約指輪を抜いた。七年間、外したことのなかった指輪を小箱へ入れ、手紙の上に置く。
そして初めて、彼の家名を添えずに署名した。
――リディア・オルブライト。
呼び鈴を鳴らす。
「こちらをメルフォード侯爵邸へ。今夜中にお願いします」
侍女は驚いた顔をしたが、小箱と手紙を両手で受け取った。
これが、ジュリアンのために書く最後の手紙だ。
明日から彼は、自分の言葉で生きる。
私もまた、自分の名で生きていく。




