60. 逆刺の瀉血器 3
60. Barbed Bloodletter 3
思わず、ぼやけた琥珀の裏から凝視してしまった。
しかし坊ちゃんが、王城へお戻りになりたがらないこと自体は、さして驚くべきことでは無かった。
地上に、あのアーデリンという修道女を送り届け、そのままお戻りになられたようだ。
大層機嫌が宜しいことが、剥製の瞳を通して窺える。
玉座の顔を直視すること自体、無礼でありながらも、俺は剥製の内側で微笑んでしまう。
余程、あの狼に出会えたことが、嬉しかったんだろうな。
あの夜の坊ちゃんも、同じような表情を湛えていたに違いない。
良いことだと思う。
心を開ける相手ができた、そう考えていらっしゃるに違いない。
俺は、命の恩人という意味で、神様なんて言ったが、坊ちゃん自身は、あんたのこと、友達とさえ思っているんじゃないかな。
とは言え、“おかわり” を所望されるのは、想定外だ。
困ったな。さっき再拘束したばかりの罪人は、だいぶ衰弱してしまっている。もう一度は、流石に耐えられないだろう。
となると、手元にあって、すぐに使えそうなのは…
使用人が寄越して来た、あのヴァイキングの徒党ども、ということになる。
領主様を殺し、地上の屋敷をずっと占領してきた奴らだ、特段扱いに関して困ることは無い。
というか、多分坊ちゃんは、実際にあれらが報復される様を見たいと仰せなのだろう。
勿論、喜んで。と、言いたいところだが。
本音を言うと、出来れば、少なくとも一週間は全身を拘束して、抵抗力を削いでおきたい。
俺は騎士でも、傭兵でも無い。恰幅ばかり良くても、戦うことに関しては素人、ただの人間でしかない。対して彼らは膂力に優れた戦闘民族だと聞く。万が一、発狂して、暴れて、脱走でもされたなら、どのように申し開きして良いかわからない。
要は、非国民は、専門外なのだ。
そして、これから相手しなきゃならないヴァイキングの貴重なデータが、やっと取れたばかりなんだ。たった今、口を割った、見た目には華奢なこの罪人よりも軽い手順を施したいとは思わない。
ひとまず全員皮袋に詰め込み、各々を遠く離れた独房へ運んでいる最中だった。
このタイミングで彼らを袋から出し、拷問に適した拘束を再び施せるか?
いつ覚醒するかもわからないのに。
幸いうまく行ったとしても、拷問の途中であっても、その危険は常に付きまとうことを考えれば、主人がいるこの場で試行錯誤は考えられないことでもある。
余り、熟慮している暇も無い。準備に手間取らずに済み、安全に力を奪えるような選択肢は、すぐには浮かばなかった。
彼らが経るべき脱人間の過程として、なるべく逸脱しないような…
ご満足して頂くのに、手段はさして重要じゃ無い。要は手際の良さと、器量次第なのだから。
そうだ…あれが、きっと良いだろう。
狼のマスクの内側で、自分の粗い息が、フシュウ、フシュウと音を立てて巡る。
今も隣で、この剥製の主が、俺の顔を舐めようとしている、いつもそう思うことにしている。
そうさ、お前はいつだって、俺の愛する自慢の家族だよ。
ザリ、ザリ、ジャリ…
ちょうど、運搬も済んだところのようだ。
俺は、あの口を聞く狼の為に身につけていたマントの中から右手を掲げると、囚人運びをさせていた同僚に合図する。別に、ずっと纏っている必要は無いんだが、上裸にエプロンってのは、日の刺さない地下牢ではきついものなんだ。
追い剥ぎは趣味じゃあ無いんだが、気に入ったよ、これ。
別に他意は無い、この世界の王様になろうなんて気は、更々無い。
俺の主人は、目の前の玉座に座っている。
“ご苦労様。”
俺は仲間の狼の口元を手で優しく掴むと、自分の鼻先と付き合わせる。
