60. 逆刺の瀉血器 2
60. Barbed Bloodletter 2
抜け出しておいて、こんなことを言うのは申し訳ないが、幽閉されるのなら、あの栄華を極めた王城で良かった。
こんな牢獄で、一生日の光を浴びずに這いずり回るなんて、ぞっとする。
聞こえるのは、ずる、ずると何かを引きずる音。
干からびた素足で、石畳を擦り足で進むような。
それよりも大きいのは、恐怖で、歯がガチガチと鳴り響く音だけだ。
灯りは、何の手がかりにもならなかった。進路がそこにあるというだけ。壁で鼻先を潰さずに済むというだけ。
あっという間に方向感覚を失う前に、せめて。
目的地は、目と鼻の先なんだ。
屋敷の直下まで辿り着ければ、後はそこから地上に出る方法を探すだけ。そんなに難しい話では無い筈。
問題は、此処が何処か、階段を降りる前に見上げた屋敷の方角こそ見誤ることは無くても、どれだけ進めば、その近くまで来たことになるのか。見当もつかないことなのだけれど。
記憶が、混濁している。されるがままに、身を奴隷に窶すことを強要された。
でも僕は…此処に居た筈なのだ。
もし違うというなら、ヴァイキングが侵攻を進めずとも、この商業管区には、自分より下の人間を飼う趣向が常態化していることになる。そうでは無いことを願いたい。
何処かで、屋敷のSebaが過ごす自室と繋がっている筈なんだ。そう信じるしか無かった。
この地下世界全体が、Sebaの領地である。それは、益々、Fenrir様が彼の身分に入れ込む要素でもある気がした。自分でも、少し不思議だった。何故、Fenrir様が、これを喜ぶと思うのだろう?
僕が持っている手札の方が、彼にとって魅力的だという感じが、少しもしないのだ。
Fenrir様の目的とは、何だったか。それを考えれば、貴方の信者として、僻境の貴族でありながら、国王との繋がりさえ持てる僕を選んでくれる筈だと信じていたのに。
もし、Fenrir様の本当の目的が、もっと先にあるのだとしたら。この地下牢に潜むことを好むのでは無いだろうか?
神としての威光をこの世界に知らしめるのでは無く、その、同業者を同じ世界から、抹消する為。
ある種、復讐する為、だったら?
僕がやるべきことは、寧ろ真逆の方向に突き進むことになる。
それを確かめる為にも、僕はあの狼に会わなくちゃならない。
幸いなことに、この世界は、地上の夜と同じぐらいに、寝静まっている。
人の気配も、同じくらいにある、のだけれども。
右手の指腹を、壁から決して離さぬよう、そろりそろりと、進んでいく。
そうでもしないと、次の一歩が曲がり角か、奈落の底かも読み取れない。
それこそ、いつこの牢獄の住人に出会しても、おかしくないのだ。
なるべく、直進。気持ち、2回ほど左折したいが…
ある瞬間、壁の感覚が消えた。十字路に来たのだ。
そう考え、そっと壁の縁から向こうを覗き込む。
どうせ、蝋燭の灯りが二つ、向かい合って浮かんでいるように見えるだけだろうが…
「……?」
鼻先が、先ほどは無かった何かにぶつかる。
細い、鉄柱。
そうか、此処は…牢屋だ。
中に、鎖に繋がれた人影は見当たらない。広さも定かでは無いが、独房が、延々とこうして並んでいるのだろうか。
此処は、壁の灯りの間隔が極端に少ない。
ただ、確信に近いものがあった。
どう考えてもおかしい。屋敷の直下に、穢らわしい罪人を温めておく理由は、どう考えても見当たらない。
その時、僕が進み続けていた廊下の最奥から、声がしたのだ。
暗闇に残響して、どの牢屋から溢れ出たのか、見当もつかない。
「アーデリン、大丈夫?独りで、恐くなかった?」
微塵の恐怖の色も感じさせない、穏やかな口調。彼が、どれだけ長い時間をかけてこの世界に親しんできたのか、想像に難く無い。
偶然にも、それとも神様の思し召しだろうか。僕らは果たして、交差した。
Sebaだ。
反響して惑わされているのでなければ、僕の方向感覚は、そこまで狂っていなかったらしい。
「…は、はい、ご領主、様…」
「いいよ、そんな風に畏まらなくて。いつも通り、Sebaで良い。」
そして彼は、地下牢を一人だけの狂気の世界とするつもりが少しも無いのだ。共感を求め、打ち明けるだけの器量をも有している。
そう、もう一人、同席している。
確かに、聞こえた。
何故、彼女が…?
