66. 夢の中に芽吹いていた萌芽
66. Seedling in the snow
春の雪は、かえって解けゆく森の景色を台無しにする。
毛皮にちらちらとぶつかる心地よさはあれど、それは深まっていく冬を予感させるのではないから、力を失っていく老いた獣を見るような虚しさばかりが募るのだ。
こうして目を瞑って、冬の訪れの倒錯に身を委ねるしかない。
それでも、今日の空は春には似つかわしくないぐらいに冷たくて、俺は狂いそうな日和に脳を蕩けさせずに済んでいる。
「……。」
しかし、それだけだ。
それ以上の進捗は、何も生み出せていない。
ヴェリフェラートが、とても遠い中つ国のように感じられる。
少し平原を駆ければ見えてくるあの貴壁も、熱の籠った悪夢が見せる蜃気楼なのではないか。そう思えてくるほどだ。
そう、あれは悪夢だった。
…それらしく形容しておきながら、本当にそうだろうか。
あのような悪夢に、俺は今まで苛まれたことがあっただろうか?きつく目を瞑り、そう自問する。
俺が洞穴の片隅で、一匹で震え怯えていたのは、もっと耐え難い別離だったはずだ。もっと日常に根ざした、狼に対して向けられた怯えと軽蔑の眼差しだったはずだ。
けれども、俺の無意識は、彼処に囚われたままだ。
少しでも気を許したなら、気がつけば俺はあの玉座の傍から眺めた景色を、引き込まれるように、じっと覗いている。
あれは、俺だ。全身をグレイプニルによって縛り上げられ、アースガルドで今も涎を垂らし続けている、哀れな怪物と同じ。そんな世迷言を言うつもりはない。
そんな重ね合わせに耽るほど、俺は病的に陶酔などしていない。
確かにあれも、一人の神様が、あらゆる者の恨みを買い、全てを奪い尽くされた末路である。
しかし違うのは、あの塊はもう、どうしようも無い、ということだ。
決して、自力であの拘束から抜け出すことは出来ない。
そしてお前を救おうなどという愚かな考えを芽生えさせるその達者な口も、今は断続的に流し込まれる膠と、喉奥まで届く猿轡によって、最早、穴とさえ言い難い。
俺は違う。
俺の意思は確かに此処で、他者との関わりを生み続けているから。
初めは、不本意ではあった。上っ面だけの契約と主従関係によって、駒を動かす神様として君臨できているつもりだった。
しかし、これがお前と俺とを明確に切り分けるものだと言うのなら、甘んじて受け入れてやろう。
そして必ず自力で、あの忌まわしき戒めを喰い千切り、帰還してみせる。
“Fenrirさーん!”
“いつまで寝てるんですかー?”
わかっている。実際のところ、束の間の急速に甘んじ、気持ちの整理をつけていることは。Sirikiの無事がわかって、急務が一つ減り、ほっとしているのもある。
あいつ、一人で何やら奮闘している様子だったが、流石に運が良い。まさか、良いご身分まで偽れる才に恵まれていたとは。
俺が明るみに出るとしたら、今だ。
此処で完全に、この国における主導権を握ってから、神々を迎え撃ちたい。
“Fen…rir…さんっ!”
陰部を嗅ごうとする鼻先の気配を感じ、俺はさっと飛び上がる。
“グルルゥ…!”
そろそろ、重い腰をあげるのだ。
それはそれとして、目の前から対峙すべき悩みが消え去ることは無いのだから。
俺が飽食を果たす、その時まで。
“起きている…!お前の声も、聞こえているぞ!”
“じゃあなんで、無視するんです?私のこと。”
鼻先を猛烈に突かれ、なんとか顔を背けながら歩く。
そうして見上げた淀んだ空模様に覗かせる淡い太陽の光に眩暈がして、きつく目を瞑る。
“かまってちゃん、嫌いですか?”
何だ、それは。わかっていて、やっているのか。
“子供達には、あんなにパパ頑張ってくれてるのに?”
