第8話 七十二歳と相続を売らないで
第8話 七十二歳と相続を売らないで
四月に入った朝、千景は特売で買った食パンの端へ薄くマーガリンを塗っていた。窓辺の赤いパンジーは春の日差しを受けて鉢からはみ出し、隣に植えた青い勿忘草も小さな花を開いている。焼きすぎたパンの匂いが六畳の台所へ広がったころ、ゲーム会社から臨時会議の連絡が届いた。
「宣伝計画について、ぜひ千景さんにも参加していただきたいそうです」
電話をかけてきた澪の声は硬かった。千景が理由を尋ねても、資料を見てから話したほうがよいとしか答えない。千景は焦げた部分を包丁で削り、茶色いワンピースへ着替えて会社へ向かった。
会議室には、久世と佐倉律のほかに、宣伝担当の社員が二人座っていた。長机には桜餅と紙コップの緑茶が並び、空調から新しいフィルターの匂いがした。千景の席には、赤い文字で「奇跡の新人、七十二歳」と書かれた企画書が置かれていた。
「まず、こちらをご覧ください」
久世は壁の画面へ宣伝画像を映した。郁子の若いころの写真と千景のオンライン会議の画像が並び、その間には金色の文字が入っている。千景は眼鏡をかけ直し、澪に文字を読んでもらった。
「七十二歳の生活保護女性が、亡き天才作家の遺産を継ぐ。人生最後の挑戦が、名作ゲームを生んだ」
「最後とは、何が最後なのですか」
「人生最後という意味ではなく、強い表現として使っています」
「では、次も書いたら困りますね。最後ではなくなりますから」
宣伝担当の若い社員が、桜餅の葉を剥がす手を止めた。久世は笑って話を続けたが、千景は企画書の端を指で押さえた。年齢は応募作品へ添えたが、生活保護を受けていることまで宣伝へ使ってよいとは、一度も言っていなかった。
「生活保護という言葉を入れると、応援したいと思う人が増えます。そこからシナリオライターになったのですから、成功物語として申し分ありません」
「受けていることを隠すつもりはありません。でも、あなたに売った覚えもありません」
「千景さん個人を否定しているわけではありません。むしろ、多くの人へ勇気を与えられます」
「私の暮らしを見たことがありますか。六畳の部屋も、月末に残った小銭を数えるところも知らないでしょう」
「細部は宣伝に必要ありません」
「知らない人が細部を捨てて作った話を、私の人生と呼ばないでください」
久世はネクタイの結び目を直し、次の資料へ画面を切り替えた。今度は『水瀬郁子、最後の未発表作』という文字の下に、病室の窓辺へ立つ女性の絵が描かれている。澪の鞄には、郁子が澪の母親を主人公にして書いた『窓の向こうの娘』が入っていた。
「未完成原稿の一部を、ゲームへ取り入れます。水瀬郁子先生の遺作と発表すれば、古くからのファンにも届きます」
「誰が使用を許可したのですか」
「正式な契約はこれからです。ただ、会社としては早めに宣伝を始めたい」
「始められません」
「澪さん、作品を世に出すことは、お祖母様も望んでいたはずです」
「祖母が望んでいたと書かれた物はありますか」
「創作者なら、作品を読まれたいと思うのが普通でしょう」
「母へ謝れないまま書いた原稿です。話題になるからと、あなたが結末を決めないでください」
澪は鞄の留め金へ手を置いた。指先が白くなっていたが、原稿を取り出そうとはしなかった。千景は前回署名しかけた契約書を思い出し、机の下で両手を握ってから開いた。
「著作権は遺産の一部です。澪さんは代襲相続人として、私は包括受遺者として、それぞれ郁子さんの遺産を受け継ぐ立場です」
「ですから、お二人に契約をお願いしています」
「お願いの前に、もう宣伝画像を作っていますね」
「案を作ることまで許可が必要とは思いません」
「案の段階でも、お断りします。祖母の原稿も、私の年齢も、会社が拾った無料の宣伝材料ではありません」
会議室から空調の音だけが聞こえた。律は画面を消し、配られた企画書を裏返した。宣伝担当の社員は剥がしかけた桜餅の葉を元へ戻し、紙皿の上で形を整えていた。
「この宣伝案は撤回します」
「佐倉君、売上目標を考えているのか」
「考えています。ただし、許可を取っていない私生活と、利用契約のない原稿は使えません」
「話題を作れなければ、小さな会社のゲームは埋もれるんだぞ」
「作品の中身で話題を作るのが、私たちの仕事です」
千景は鞄から一枚の紙を取り出した。昨夜、澪に文字を確認してもらいながら作った要望書だった。そこには宣伝で使わない情報と、作品を紹介するときに守ってほしい条件が、大きな文字で短く書かれていた。
「もう一つ、お願いがあります」
「今度は何ですか」
「完成したゲームには、制作に関わった人全員の名前を出してください」
「スタッフ名は、最後に表示する予定です」
「郁子さんと私だけを大きくして、現在働いている人を小さくしないでください。澪さんも、佐倉さんも、絵を描いた人も、音を作った人も、同じ大きさです」
「宣伝では、有名な名前を目立たせるものです」
「亡くなった人と年寄りばかり目立たせて、今働いている人を隠すのですか」
宣伝担当の一人が、そっと顔を上げた。彼女の社員証には大庭と書かれていたが、企画書のどこにもその名前はない。千景が名前を尋ねると、大庭は背筋を伸ばして名乗った。
「この画像を作ったのは、大庭さんですか」
「はい。久世さんの指示で作りました」
「写真の切り抜きがきれいですね。でも、次は私に使ってよいか聞いてください」
「申し訳ありませんでした」
「謝るのは、指示を出した人でしょう」
澪がそう言うと、久世は口を閉じた。律は要望書を受け取り、全員の名前を同じ大きさで表示する案を検討すると答えた。千景は検討ではなく約束にしてほしいと言い、澪も隣で頷いた。
会議が終わると、千景と澪は会社近くの公園へ寄った。桜は散り始め、ベンチには薄桃色の花びらが積もっている。二人は会議室からもらってきた桜餅を一つずつ食べ、葉を食べるか残すかで意見が分かれた。
「私は葉も食べます」
「私は剥がすわ。塩味が強いもの」
「祖母は、葉だけ先に食べました」
「それは初めて聞いたわ」
千景は桜餅の葉を丁寧に剥がし、包み紙へ畳んだ。澪は自分の分を食べ終えると、鞄の中の未完成原稿を確かめた。二人はまだ郁子の遺産をどうするか決めていなかったが、他人に勝手な値札をつけさせないことだけは、同じ言葉で決めていた。




