60. 逆刺の瀉血器
60. Barbed Bloodletter
車輪が石畳の窪みに嵌って客室を揺らす度、心臓が冷水を浴びせられたように痛む。
輓馬が歩調を緩める頃には、幾らか冷静さを取り戻し、Fenrir様への申し開きをする覚悟も決まっていると思っていた。
けれども、幾ら考えてみたって、此処から挽回の余地など、残されていないように思うのだ。
ガガガッ…ガラララッ…
速度が到頭緩み、はっと顔を上げる。
膝をぎゅっうと握り、腰を浮かせて身構えるも、此処から逃げ出したい衝動のやり場など何処にもない。
「……。」
目の前にある馭者席を覗ける小窓は無い。
左手の扉に垂らされた窓の覆いを捲ろうか、将又、いっそのこと自ら扉を開けてしまおうか。随分と待った。
分かっている、こういうのは、出迎えに開いて貰うものだと。
しかし待て、フットマンは、何と言って、僕を外へ逃してくれたのだった。
確か、銀貨を渡し、僕を何者かの遣いの身分に偽らせて…
であれば、僕は、自分からこの馬車を降り、雑用を済ませなくてはならない。
そう思い、マントの中で揉み続けていた右手を取っ手に差し出した時だった。
ガガッ、ギィィィ…
…!?
閂止めを引き摺り、金属が大きく軋む音、扉一枚の向こうで、門扉が開かれている。
これはおかしい。どうして城の裏門から抜け出しておいて、正門から迎え入れられるようなことがある。
特別な身分として扱われなければ、こんなことは起こり得ない。
ガチャ…
その焦りを肯定するように、目の前の扉が開かれる。
真っ暗闇だった室内に比べれば、幾らか明るい夜の帷が優しい光を投げかけた。
僕が自ら馬車を降りようとせず、馭者に不審に思われてしまったのでなければ助かった。
階段へ慎重に足を降ろし、僕を出迎えた人物を確認しようと目を凝らす。
本当に、フード付きの外套があればと悔いたが、この暗闇では、人相などさして分かるまい。
「……?」
おかしい、こんな夜更けに、ランタンの一つも携えずに、主人を待つことがあるだろうか?
ということは、やはり、扉を開いたのは、馭者だったのか。
右手の視界の隅に蠢く気配で、外套で輪郭を失った影が、御者席に乗り込んだのが分かる。
けたたましい蹄の音と共に、門の前から遠ざかって行く…かに思えたが、彼は馬に向けて鞭を振るうことはしなかった。
ああ、分かった。これは、フットマンが手配してくれた、帰りの道でもあるんだ。
用が済んだら、またこれに乗り込めば良い。そうしたら、また王城で彼が僕を出迎え、何事もなかったかのように寝室へ帰してくれる。
だとすれば、帰路の時間を加味しても、残された時間は明け方までの数刻。早くしないと。
僕は今、空に輪郭を滲ませた、広大な屋敷の前にいる。
見覚えは無かった。けれども、潮の匂いはする。港町だ。先ほどまで贅を尽くさせて貰えていた王城と比べれば、規模こそ小さく見えるが、それでもこの港街に構えるのは、相当の富が無ければ実現できることではない。
であれば、通りの様子から、凡その検討をつけることが出来るだろうか。
僕は、門外の街並みを覗こうと、馭者に訝しまれぬよう、馬車の反対側に回り込もうと振り返る。
「あ…」
だが、そうするまでもなく、僕は今いる場所を正確に把握することができたのだ。
Fenrir様の計略に則り、Sebaの替え玉として、彼自身の所有物、剣闘士へと仕立て上げられた時だ。
彼に首輪を引かれ、闘技場へ連行される最中に見上げた景色が蘇る。
光の刺さない地下室、立ち上がることさえ出来ない高さの檻の中で、僕は人間の言葉を紡ぐ狼との邂逅よりもこの瞬間を信じられずにいたのだ。同じ人間に、同じ国民に、文字通り観賞用の駒として、市場を晒し回される日がやってくるなんて。
ずっと被せられていた布袋を外され、最初に見せられた景色は、狂ったように血走った、薄暗い夕焼けだった。今はもっと周囲の景色に、その確証がない。
だが、どこだかよくわからない庭園を歩かされ、闘技場へ向かう方角の最初に、確かにあの教会はあったのだ。
「スターヴ…教会…」
それだけで、少し安心してしまえる。いざとなったら、あそこで親切にしてくれた修道女をあたるというのは、悪くない考えである気がした。
確か…そうだ、アーデリンさん、だったっけ。
僕が、僕として、神に救いを求めても、きっと彼女は拒絶しない。
たった数時間を王城で過ごしただけで、そんな無償の愛が魅力的に思えたのだ。
いや、と危うく踏み出しかけた一歩を、注意深く観察する。
僕は、彼女に、何をした?
