おまけ 一千十四万円分の暮らし
おまけ 一千十四万円分の暮らし
千景が暮らす板橋区のアパートは、六畳の和室と六畳の台所がある一階の部屋だった。家賃は月六万五千円で、窓の外には三畳ほどの庭がついている。入居したころに植えた水仙は十三回目の冬を越し、今年も黄色い花を二つ咲かせていた。
ある朝、千景は家賃の領収書を古い菓子箱から出した。輪ゴムは伸び、最初の年の紙は端が茶色くなっている。数字を電卓へ一つずつ入れていると、遊びに来ていた澪が台所から顔を出した。
「何を計算しているんですか」
「ここへ住むのに払った家賃よ。六万五千円かける十二か月、かける十三年」
「一千十四万円です」
「一億を超えたと思ったのだけれど」
「ゼロが一つ多いです。一千十四万円ですよ」
「一千万円でも十分に大きいわ。更新料は入れていないもの」
更新は二年に一度で、そのたびに家賃一か月分を払ってきた。火災保険や保証会社の費用もあり、通帳の残高が減るたび、千景は台所の椅子へ座って封筒を数えた。十三年という時間は覚えていても、金額にすると、よその人の家が一軒建ちそうな数字になった。
「一千万円払っても、この部屋は私の物にならないのね」
「賃貸ですから」
「身も蓋もない言い方ね」
「でも、十三年間住む権利に払ったお金です。雨の日も、雪の日も、ここへ帰れたでしょう」
「お風呂が壊れた日は、帰りたくなかったわ」
「そういう日も含まれます」
千景は領収書を年ごとに並べた。最初の年には、まだ白かった畳の上で段ボール箱を開けた。三年目には台所の蛇口から水が漏れ、五年目には庭の物干し竿が台風で倒れ、八年目には冷蔵庫が真夏に動かなくなった。
「十年目は、何がありましたか」
「窓の鍵が閉まらなくなったわ」
「修理の話ばかりですね」
「暮らすというのは、壊れた物を直すことでもあるのよ」
「よい話にしようとしていませんか」
「その年は、炊飯器も壊れました」
「台無しです」
二人は昼に大根と油揚げの煮物を食べた。昨日作ったため味が染みすぎ、大根の端は箸で持つと崩れた。澪は薄いと言い、千景は濃すぎると言いながら、結局二人とも皿を空にした。
食後、千景は和室を見回した。柱には古いカレンダーを留めた画びょうの穴があり、畳には机と椅子の脚の跡が残っている。押し入れの襖には、運んだ本棚をぶつけた細い傷がついていた。
「この傷も、一千十四万円に入っているのかしら」
「修繕費を請求されるかもしれません」
「また身も蓋もないことを言うのね」
「千景さんが数字を間違えるからです」
「数字は間違えても、十三年は間違っていません」
十三年の間には、冷めた味噌汁を捨てた朝も、財布に五百円しか残らなかった夜もあった。千七百作品を書いた机も、作品が消えたことを知った画面も、この部屋にある。郁子の電話を受け、澪と初めて仕事の話をし、正式なシナリオライターの契約書を読み上げてもらったのも、同じ椅子に座っていたときだった。
「家賃は、部屋を借りるためのお金でしょう」
「そうね」
「でも、この部屋で書いた物は千景さんの物です」
「消えた物も多いけれどね」
「これからは保存します」
「三か所へね。あなたは私より念を押すようになりました」
「一千七百作品を消した人には、毎回言います」
千景は菓子箱へ領収書を戻した。古い物をすべて取っておけば、また部屋が狭くなるため、必要な年の分だけ残すことにした。それでも最初の一枚は捨てず、入居した日のことを書いた紙と一緒に透明な袋へ入れた。
庭へ出ると、洗濯物の間から水仙が見えた。千景の厚手の靴下と、澪が泊まったときに使った青いタオルが、冷たい風を受けて並んでいる。隣家から焼いた鯵の匂いが流れてきて、千景は今夜の献立をまだ決めていなかったことを思い出した。
「生きるって、すごいわね」
「家賃の金額を見たからですか」
「毎月払ったからよ。一度に一千十四万円を用意したわけではないもの」
「六万五千円ずつですね」
「ご飯も一膳ずつ食べて、洗濯物も一枚ずつ干した。物語も、一作ずつ書いたのよ」
「千景さんの場合、一作ずつが多すぎます」
「では、これからは一文ずつにします」
千景は部屋へ戻り、パソコンの白い画面を開いた。十三年分の暮らしを一度に書こうとすれば、何から始めればよいか分からなくなる。そこで、音声入力の印を押し、今朝見た水仙のことから話し始めた。
「家賃六万五千円の部屋に、十三年住んでいます。窓の外では、水仙が二つ咲いています」
画面には「水洗が二つ」と表示された。千景は水仙へ直し、次に大根の煮物と伸びた輪ゴムを書いた。十三年は一つの大きな数字ではなく、家賃を払い、食べ、眠り、何度も書き直した日々でできていた。
「一千十四万円分、生きたのね」
「まだ更新するのでしょう」
「そのつもりよ。次の領収書も、次の物語も増えますから」
澪が帰ったあと、千景は書いた文章を三か所へ保存した。台所には煮物の醤油の匂いが残り、庭では乾ききらない靴下が揺れている。千景はその一つずつを、今日も自分の言葉で記録した。