考えられる理由が一つだけあるとすれば、彼女が審問される側として、此処にいるということだ。
今や、ヴァイキングに与した人間が、彼の領地でのうのうと暮らしていられるはずが無い。
彼らにも事情があって、一見冒涜的なあの教会で教えを広めることを選んでいたのだとしても、市民どころか、国政に影響を及ぼす宗教は、真っ先にその槍玉に挙げられる。
「今夜は、君が、自らの使命をお果たしになるところを見たいです。シスター。」
「ええ、必ず…」
殺される、どころでは済まない。
庭園で見かけたあの首吊り死体が、ヴァイキングの見せた野蛮さだった。
Smahlt国王の治世において、そういった公開処刑や、罪人の晒首なんて、見たことがない。
でもそれは、善政を信じて疑わない市民の幻想であったのかも知れない。少なくとも、この男、Sebaのそれは、ヴァイキングが捕虜に与える最期を、容易く上回る確信があった。
どうする…?
真っ暗闇の最奥の牢屋の一角で、一糸纏わぬ裸体を晒した彼女が吊るされている、そんな情景が想像される。
それを、鉄格子の向こうから綺麗な言葉で着飾って愛でるような偏狂の持ち主が彼だ。
とんでもない瞬間に居合わせてしまった。
助ける?そんな選択肢は残念ながら浮かばない。
僕が今、姿を彼の前に表したなら、彼女と一緒に仲良く、Sebaの所有物と化す。
此処までやって来て、それだけは嫌だった。
そうだ。僕の目的は、Sebaじゃない。
Fenrir様に、僕の存在だけでも、気づいてもらわなくてはならないんだ。
彼女の悲鳴は、一向に聞こえてくる様子が無い。
猿轡を、噛まされている?何やら、苦しそうな唸り声は、辛うじて僕の耳にも届いているが。
「うお゛お゛っ…お゛お゛っ…ぶぅぅっ…ふぅぅ…!」
とても、若い女性が漏らす声とは思えない。吐きたくても、吐けない。そんな状態を延々と再現させられている、そんな妄想を、誰の視線も咎めない暗闇が掻き立てる。
『ふっ…ふひゅうぅ…?』
『お゛ろろろろろーーーーー……!』
真っ暗闇の中で、延々と、知っている人間の命が弄ばれ踠く様を耳にねじ込まれ、気が狂いそうだった。
「あ、あ……」
これ以上、一歩も前に進めない。
かと言って、すごすご戻って、何になる。
無限に両脇を見守られているような一本道を、進むことも、戻ることも出来ずにいる。
直に、姿を眩まさなくてはならない瞬間が訪れるだろう。
その時に、両脇に逃げ込める空室がある保証は何処にも無い。
時折、響いてくるのは、Sebaが披露する異端審問への解説と、
「四つ足の動物が、頑張って二足歩行で立ちあがろうとするのに似ていませんか?ほら、腹と、股間の短い毛をだらしなく晒している…!」
この…人間に向けられた、感嘆。
これが?
いや…待て。
Sebaは、誰に話しかけているんだ?
はじめ、それがアーデリンなのだと思った。
それは、初めに僕が予感した、彼の秘密を打ち明ける相手のうちの一人に過ぎず、経緯はどうであれ彼女は彼に気に入られてしまっただけのことだからだ。
しかし、どうやら、様子がおかしい。
「神様…ああ…私は間違っていなかった…!」
「是非、私にこの務めを全うさせて下さい!どうか私に、そのために必要な地位をお与え下さいませんか、Fenrir様!」
…!
「俺の名をこいつの前で軽々しく口にするな!」
…?
「っ…申し訳ございません。軽率な言動を、お赦し下さい…」
今、確かに、口にした。あのお方の名を。
いらっしゃるんだ。すぐそこに!
思わず一歩踏み出してしまいそうになる衝動を必死に抑え、口元を袖で覆って暗闇を睨む。
今の状況を整理しよう。
臨席しているのは、Sebaとアーデリン、そして、Fenrir様だ。
アーデリンが、異端審問の受難に遭わされているのを、Sebaによる、ある種の貢物として、Fenrir様に臨席して頂いている。
これは、Fenrir様が、望んだことだろうか?
裏切り者である彼女が、極限まで苦しむのを見物する、そんな猟期的な一面を、あの狼は持ち合わせているだろうか。
いや、Fenrir様は、次なる脅威を、同業者の存在を聞き出そうとしているだけだ。実利を求めるのが、僕がそう思いたいだけなのかも知れないけれど。
『怖がらないで!私は、貴方を傷つけたり致しません。』
今のは、アーデリン…?