せっかく、軌道に乗りかけていた、この教会の権威を失墜させたんじゃないのか?
これは、ヴァイキングに古くから伝わる建築様式に倣った教会だと話してくれた。どれだけうわべの形を変えようと、この国が、誰によって支配されようと、私たちの主が、導く教えだけは守って見せる、と。
均衡は、崩れつつある。
本来あるべき栄枯盛衰の流れに竿を刺し、一匹の大神が、ヴェリフェラートの権力を嵩に、その名を広めようとしている。
その中で、ヴァイキングは、徹底気的に排除されるだろう。もし、僕がまだ彼の駒であったとしたら、間違いなく、彼女はその巻き添えを喰らう。
……。
いや、落ち着け。何故、彼女に、その発端の火種が僕だと分かることがあるんだ。
Sebaに成り変わって、神の名を知らしめたという事実だって、知りようがない。
僕は、教会に助けを求めた、市井の民に過ぎないじゃないか。
今日あった出来事が嘘みたいに、他人の皮を被る自信を失っていた。
飲食で持て成す店主としてよくあるのが、初来店の相手とは、頗る会話が弾むのに、それ以降は、常連になるまで、それはもうぎこちない返しや相槌しかできなくなってしまう。
過去の会話のちょっとした失態ばかり記憶に残り、それらが足枷になって、勝手に怯えてしまうのだ。
前回と同じ自分を演じられなかったことへの罪悪感で、どれだけ自分を責めたことか。
今感じている億劫な気持ちは、きっとそれに似ている。
きっと次にエマに顔を合わせる時にも、同じ嫌悪感を覚えるのだろう。
とにかく、そうだ、少なくとも今の僕が向かうべきは、そこじゃない。
この、屋敷なのだ。
「……。」
フットマンが連れて来たのだ。此処がマルボロ家の屋敷、Sebaの住まう邸宅であることは、もう疑いようがない。
しかし、だからと言って、僕は正門から、あの玄関まで、堂々と歩いていって良いことになるかと言うと、そんな筈はない。
この屋敷に住まう者たちは、領主のことを、当然よく知っているだろう。
今、僕がどれだけ威張った態度で玄関を叩いたとしても、相手からすれば、立派な衣装を纏っているので、良くても見知らぬ貴族が夜更けに転がり込んできた、ぐらいにしかならないだろう。
でも、僕はなんと無く理由も無しに、今、Fenrir様が此処にいらっしゃるような気がした。
普段は、人里から離れた、あの狼の巣がある群れの中で暮らしているのかも知れないけれど、あの方がもしヴェリフェラートに赴くのなら、用があるのは僕以外に、彼しかいない。
…そう、Sebaと共に、この屋敷にいる。
それが、僕の直感というより、一番あって欲しくないことだった。
でも…
玄関に灯された二つの灯りだけが、巨大な怪物の瞳のように此方を睨んでいて、竦んでしまったかのよう。たった一人、馭者の視線など気にする余裕も無く、広大な庭園に堂々と敷かれた、うねる一本道を辿ることさえ、躊躇われている。
春風が嵐のように吹き荒れて、僕のマントを内側から煽る。
思わずよろけた。足首への違和感を、こうした瞬間の度に思い出さなくてはならない。
両脇の塀を内側から遮るように並べられた立木も、枝葉にいっぱいの風を受けて、ゆっさゆっさと靡いている。
そのせいで、誰もいない筈なのに、ざわざわと、騒がしい。
しかし、耳を澄ませると、微かに聞こえるのだ。
ギイィー…
ギシッ、ギィィィィッー…
何かが、軋み、しなる音が。
最初は、自らに実らせた葉先の重さに耐えかねた若木かと思った。
しかし、それは風に弄ばれているというより、どちらかと言うと、規則的に触れているような。
そう、何かが吊り下げられて、振り子のように。
外壁の向こうからも、きっと見える高さだ。
「……!?」
この期に及んで、霊的な存在を信じないのは、寧ろあの神様の存在が余りにもはっきりとし過ぎていたからだと思う。
僕はそいつらが、意思を持って揺らいでいるのでは無いと、瞬時に結論づけてしまえた。
「あ、ああ…」
死体だ。見えるだけでも、4つ、ぶら下げられている。
暗がりでは、それらがどれだけ腐敗が進んでいようがいまいが、人相が付くことは無かった。
だが、腕が、妙に短いように見えることを除けば、その身体は人間と認識できる形は保っていた。そして、僕が身分不相応に身に纏っているのと似たような衣装で、彼らが、貴族、この屋敷の者達であることは、明白だったのだ。
Sebaだけが、全てを剥奪され、奴隷として売り渡されたとFenrir様が仰っていたのにも符合する。
じゃあ、やっぱり、此処も教会と同じく、奴らの占領下に置かれてしまっていた、ということか…
Fenrir様という存在を都合の良い解釈のために使うのは良くないことだったが、ヴァイキングからの奪還には成功しているだろうと信じたい。
騎士も、ヴァイキングの守衛さえも全く見当たらないのが、奇妙で仕方がないのだが…
「……。」
目を凝らすと、もう一つだけ、蠢く人影があった。
首吊り死体で飾られた樹木の、その足元。
日陰で人ひとりが寝転べるほどの大きさの、ベンチがあった。
そこで、腰掛けている人影が、確かに見える。
今度こそ、頭上で揺れる誰かのうちの一人の霊魂が、宿主をぼんやり見上げているのだと思った。
けれど、それにしては、彼は−と言っても、男であるのかも確証がないが、何故か…
「……。」
僕は、意を決して、その人影に歩み寄っていく。
何のことはない、屋敷の玄関を叩くよりも、余程楽な選択だったのだ。
…!
