第7話 未完成の原稿は財産ですか
第7話 未完成の原稿は財産ですか
郁子の家の押し入れを開けると、上の段から古い毛布と紙袋が落ちてきた。澪は紺色の作業着の肩へ積もった埃を払い、千景は花柄の割烹着で口元を覆った。庭では三月の木瓜が赤い花をつけていたが、閉め切った和室には湿った紙と防虫剤の匂いがこもっている。
「まだ奥に箱があります」
「これで二十七個目よ」
「三十まで番号が振ってあります」
「きりがいいところまで増やしたのね。郁子さんらしいわ」
二人は段ボール箱を一つずつ居間へ運んだ。完成したテレビドラマの台本、没になったゲームの企画書、スーパーの買い物メモ、知人から送られた小説への感想が、分けられずに詰め込まれている。封筒の裏には台詞が書かれ、台本の余白には「牛乳、卵、煎餅」と書かれていた。
「これは原稿ですか、買い物メモですか」
「両方でしょうね。煎餅の横で勇者が死んでいるもの」
「笑えません。何に価値があるのか分からないと、家を売る準備もできません」
澪はマスクの針金を鼻へ強く押しつけた。古い家は屋根の修理だけでも大きな金がかかり、固定資産税も払い続けなければならない。借金を返すには家を売り、原稿も必要な物だけ残すほうがよいと、澪は安西からもらった一覧表を机へ広げた。
「紙は湿気を吸います。保管場所を借りれば、毎月お金がかかります」
「分かっています。でも、読まずに捨てるのは待ってください」
「三十箱を全部読むつもりですか」
「残したいと言うなら、何を残すのか説明する責任があります。あなたに保管料だけ払わせるわけにはいきません」
「そこまで分かっているなら、最初から処分に同意してください」
千景は返事をせず、冷めた麦茶を飲んだ。コップの底には茶渋が輪になり、郁子が使っていた布巾は洗っても醤油の染みが落ちなかった。思い出だからという一言で、澪へ家や紙の負担を背負わせてはいけないと考え、千景は箱ごとの確認表を作ることにした。
二人は完成作品を青、未完成作品を黄、契約関係を赤、生活上の紙を白い付箋で分けた。千景が表紙と最初の数ページを読み、文字が詰まった部分は澪が声に出した。昼になると、千景は台所で乾麺をゆで、冷蔵庫に残っていた長ねぎを刻んだ。
「つゆが薄いです」
「郁子さんの醤油が切れていたのよ」
「買いに行けばよかったでしょう」
「今行ったら、あなたが原稿を捨てそうだったから」
「一冊も捨てていません」
「では、薄いつゆを我慢したかいがありました」
三日目の午後、澪が二十一番の箱から厚い紙束を取り出した。表紙には『窓の向こうの娘』と書かれ、その下に何度も消した跡があった。主人公は脚本家の母親を持つ女性で、病室の窓から、仕事へ戻る母親の背中を見送っていた。
「これ、母のことです」
澪の手が止まり、紙の端が小さく鳴った。作中の娘は三十五歳で、澪の母親が亡くなった年齢と同じだった。母親役の脚本家は見舞いへ行くたびに仕事の電話を受け、娘へ謝れないまま病院を出ていた。
「祖母は、あの日のことを知っていたんですか」
「知らなければ、ここまでは書けないでしょうね」
「だったら、どうして母に謝らなかったんですか」
「原稿なら何度でも書き直せます。でも、本人の前では、返事を聞かなければならないからかもしれません」
結末だけが七種類あった。母親が仕事を捨てて病室へ戻る話、娘が回復して母親を許す話、二人で海を見る話、母親が間に合わず空のベッドを見つめる話もある。どの紙にも大きな赤い字で「違う」と書かれ、最後まで完成したものは一つもなかった。
「おばあちゃんは、母を愛していたのですか?」
澪は膝の上へ原稿を置いた。窓から入った風で、乾かしていた布巾が台所の椅子から落ちたが、二人とも拾わなかった。千景は郁子の赤い鉛筆を手に取ったものの、原稿へ印をつけずに戻した。
「愛していたことと、母親として正しくできたことは別です。原稿は、その言い訳にはできません」
「愛していたなら、何をしてもいいとは思いません」
「ええ。謝りたかったと書けば、謝ったことになるわけでもありません」
「母は、この原稿を読んでいません」
「それも変えられません」
澪は七つの結末を順番にそろえた。祖母が娘を愛していたと認めれば、母親が待っていた時間まで軽くなるような気がした。しかし捨ててしまえば、郁子が言えなかった言葉も、自分が確かめる機会もなくなる。
「これは、いくらの価値がありますか」
「私には決められません。売れるかどうかも分かりません」
「では、財産ではないのですか」
「お金にならなくても、誰かが残す責任を引き受けるなら、残せます。ただし、何もかも同じにはできません」
「ずるい答えですね」
「七十二年も生きると、分からないことを分かったふりしなくなります」
澪は原稿へ黄色い付箋を貼った。処分の箱ではなく、確認を続ける棚へ置き、七つの結末を自分の鞄へ入れた。千景が理由を尋ねると、澪はマスクを外し、すっかり冷めた薄いつゆのそばを一口すすった。
「私が最後まで読みます。祖母を許すためではありません。母が見られなかったものを、私が自分で確かめます」
「結末を選ぶの?」
「まだ選びません。おばあちゃんが選べなかったことまで、私が急いで決める必要はないでしょう」
二人は夕方まで原稿を分けた。三十箱は二十八箱にしか減らなかったが、捨てる物、調べる物、残す物には、それぞれ理由が書かれた。帰る前、澪は庭に落ちていた木瓜の花を一輪拾い、『窓の向こうの娘』の表紙にはさまず、小さな空き瓶へ水と一緒に入れた。