断片的に続く会話の中でも、しっかり異質に響く、他言語の言葉。
そして、その吠えるような抑揚には、皮肉にも聞き覚えがあった。
ヴァイキングが、ああやって喋っていた。
でも、何故、彼女が?
それは、貴女がヴァイキングと深く繋がっていると、自白しているようなもの。
『あ゛―っ…!あ゛ぁ―っ…!』
『あ゛あ゛ぁぁぁっー…!』
『だじっ、だぎげでっ!』
『も゛お゛い゛やだあ゛あ゛―――っっ!!』
『も゛ぉ゛っっ、もぅだえられあ゛いぃぃっ!!』
っ…?
まずい。びくりと体が震え、腰元の布袋が音を立てた。
他にも、誰かいる。しかもこっちは、もっと切羽詰まった、苦しそうな喚き声。
そうか。他にも、ヴァイキングがいるんだ。
二人で一緒に、同じ牢屋で、拷問を受けている。
もう一人、捕えられているのは…?
実際に拷問を受けているのは、そいつの方か?
『怖がらないで!私は、貴方を傷つけたり致しません。』
それから暫く、二人の会話のようなものが続いていた。
全く聞き取れないにも関わらず、それが自白と、尋問のやり取りであることはなんとなくわかった。
『う゛う゛ぅぅっー…!ぐふふふぅっぅ…うぶぶぶぅぅ…』
喚くような自白と、鎖が軋み、捕虜が痛みに呻く声だけが響く。
これを、他の囚人は、日夜を問わず聞かされているのだ
ギイィィ…
牢屋が、開かれる音が、怪物の唸り声を思わせる。
終わった、のか…?
コッ、コツ、コツ…
足音が再び響き出した。
一瞬、此方にやってくると身構えたが、幸いにも、それは遠ざかる方向へ消えていく。
咄嗟に腰元に手を伸ばしたが、よく考えれば、僕は保身用に、何の武器も携えていないことに気がついた。
あの包丁があれば、強く出られたかと言われたら、決してそんなことは無いが、お忍びで城下へ繰り出すには余りにも不用心だ。
それらの残響も薄れ、また、はじめに聞いた、何かを床に擦るような音だけが、何処からとも無く。
「……。」
直ぐそこだ。
此処で突っ立っていても、始まらないんだ。
一か八か、拷問が行われた部屋を覗いてみるしか無い。
自分の足音だけは立てないよう、そして壁から手を離さぬよう、進むしか無い。
両脇の鉄格子の奥の化け物が、急に動き出したりしないよう祈りながら。
蛇が這うような歩みだったが。
まばらな間隔の蝋燭が続いていたが、次第に光量が増して来た。
「ここだ…」
酷い獣臭が立ち込めている。これは…何の臭いだ?
不用心にも、左側の牢屋が、開いている。
覗けば、誰かが、拷問椅子だろうか、部屋の中央に鎮座するそれに座らされている。
アーデリンだ。
無事でいてくれ。逃すことぐらいなら、今の僕にだって…
ドッ
「っ…?」
足元の何かに躓いて、僕は玉座の肘掛けに慌てて手を着く。
生き物のような柔らかさだったが、今はその正体を確認している余裕はない。
彼女は、僕が剣闘士として飼われていた時と同じような首輪を嵌められ、目隠しをされていた。近寄る何者かの気配こそ鋭敏に感じ取っていただろうが、その衝撃で、びくりと身体を震わせる。
「きゃっ…?」
「アーデリンさん…僕です!その…Sirikiです。」
声を押し殺し、しかし出来るだけ声音を損なわないような大きさで、耳元に囁く。
「…!?」
一瞬、彼女の中で声の主を探り当てる時間があったのがわかった。
「貴方は…先日、教会にお越しくださった…」
「そうです。僕です。大丈夫ですか、怪我は…?」
胸元から腹部にかけて、礼服が黒ずんでいる。
「酷い、すぐにでも止血しないと…」
「私は大丈夫です。Sirikiさん。」
「何を言っているんです、直ぐに此処から逃げましょう!」
「ご心配なさらないで。ご領主は、私を地上に帰して下さいます。今夜のところは…」
「貴方の方こそ、どうして…此処に捕えられていたのですね?直ぐにお逃げになって?」
「ち、違うんです、僕は…」
互いに混乱して、話が全く噛み合わない。しかし…
コツ、コツ、コツ…
心臓が止まりそうになった。
席を外したうちの誰かが、戻って来たのだ。足音は一人だけ、それぐらいは、狼でない僕にもわかる。
そして、素材の良い靴底が響かせる気品のあるリズムは、もう殆ど疑いようが無い。
