十三年分の言葉
十三年分の言葉
十三年という数字を紙へ書いたあと、千景はしばらく鉛筆を置けなかった。小学一年生だった子どもなら、もう大学一年生か二年生になるだけの時間である。窓辺の水仙には朝の雨粒が残り、石油ストーブの上では、昨夜の大根の煮物を入れた小鍋がことこと鳴っていた。
「子どもなら、平仮名を覚えて、漢字を覚えて、作文を書いて、入学試験まで受けるのね」
千景は十三年前に買った国語辞典を本棚から取り出した。赤い布張りの表紙は日に焼け、よく引いたページには付箋が重なっている。けれど千景は、自分の文章力や語彙力が、その辞典の厚さほど増えたとは思えなかった。
千景が最初に書いたころの作品は、ほとんど残っていない。消えた千七百作品の題名さえ、すべては思い出せなかった。それでも郁子へメールで送った短い物語が一作だけ、古い受信箱の添付ファイルに残っていた。
「王子はとても怒りました。姫はとても驚きました。そして二人は、とても困りました」
読み上げソフトの声が、同じ調子で三度「とても」と読んだ。千景は灰色の部屋着の膝を払い、台所へ逃げるように立った。小鍋の蓋を開けると、大根は煮崩れ、汁は昨日より濃くなっていた。
「十三年も書いて、まだ『とても』を使っているわ」
ちょうど訪ねてきた澪が、買い物袋を台所へ置いた。袋からは長ねぎ、豆腐、特売の鶏肉が出てきたが、その底には苺のパックも入っていた。千景が高かったでしょうと言うと、澪は形の悪い物だけが入った見切り品だと答えた。
「『とても』を使ってはいけないのですか」
「同じ段落で三回は多いでしょう」
「今なら、どう書きますか」
「王子は手袋を外せず、指を何度も曲げる。姫は冷めた紅茶へ砂糖を二つ入れ、飲まないまま帰る。困ったとは書かないわね」
「増えています」
「言葉が?」
「手袋と紅茶と砂糖が増えています」
澪は苺をざるへ移し、蛇口の水を細く出した。一粒だけ白い傷があったため、その苺を自分の皿へよける。千景は大きくて赤い苺を客へ出そうとしたが、澪は自分も見切り品を食べると言って皿を戻した。
「文章力は身についたと思います」
「気を遣っている?」
「昔の文章には、王子と姫しかいません。今は、その人が何を食べ、どんな服を着て、どこへ帰るのかが分かります」
「その分、長くなったわ」
「ええ。千景さんは大根を出すと、切るところから煮崩れるまで書きます」
「生活には時間がかかるもの」
「読む人にも時間があります」
「そこが難しいのよね」
二人は和室へ戻り、千景の新しい原稿を開いた。主人公が朝食を作る場面には、焦げたパン、瓶の底に残った蜂蜜、洗わずに置かれた小皿が書かれていた。澪は蜂蜜を残し、小皿を削り、焦げたパンだけを残すよう提案した。
「全部あったことなのよ」
「日記なら全部残せます。でも、小説では、どれを見せるか選びます」
「捨てるのではなく、選ぶのね」
「郁子の原稿を整理したときと同じです。大事な物でも、一度に全部は渡せません」
「十三年書いて、まだ削られるのね」
「十三年食事を作っても、塩を入れすぎる日はあるでしょう」
「今日の大根のことを言っている?」
「かなり濃いです」
千景は小皿の一文を消した。文章が上手になったかどうかは、自分では測れなかった。知っている言葉は増えたが、覚えた言葉を全部使えばよいわけではなく、以前より迷う時間も長くなっていた。
そのとき、パソコンに新しい感想が届いた。読み上げソフトを動かすと、以前マルタのスープの場面を読んだ人からだった。その人は一周目では物語を急いで進めたが、母親の一周忌を終えた夜、もう一度ゲームを開いたという。
「二度目は、マルタの家へ寄りました。欠けたカップも、乾かないシャツも、最初に読んだときとは違って見えました。スープの場面だけ、もう一度読みました」
千景は画面へ顔を近づけた。読者は文章力が上がったとも、語彙が豊かだとも書いていない。ただ、もう一度読んだと書いていた。澪は黙って苺のへたを取り、千景の前へ一粒置いた。
「これで、答えになりましたか」
「一人だけよ」
「一人では足りませんか」
「いいえ。一人が二度読んだなら、二回読まれたことになるわ」
「その数え方は、少し都合がよすぎます」
「三件の感想を三件と数えたのは、あなたでしょう」
「顔文字まで数えたのは千景さんです」
千景は苺を食べた。先端は甘かったが、へたの近くには酸味が残っている。甘いところだけで一粒の味にならないように、うまく書けなかった年月も、消えた作品も、今の一文につながっていた。
午後、雨が上がると、千景は庭へ洗濯物を出した。白いシャツの袖を伸ばし、靴下を一足ずつ洗濯ばさみへ留めた。十三年で文章がどれほど上達したかは分からなくても、この部屋で書くことをやめなかった日数だけは、誰にも減らせなかった。
「小学一年生なら、大学生になるのよね」
「大学へ行かない人もいます」
「また身も蓋もないことを言うのね」
「でも、十三年生きれば、誰でも同じ物が身につくわけではありません」
「そうね。私は計算を間違えたままだったわ」
「その代わり、冷めたスープを書くようになりました」
「役に立つかしら」
「もう一度読んだ人がいました」
千景は和室へ戻り、白い画面を開いた。うまく書こうとすると声が止まるため、まず今朝の水仙と、濃くなった大根のことを話した。そこから残す物を選び、要らない言葉を一つずつ消した。
「十三年書いても、物語の作り方はまだ分かりません。それでも、昨日より一つ多く迷い、一つ少なく言い訳して、今日の一文を書きます」
音声入力は「言い訳」を「いい焼け」と表示した。千景は笑いながら直し、三つの場所へ保存した。庭では、十三年前にはなかった水仙の花が、乾き始めた洗濯物の下で二つ並んでいた。