やっぱり、見間違いじゃない。
この性別も定かではない老人は、幽霊の類ではない。
何故なら、彼らが、体の一部を、こうして枷に繋がれている必要は無いからだ。
ジャラッ…
足先に触れた鎖は巨木の根に絡まるように伸び、頑丈そうな鉄輪が嵌められていた。
その鎖の伸びる範囲で徘徊することを許されている、見せ物の動物のよう。
この人は…何者、なんだ?
もしや実際、その通りなのでは無いか?
庭で飼われた隠者。これも、上流のする悪趣味な暇潰しの一つだとでも言うのだろうか。
もしかしたら、王城にも、似たようなものがあるのかもと思うと、吐き気が込み上げてくる。
ただ、散見される証拠から得られる推測として精一杯のものがあるとすれば、庭師、だろうか?
生業から推察するのは、僕ら商売人にとって良くあることだ。
ベンチの空席に置かれた鉄鋏、立て掛けられた梯子。
背後に積まれた大量の布袋は、庭土が入っていると考えれば、幾らか説明が付く。
…とすれば、男性か。
まさか、こいつが、頭上の死体を飾ったんじゃ、無いだろうな?
彼は、掠れ声さえ出さない。けれども、じっと此方を潤んだ瞳で見つめていた。
僕が近づいたので、顔を上げたとかでは無い。
馬車から降り立った初めから、ずっと、視線を此方に据えていたのだ。
「こんなところで、何をしていらっしゃるのですか…?」
「……。」
反応はない。ぼんやりと顎を垂らし、失礼だったが、惚けている、ようにしか見えないが。
…駄目だ。観賞用の物体に話しかけても、仕方がない。
どうにかして屋敷の中に、怪しまれず入り込む方法は無いものか。
せめて、Fenrir様が此処にいた痕跡だけでも、掴んで帰りたいのに…
「っ…!?」
彼は、やはり幽霊かも知れない。こんなに近くにいたのに、立ち上がった気配にさえ気がつけなかった。
そう戦いた僕に対し、かといって何かの意思表示をするでも無く、足元の鎖をザラ、ザラと引き摺り、ベンチの裏手へと回っていく。
な、何だ…?意図が読み取れない、静かな狂気が、こんなにも恐ろしい。
鎖が、びんと張った所で、屈んだ彼が拾い上げたのは…シャベル?
ザッ、ザクッ、ザシュ…
老体に鞭打ち、一心不乱に、掘り進めている。
駄目だ、放って置こう。いや、寧ろ離れた方が良い。この人…もう完全に頭が。
ガンッ
…?
直後、土を掘る音に、硬い金属音が混じる。
どさり、とシャベルを投げ出し、再び鎖を擦る音。
ザラザラザラ…
暗がりの中では、その足元の境界の変化を認めることはできなかった。
しかし、そこだけ、確かにある。
他よりも吸い込まれるように暗い、深淵の穴が、見える。
そして漏れ出す乾いた鉄臭。
「地下…?」
最初の段差さえ、見通せない。
気づけば老人は、再びベンチに腰掛け、今度は、何だろう。多分揺らされている葉のうちの一つを眺めているに違いない。
「そうか、僕は、此処から…」
けれども、此処だ。
目の前に開かれた、地獄のような狼の口に、飛び込むしかない。