「玉座の後ろに隠れて下さい。貴方が此処にいたことは、誰にも話しません。」
「で、でも…」
『Loki a invocat deja un alt zeu în această lume.』
「え…?」
彼女は、聞いたことの無い異国語で、何か警告の言葉を口走った。
「さあ、早く…!」
聞き取れたのは、一単語だけ。
僕はそれ以上何も出来ずに、玉座の裏手へ転がり込んだ。
「遅くなってごめんね、アーデリン!良い子にして、待っていた?」
「は、はい…ご領主様。」
「だから、そんなに畏まらなくて良いって。もう君の務めは終わったんだよ?」
「教会まで、送っていってあげるよ。疲れたでしょう、ミサの前に、少しお休みになった方が良い。」
「あ、ありがとうございます…」
「さあ、立って。足元に気をつけるんだよ。地上に戻ったら、外してあげるからね。」
「困ったね、意外と人懐こいんだな。…彼女の人柄を感じ取っているに違いないね。」
「さ、行こう。夜がもう直ぐ明ける。」
ジャラリ、という鎖の音と共に、二人の足音は遠ざかっていった。
…。
緩く、ゆっくりと息を吐き、がっくりと両腕を垂れる。
助かった…みたいだ。
彼女も。僕も。
玉座の裏板にもたれ掛かったまま、随分と長い時間立ち上がれずにいた。
腰が抜けてしまったのだ。
此処で見つかっていたら、そのまま今度こそSebaの所有物として、永久に鉄格子の中だ。
そして、それよりも恐ろしいのは、この牢屋で行われていたであろう、拷問の存在だ。
…あれだ。あれに、惹かれたんだ。あの狼は。
その直感を、拭えない。
直ぐにでもFenrir様の後を追って、反対側に伸びる通路を突き進まなくてはならないのに。
僕の四肢は鎖に繋がれたようにずっしりと重たく、この牢屋に囚われてしまったようだった。
すぐそこに、誰かの蠢く気配がする。
僕が咎められずに済んだのは、きっとこれのお陰だ。
外套の裏で掻いた汗が、身体を急激に冷やしていく。
コツ、コツ、コツ、コツ…
再び、此方へ向かってくる足音。
どうする…?
もう、来た道を戻るだけの猶予は無い。
命の危機に尻を叩かれ、嗾けるように身を起こすことさえ、怠惰な僕はぎりぎりまでしなかった。
「……。」
足音が、牢屋の前で、止まった。
開け放しの扉を閉めに?
だが、そいつはそれ以上の音を立てない。
長い時間を待って、恐る恐る、玉座の裏から牢屋の外を覗く。
体の特徴は、毛皮を首元にあしらったマントに覆われ、窺い知ることはできない。
しかし彼は、反対側の牢屋を眺めているように見えた。
それが、僕にとって、そのままやり過ごせるかも、などという希望的観測を与えてくれることは無い。
「あっ…」
その風貌を一目見て、僕は思わず声を漏らしてしまったのだ。
頭だ。頭が、人のそれでは無い。
あれは、あの立てられた両耳は…
狼…?
蘇った光景は、僕を襲撃したエマ達が去った後、姿を現した、謎の暗殺部隊。
確か彼らも、身体の一部に、獣的な装備を…
「……?」
此方に気づいた彼は、ゆっくりと振り返る。
終わった。
僕がとった行動は、玉座にそのまま腰掛けることだった。
それも、勿体ぶった所作で。
どさっ
「……。」
この暗闇で、マルボロ家の貴族が実際に纏う衣装で着飾り、玉座で悠々と寛いでいさえすれば、住民は僕のことを、Sebaと勘違いしてくれる。
その賭けに、僕は勝った。
実際、彼のものと思われる声を、僕は一度も耳にしなかった。彼は与えられた無言の役割を貫いている。
所詮は拷問吏だ、玉座の主を見上げるなど、許されることでは無いのだろう。正気のない剥製の奥から覗かせる瞳で、此方をじっと見つめていたが、やがて反対側の牢屋に手をかけ、鍵を開いた。
ザラ、ザラザラ…
それと同時に、視界の端から、何かを引きずる音が、段々と大きくなってくる。
この牢獄に降り立った時から、なんとなく聞こえていた。
何かを、ずっと、運ぶ音。それが今、僕の前に差し出されると言うのだ。
次なる、獲物として。
この世界でも、マルボロ家の領主を演じる。そうすることで齎される代償とは、何だろう。
彼がまだ、先ほどまでのショーに満足せず、アンコールをご所望である。
そう受け取られてしまうことらしい。




