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エピローグ 三省堂書店池袋本店、最後の一冊

エピローグ 三省堂書店池袋本店、最後の一冊


 十二月三十一日の池袋は、買い物袋を提げた人で混み合っていた。千景はえんじ色のダウンコートを着込み、澪の腕につかまらないよう、自分の歩幅で駅の階段を下りた。地下通路には焼き栗と化粧品の匂いが流れ、花屋の店先では赤いシクラメンが銀色の紙に包まれていた。


「本当に、今日で閉まるのね」


「書籍館は十月に閉鎖されました。今日は別館の売り場だけです」


「昔は池袋へ来れば、本屋はいくらでもあると思っていたわ」


「帰りに別の書店へ寄りますか」


「今日は、ここへ来たのよ。ほかの店で代わりにはなりません」


 三省堂書店池袋本店の入口には、十二月三十一日をもって閉店するという案内が掲げられていた。店内では棚の空いたところが目立ち、文庫本の間には取り外しを待つ仕切り板が残っている。それでも客は本を一冊ずつ抜き、表紙を見て、元の場所へ戻したり買い物かごへ入れたりしていた。


「閉店する日に、本を戻す人もいるのね」


「全部買える人はいませんから」


「読まれなかった本は、どうなるのかしら」


「ほかの店へ移す物もあれば、出版社へ返す物もあるでしょう」


「消えるとは限らないのね」


「店が閉まることと、本がなくなることは同じではありません」


 澪がそう言うと、千景は児童書の棚へ手を伸ばした。背表紙の文字が細く、題名はよく読めなかったが、表紙にはスープの湯気を見つめる老女が描かれている。千景は本を開かず、紙とインクの匂いを確かめてから棚へ戻した。


 二人が探していたのは、ゲームの公式シナリオ集だった。画面の中だけにあったマルタの話が本になり、巻末には制作スタッフ全員の名前が同じ大きさで印刷されている。出版社から見本は届いていたが、千景は自分の金で一冊買いたいと言い、閉店の日まで待っていた。


「ありました。残り一冊です」


 澪が下の棚から本を抜いた。帯には派手な宣伝文句も、千景の年齢も、郁子の遺産の話も書かれていない。『冒険者ギルド食堂のマルタ』という章の下に、シナリオ担当として三枝千景の名前があった。


「本当に私の字が載っているのね」


「名前です。本文を書いたのは千景さんですが、印刷した字まで自分の物にしないでください」


「そこは少しくらい喜ばせてくれてもいいでしょう」


「レジで泣いても、値引きはされませんよ」


「泣きません。定価で買います」


 レジには長い列ができていた。前に並ぶ男性は鉄道の本を三冊抱え、後ろの少女は分厚い図鑑を両腕で支えている。千景は財布から千円札を数え、途中で一枚多く出したため、澪に黙って戻された。


「お待たせしました」


 店員は本へ紙のカバーをかけ、閉店の日付が入った栞を一枚添えた。千景がこの店で何年働いたのか尋ねると、店員は少し考えてから七年だと答えた。七という数字を聞き、千景は自分が千七百作品を書いた時間を思い出した。


「最後の日まで、お仕事なのですね」


「はい。閉店後の片づけもあります」


「本は重いでしょう」


「一冊なら軽いんですけどね」


「物語も同じね。千七百も抱えると重いけれど、一冊なら持って帰れます」


 店員は意味を尋ねず、本を両手で渡してくれた。千景も両手で受け取り、鞄へ入れず胸の前で抱えた。澪は何も言わず、会計を終えるまで隣で待っていた。


 店を出たあと、二人は地下の喫茶店へ入った。千景は小倉トーストを頼み、澪は甘くないミルクティーを選んだ。皿の端には薄切りのたくあんが二枚ついており、パンに合うのかという話だけで、二人はしばらく言い合った。


「郁子さんなら、今日のことをどう書くでしょうね」


「閉店する書店で、老人が最後の一冊を買う話でしょうか」


「最後と決めつけるのは、久世さんと同じよ。私はまた本を買います」


「では、店がなくなっても本を買う老人の話です」


「老人は余計です」


「七十二歳は宣伝に使うなと言いましたが、事実まで消せとは言っていません」


「相変わらず、口が達者ね」


 澪はミルクティーを混ぜる手を止め、鞄から『窓の向こうの娘』を取り出した。郁子が澪の母親を主人公にして書き、七つの結末を選べないまま残した原稿だった。文学資料館へ寄託せず手元へ置いた一冊を、今日は母親の命日に読もうと決めていた。


「結末は、まだ選ばないの?」


「はい。選ばないまま残すことも、私が決めた扱い方です」


「お母様に読ませたかったわね」


「それはできません。でも、母が読めなかったからといって、私まで読まない理由にはなりません」


「読んだあと、何をするの?」


「夕飯を作ります。年越しそばも買いました」


「それでいいの?」


「物語を読んだ日に、そばを食べてはいけませんか」


 千景は小倉トーストの端から、こぼれた餡を指ですくった。郁子なら紙ナプキンへ新しい台詞を書き始めたかもしれないが、今の千景は食べ終わるまで本を開かなかった。店を出るころには外が暗くなり、閉店を知らせる店内放送が地下通路までかすかに聞こえてきた。


 帰宅した千景は、買ったシナリオ集を六畳の和室の本棚へ置いた。本棚には空いている場所が多く、消えた千七百作品の題名を思い出すこともできない。窓辺には冬咲きのパンジーがあり、台所では昼に作った大根の味噌汁が冷えていた。


 千景は味噌汁を温め直し、年越しそばへねぎを多めに入れた。食後には、三つの記録媒体の日付を確認し、新しい原稿の保存先も確かめた。白い画面を開くと、今日買った本を机の右側へ置き、音声入力の印を押した。


「十二月三十一日、一軒の書店が閉店しました。七十二歳の女は、そこから一冊の本を買って帰りました」


 画面には「七十二歳の女」が「七十二冊の女」と表示された。千景は声を出して笑い、間違った部分を直した。本屋が一軒閉じても、郁子がいなくなっても、千景の中から文章を作る声までは消えなかった。


「店が閉まれば、棚はなくなります。本を持って帰る人がいれば、そこで読まれる場所が一つ増えます。だから私は、明日も続きを書きます」


 千景は文章を読み返し、三つの場所へ保存した。窓の外では除夜の鐘が鳴り始め、台所には、食べ終えたそばのつゆと刻んだねぎの匂いが残っていた。


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