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第9話 評価は三件でした

第9話 評価は三件でした


 ゲームの配信日、千景は朝から何度もパソコンの時計を見ていた。五月の風が台所の網戸を鳴らし、窓辺では赤いパンジーに代わって植えた白いペチュニアが揺れている。千景は水色のブラウスへ着替えたが、外出する予定はなく、昼食も前夜の残りの冷や飯へ梅干しをのせただけだった。


 正午になると、ゲームの配信が始まった。最初の画面には、シナリオ、作画、音楽、進行管理に関わった者の名前が、同じ大きさで表示された。千景は自分の名前を見つけたあと、その上下に並ぶ澪と佐倉律と大庭の名前も、一つずつ声に出して読んだ。


「三枝千景。水瀬澪。佐倉律。大庭香苗。ちゃんと同じ大きさね」


 郁子の名前は宣伝へ使われなかった。ゲームの最後には、未完成原稿を作品へ使用せず、遺族と包括受遺者が共同で整理していることだけが記載された。久世が提案した「七十二歳の奇跡」という言葉も、生活保護という情報も、どこにもなかった。


 千景は自分でゲームを進める代わりに、読み上げ機能を使って場面を確認した。冒険者ギルドの食堂で、老女マルタが主人公へスープを出す。欠けた青いカップ、乾かない男物のシャツ、冷蔵箱に残った半分の大根も、削られずに画面へ入っていた。


「冷める前にお食べ。帰るところがあるなら、お腹を空かせて帰っちゃいけないよ」


 声優の穏やかな声が流れると、千景は机の端へ置いた麦茶を飲んだ。画面のマルタは千景が考えたより背が低く、前掛けには小麦粉の白い跡がついている。千景は、その汚れを描いた人の名前が大庭だったことを思い出した。


 配信から三日後、千景の担当場面についた感想は三件だった。一件目は「スープがおいしそう」、二件目は「話が長い」、三件目は、途中まで読んだらしい顔文字だけだった。会社全体の投稿欄には戦闘や美しい登場人物への感想が並び、マルタの名前はほかに見つからなかった。


「三件もあれば十分です」


 オンライン会議で澪はそう言った。千景は灰色のカーディガンの袖口を指で丸め、画面の隅へ目を向けた。七年間で千七百作を書いても消えた朝と同じように、数字が小さいと、自分の中身まで小さく表示されたように見えた。


「二件目は、長いと書いてあります」


「最後まで読んだから、長いと分かったんです」


「顔文字は感想に数えていいのかしら」


「運営が消していないなら、一件です」


「澪さんは、数え方がやさしいのね」


「数字は増やしていません。三件は三件です」


 その日の夕食は、商店街で買った鯖だった。千景は感想欄を見ながら焼いたため、皮の片側だけが黒く焦げ、換気扇を回しても煙の匂いが部屋に残った。味噌汁には薄い膜が張り、箸でつつくと豆腐が一つ、底へ沈んだ。


「また、誰にも読まれなかったのね」


 口に出すと、壁の時計だけが返事の代わりに鳴った。千景は焦げた皮を箸で剥がし、白い身だけを少しずつ食べた。食後に感想欄をもう一度開いたが、数字は三のままだった。


 翌朝、パソコンを起動すると、会社から何通も通知が届いていた。夜明け前、一人の配信者がマルタの場面を動画で紹介していた。長年母親を介護し、三か月前に見送ったばかりだというその人は、画面の前で冷めたコーヒーを飲みながら話していた。


「母がいなくなってからも、味噌汁を二人分作ってしまいます。この老女が大根を一本買うところで、ゲームを止めました」


 その配信を見た人たちが、少しずつ感想を寄せ始めた。夫を亡くしたあとも靴を二足並べている人、文字を読むのに時間がかかるため音声でゲームを進めた人、父親と仲直りできないまま葬儀を終えた人もいた。千景は読み上げソフトで、一件ずつ名前と文章を聞いた。


「青いカップを捨てなくてもいいと思えました」


「文字の表示速度を変えられたので、最後まで読めました」


「謝れなかった相手を、簡単に許したことにする話ではなくてよかったです」


 感想は百件にも千件にもならなかった。午前中に五件、午後に八件増え、翌日にはまた一件届いた。千景は数を何度も更新する代わりに、読み上げられた文章を音声で保存し、発信者の名前をノートへ書いた。


「三件だったことも、消さずに書いておこう」


 千景が電話で言うと、澪は少し黙った。澪は郁子の家で、『窓の向こうの娘』の七つの結末を読み返していた。机には冷めた紅茶と、郁子が買い置きしていた最後の醤油煎餅が一枚残っていた。


「三件から増えたからですか」


「三件のときに読んでくれた人もいたからよ。顔文字の人もね」


「顔文字は、まだ数えるんですね」


「最初のお客様ですもの」


「祖母なら、数字が少ないうちは黙っていろと言いそうです」


「郁子さんは、売れる話を書く人でしたからね」


 澪は未完成原稿の最後の一枚を閉じた。祖母の代わりに結末を書けば、きれいな物語として発表できるかもしれない。しかし郁子が選べなかった答えを、孫だからという理由で決めてよいとは思えなかった。


「私、祖母の原稿へ結末をつけません」


「それでいいと思います」


「でも、箱へ戻して終わりにもしません。母との関係、七つの結末、完成させられなかったことを私の言葉で解説して保存します」


「郁子さんを許すためですか」


「違います。仕事を選んだ人だったことも、娘へ謝れなかったことも、そのまま残します」


「では、あなたが知っている郁子さんも書いてください。羊羹や煎餅だけではない人を」


 澪は赤い鉛筆で、原稿を囲む封筒へ『未完成のまま保存』と書いた。その下へ、「作者の孫、水瀬澪による解説を添付」と加えた。字を書き終えると、赤い鉛筆の芯が折れ、机の上へ小さな粉が落ちた。


 夕方、千景は新しく届いた感想を聞きながら、残った鯖をほぐして茶漬けにした。焦げた皮も細かくすると、昨日ほど苦くはなかった。窓の外では白いペチュニアが雨に打たれ、花びらを閉じながらも、鉢の中にとどまっていた。


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