挨拶のような意味合いも、無くはなかったが、こうすると、互いの口先の円筒の中で、囁き声での会話が叶う。
“予定が変わった、こっちの檻に移送する。”
“申し訳ないんだが、もう一つ、運んできて欲しいものがある。”
“これが入りそうな、吊刑籠を。”
“兄弟にも、頼んで…あと二人、手を貸してくれ。”
彼女は何も言わずに頷くと、俺に罪人を引っ張るのに使っていた鎖を手渡し、再びもといた暗闇へと帰って行った。
しかしやはり、重たいな。先の罪人とは、大違いだ。
体格もそうだけれど、体重も、俺より二周りくらいありそうだ。
それは即ち、既存の拘束具…鉄枷の類が太い首回りを捉えきれないことを意味する。
測ってみないことには分からないが、今持ち合わせている、最大のものでも駄目だろう。すぐに鋳造の手配をさせないと。
だからそういう意味で、この革袋にぴったりと詰め込んで、一切の身動きが取れないように締め上げるのは、男女体格問わず有用であるのだ。
こうなると初めから予見できていれば、幾らでもヴァイキングの捕虜を収容できるんだが、今まで一度もこの世界に送り込まれた前例が無かったことからも、彼らの屈強さが窺える。
彼らの膂力が計り知れない。無理な姿勢で縄で縛っても、引きちぎるだろうか。鉄格子さえ、ひん曲げてしまうかも。
いずれにせよ、四肢を保たせたまま鎖に繋ぐことは、諦めた方が良い。
その上で、坊ちゃんを愉しませつつ、現状の拘束で受け入れが可能であると確信できるだけの衰弱を強いる方法を勘案しなくちゃならない。
きっと、恐怖で従わせようにも、俺の腕っぷしなんかでは、びびってくれないだろうな。
殴って、脅しても恐怖を覚えないのであれば、仲間を脅かすというのは効果的だ。
彼らは、この罪人に対して、忠誠心のようなものは、あるだろうか。
ヴァイキングの中のリーダー格であったとは聞いている。自白の内容も、そんなものだった。
そんなものは無い、と考えて動こう。
仮に奉公の概念があったとしても、彼らが互いの存在をその目で認め合うようなことは、今後一生無い。
まあ良い。…そんな時のために、これがある。
暴れる癖を矯正する器具だ。大人しくしていれば、何も起きない。
見た目は派手だ、きっと外側からでも、
俺は再度鉄格子の扉を潜ると、中央で蹲っている黒皮の袋を蹴って角の方へ転がす。
確か、トールとか何とか、そんな風に聞こえたが、そいつだったものは、腹に入れた蹴りにも、何の反応も示さない。
あれだけぎゃあぎゃあ騒いでいた癖に、全身の感覚を遮断されてしまえば、途端にこうして鈍い。
或いは、単に意識を失ってしまっているだけか。
いずれにせよ、しばらく部屋を借りても、猿轡の下からくぐもった文句は聞こえてこなさそうだ。
あの時も、この部屋の囚人は、向かいの部屋で行われた惨劇を目の当たりにしながらも、叫び声一つ上げなかった。
そう、俺が初めて、坊ちゃんを初めて目にしたのは、この部屋だったよなあ。
今、彼が座っている独房の罪人を吐かせようという時に、目を疑ったものだ。
こんなに小さい子供が、何故この牢獄に?一体何をしたんだ?って。
まさか、こんな子供からも、俺は人間であることを奪い、この剥製を被せなくちゃならないのか、と。
でも良かった。そんな悲劇は、起こらずに済んだのだ。
坊ちゃんは、今も昔も、少しも変わるところがない。
地上でのお姿を目にすることが出来て、今日は本当に良かった。
そんな感謝の気持ちを、此処でしか還元出来ないのがもどかしいけれど。拾ってくれた御恩を、俺は生涯忘れることはない。
貴方が罪を犯し、俺に本来の役目を果たさせるなんてことが、今後もありませんように。