仕方ないだろう。何故だか甚だ理解に苦しむが、お前よりも俺に懐いてしまった。
もう群れの世話好きどもに引き渡し、狼の処世術を教えることを半分任せているのに。きっと少しでも退屈したなら、すぐにより良い遊び相手を求め、すぐに群がってくる。
狩るのなら、弱いものから。彼らは優秀な狼だ。自分の方から、皆が寛ぐなだらかな平原へ赴かなければ、咎められずに済むほど、耳も鈍くは無い。
“まあ、起きているのなら良いんです。子供達、呼んできても良いですよね?”
“勝手にしろ…”
頭が痛い。
本来俺が入り浸らなくてはならない世界と、本来仮初の安息所であるべき世界の温度差がありすぎる。
此処は暖かすぎて、彼処は狼が微睡むのに相応しく冷たいはずなのに。
“アゥゥゥー…アオォォォォーーーー…!!”
突然、耳のすぐそばで始まる遠吠えに、びくりと身体を震わせる。
“おっ、お前…”
急に始めるのは、頼むからやめてくれないか。
まだ昼間だろうが。薄暮には程遠いと言うのに。
…それに、お前は自分から遠吠えを始めるような奴じゃなかったはずだ。
“どうしたんだ。最近、変だぞお前…”
“ウォォォォオーーーー…”
Vojaだ。まあ、返事ぐらいは、するよな。
クソが、すぐこちらに寄越すだと。
“ワオオォォォォーーー”
“アウゥォッ…オッ…ォォゥー…”
“ピィィーヒュィィ…”
…仔狼らも、真似事をするようになったか。
まだ、荒削りだが、同じ頃の俺に比べれば、抜群に聞き応えがあるな。
今度きっちり、呼気に音を乗せる基礎を叩き込んでやる必要が…
って、違う違う。
“ふぅ…”
彼女は、満足したように鼻先を舐め、俺に向かって悪戯っぽく微笑みかける。
“良いですよーだ。私、拗ねてあっち行っちゃいますから。”
“は…?あいつら洞穴に呼んでおいて、お前だけどっか行く気か?”
“はい、そうですけど?”
そうですけど?
“だって、私より、仔狼たちの方が、相手していて楽しいんでしょ?”
“ど、何処までも卑屈になれる才能ばかりは、俺に引けを取らないんだな…”
透かした返しをしてやって、何になる。内心では窮地を脱する為の臭い台詞を思いつこうとして、回転が悪い頭に焦りばかりが募っているのに。
“ええ。そうやって、気を惹くことしか、私、知らないですから。”
なるほど、自分は悪魔の類であると自覚があるのだ。
って、そうじゃない。そうじゃなくて。
“じゃ、私。Vojaのところに行ってきますね。”
“なん、だと…”
名指しされただけで、自分でも笑ってしまいたくなるほど、情けなくて、悔しそうな声。
それだけは、やめてくれと、戯けて懇願したほうが、まだ良かったと言うものだ。
そしてそれが彼女の尾を魅惑的に振らせたのは、言うまでも無い。
“あ…”
しかし、そんな踊らされるがままのやり取りに巡らせていた思考は、一瞬にして吹き飛んだのだ。
振り上げられた尾先に頬を叩かれたかのような、衝撃だった。
“ほ、本当にお前がいなくては無理なのだ!”
“はいはい。そうですね。気が向いたら戻りますから。どうぞ子供達と幸せなひと時を。”
ふわりと蒔かれたその匂いに、鼻がむず痒い。
やっぱり、そうだ。
群れの方も、群れの方だ。彼らにも非がある。
やたらめったら、彼女の遠吠えにわらわらと反応しやがって。
そういう時期だと、何となく目を背けていた予感はあったが。
気のせいでは済まされなくなってしまった。
いらぬ妄想が脳裏に焼きつく。
他の雄の牙の下で、喉を振るわせる彼女の姿が。
“ま、待ってくれ…!”
顕になった、ピンク色の、柔らかな毛並み。間違いない。
出血、している。
“Lu…ka…”
春の陽気に当てられたのでは無い。
彼女は、発情しているのだ。




