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第10話 受け継ぐものを自分で選ぶ

第10話 受け継ぐものを自分で選ぶ


 郁子の家を引き渡す朝、庭には六月の紫陽花が咲いていた。千景は薄紫色のブラウスに黒いズボンをはき、澪は母親から譲られたという生成り色の帽子をかぶっている。空になった居間には畳の日焼けした跡が残り、柱から外した時計の音だけが、千景の耳の奥でまだ鳴っているようだった。


「本当に、何もなくなると広いですね」


「三十箱も置いてあったものね」


「祖母は、この部屋を自分で狭くしていたんです」


「人が長く暮らせば、物も言えなかったことも増えるのでしょうね」


 家は買い手が決まり、売却代金から事業上の借入金と未払いの税金、修繕費、売却に必要な費用が支払われた。弁護士の安西が作った精算表には、入った金と出た金が一円単位で並んでいる。残った財産は、遺言に従い、代襲相続人の澪と包括受遺者の千景へ二分の一ずつ分けられた。


「最初に聞いた金額より、ずいぶん減りましたね」


「借金も相続の中へ入っていましたから」


「でも、分からないまま署名していたら、原稿まで三十万円で手放すところでした」


「次は、私がいなくても持ち帰ってください」


「はい。怒る人ほど署名を急がせると、ノートにも書きました」


 二人は最後に台所を確認した。冷蔵庫に残っていた半分の大根はとっくに味噌汁へ使い、茶渋のついたコップも洗って箱へ入れた。流しの下から賞味期限の切れた乾麺が一袋出てきたが、澪は持ち帰らず、千景も郁子の形見だとは言わなかった。


 段ボール箱三十個分の原稿は、すべてを読み終えるまで半年近くかかった。個人の住所や電話番号、他人の未発表作品が書かれた部分を分け、契約書と著作権関係の資料には番号をつけた。完成作品と制作資料は、受け入れの決まった文学資料館へ寄託することになった。


「寄託なら、手放して終わりではないのですね」


「所有者との取り決めに基づいて、資料館が保管し、研究や展示へ使います。公開できない資料には制限をつけられます」


「郁子さんが聞いたら、勝手に人へ見せるなと言いそうだわ」


「見せるために書いていた人でしょう」


「没原稿は隠したがるものよ」


「では、祖母にも我慢してもらいます」


 澪は『窓の向こうの娘』だけを、資料館へ送る箱から抜いた。茶色い表紙には郁子が七つの結末を書き直した跡があり、紙の間には赤い木瓜の花が乾いて残っている。澪はその一冊を、母親の写真と一緒に自宅で保管すると決めた。


「私は、祖母の代わりにはなれません。でも、母の代わりに相続した物を、どう扱うかは決められます」


「結末は書かないのね」


「書きません。祖母が謝れなかったことも、母が読めなかったことも、私が作り直してはいけないと思います」


「それでも残すの?」


「はい。正しくできなかった人が、正しくできなかったまま書いた原稿ですから」


 千景は資料館へ送る箱の蓋を閉じた。郁子の才能まで譲られたように考えれば、自分はいつまでも足りない人間になる。しかし実際に渡されたのは、湿気を吸った紙、借金、契約、整理する手間と、残すか捨てるかを決める責任だった。


「私も郁子さんにはなれない。包括遺贈されたのは、才能ではなく、片づけなければならない物と責任だったのね」


「それを知るために、半年もかかりました」


「乾麺は捨てるのに、三日も迷いましたしね」


「食べようとするからです。賞味期限が二年前でしたよ」


「ゆでれば分からないかと思って」


「分かります」


 著作権から得られる収入については、二人で新しい契約を作った。一部を原稿の保存費へ回し、残りの一部は、年齢や障害を理由に創作を諦めかけた人のための音声入力講座へ使う。大きな文字の資料、短く分けた仕様書、読み上げ用のデータも用意することにした。


 最初の講座には、六十九歳の男性と、手が動かしにくい四十代の女性、高校を途中で辞めた青年が参加した。千景が音声入力へ向かって「今日は雨です」と話すと、画面には「今日は飴です」と表示された。教室の隅には黄色い向日葵が飾られ、休憩用のテーブルには小袋の煎餅が積まれていた。


「機械も間違えるんですね」


「よく間違えます。私も間違えます。だから、声に出して確認します」


「間違えたら、書く資格がないと思っていました」


「間違えない人だけが書けるなら、本屋さんは空っぽになりますよ」


 千景は自分の取り分から、保存用の記録媒体を三つ買った。七年間で書いた千七百作品は戻らないが、これから書く物はパソコンの中だけに置かず、二つの記録媒体と外部の保存場所へ残す。箱へ日付を書いていると、澪が赤いパンジーの鉢を抱えて訪ねてきた。


「また値下げ品です。花屋の隅で傾いていました」


「放っておけなかったのね」


「千景さんの癖が移りました」


「水をやりすぎてはいけませんよ」


「それは、枯らした人が言うことですか」


 半年後、千景の三か月の試用契約は、正式なシナリオライター契約へ切り替わった。次回作の主人公を決める会議で、律は千景が提出した企画書を全員へ配った。そこには、亡くなった作家の未完成原稿を受け継いだ七十二歳の女性が、自分の物語を書き始めるまでの話が記されていた。


「ご本人が主人公ですか」


「私とは違います。主人公は、焼き魚を焦がしませんから」


「そこを変える必要がありますか」


「物語の中でくらい、上手に焼かせてください」


「でも、生活の跡は残すのでしょう」


「もちろん。冷めた味噌汁は出します」


 会議室に笑い声が広がり、千景は企画書の角をそろえた。誰かの代わりになる話でも、亡くなった人の続きを勝手に完成させる話でもない。受け取った物を一つずつ確かめ、自分で残す物を選ぶ人の話だった。


 その夜、千景は六畳の和室で白い画面を開いた。夕食の鯵は両面ともほどよく焼け、味噌汁には大根の葉が浮いている。窓辺の赤いパンジーへ水をやってから、千景は音声入力の印を押した。


「財産を受け継ぐ人と、物語を受け継ぐ人は、同じとは限りません。けれど、受け取った後に何を残すかは、自分で選べます」


 文字が画面へ表示された。今回は一か所も間違っていなかったが、千景は最初から声に出して確認した。読み終えると新しい題名をつけ、三つの場所へ保存してから、澪へ原稿を送った。


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