第6話 遺産には借金も入っています
第6話 遺産には借金も入っています
郁子の家へ入ると、閉め切った部屋に古い紙と白檀の匂いがこもっていた。居間のカレンダーは二月のままで、食卓には飲みかけの麦茶が入ったコップと、輪ゴムで留めた薬袋が残っている。千景は黒いカーディガンの袖で鼻を押さえ、澪は窓を開けながら庭の梅を見た。
「祖母は、冬でも窓を開けなかったんです」
「原稿が風で飛ぶからですって。換気より紙の順番を大事にする人でした」
「そういうことは、よく知っているんですね」
澪の言葉にはまだ硬いところがあった。千景は言い返さず、座布団に積もった煎餅の粉を手で払った。二人の前には弁護士の安西が持ってきた段ボール箱があり、中には通帳や納税通知書、修繕の見積書が詰め込まれていた。
「預金だけなら、分けるのも簡単だったのですが」
安西は畳の上へ書類を種類ごとに並べた。郁子の遺産には、この古い家と預金、過去に書いたドラマやゲームの著作権がある。しかし屋根と水道管の修繕費、未払いの税金、個人事業で借りた金も残っていた。
「借金まで、遺産なんですか」
「包括遺贈は、欲しい物だけを選ぶ制度ではありません。千景さんが二分の一を受け入れれば、負債についても、その割合に応じて責任を負う可能性があります」
「では、原稿だけいただいて、借金は遠慮しますというわけにはいかないのね」
「お茶菓子のようには選べません」
千景は膝の上で指を組み直した。台所には賞味期限の切れた卵が四つあり、冷蔵庫の野菜室では半分の大根が乾いていた。郁子が残した物は、赤い鉛筆や羊羹だけではないのだと、税金の督促状を見てようやく分かった。
「放棄することもできます。ただし、期限があります。それまでは、安易に預金を使ったり、家の物を売ったりしないでください」
「屋根から雨が漏れたら、どうすればいいんですか」
「保存のために必要な行為と、遺産を自分の物として処分する行為は分けて考えます。先に私へ連絡してください」
「何をするにも、聞かなければいけないのですね」
「今は、それが一番安全です」
澪は古い帳簿を開いた。郁子の字は後ろのページほど大きくなり、原稿料の横へ羊羹、電球、猫の餌と関係のない買い物まで書かれている。猫を飼っていなかったはずだと千景が言うと、澪は近所の野良猫へ毎朝餌を出していたと答えた。
「私の知らないことを、あなたが知っている。あなたの知らないことを、私も少しは知っているんですね」
「二人分を合わせても、郁子さん一人には足りないでしょうけどね」
「祖母なら、勝手に話を足すなと言いそうです」
「でも、自分の話は最後まで書かなかったわ」
午後になると、ゲーム会社の久世が郁子の家へ現れた。濃紺のスーツに赤いネクタイを締め、手土産として箱入りのカステラを持ってきたが、仏壇へ供える前に賞味期限を確認していた。久世は郁子の未発表作品をゲーム化したいと言い、鞄から契約書を取り出した。
「水瀬郁子先生の名前には価値があります。借金の整理にも現金が必要でしょう。弊社へ権利を譲っていただければ、すぐに支払えます」
「いくらですか」
「一括で三十万円です。完成していない原稿ですから、十分な金額ですよ」
久世は千景の前へ契約書と万年筆を置いた。文字は細かく、一枚の中に空白がほとんどない。千景が読み上げソフトを使いたいと言うと、久世は今日は確認だけでよいと笑いながら、署名欄を指で示した。
「難しいことは書いてありません。千景さんの持ち分を弊社へ譲るという契約です」
「でも、私は半分しか持っていないのでしょう」
「残りは後日、澪さんと相談します。まず千景さんが賛成してくだされば、話を進めやすい」
「今日、決めなければいけませんか」
「人気には時期があります。先生の訃報が知られている今を逃すと、価値が下がりますよ」
千景は早く借金を減らせるなら、そのほうが澪にも迷惑をかけないと思った。契約書を読めないと言えば、また仕事のできない年寄りだと思われるかもしれない。万年筆を持ち、自分の名前の最初の一画を書こうとしたとき、澪が契約書を引き抜いた。
「署名しないでください」
「でも、借金がありますから」
「だからこそ、分からない契約へ署名してはいけません」
「水瀬さん、これは千景さんの持ち分についての話です」
「祖母がこの人へ残したからといって、あなただけで決められる物ではありません。私も二分の一を受け継いでいます」
澪は立ったまま契約書を読み始めた。著作権だけでなく、翻案権、商品化権、続編を制作する権利まで会社へ渡す内容で、三十万円を受け取ったあとは追加報酬もない。さらに、郁子の名前を使った宣伝方法について、相続人側は口を出せないと書かれていた。
「これを難しいことは書いていないと言うんですか」
「業界では一般的な契約です」
「一般的なら、読ませなくてよいのですか」
「千景さんは納得されていました」
「読めない人へ、読めないまま署名させることを、納得とは言いません」
久世はカステラを仏壇へ置かず、そのまま持って帰った。玄関の戸が閉まると、畳の上には万年筆の青い染みだけが残った。千景は布巾を水で濡らして何度も押さえたが、染みは少し薄くなっただけだった。
「助けてくださって、ありがとう」
「あなたを助けたわけではありません。祖母の作品を三十万円で持っていかれたくなかっただけです」
「それでも、私一人なら署名していました」
「次からは、読めない契約書を渡されたら、持ち帰ってください」
「怒られませんか」
「怒る相手なら、なおさら署名してはいけません」
二人は台所から湯のみを持ってきて、安西が残していった帳簿を開いた。澪が金額を読み上げ、千景が用途ごとに色の違う付箋を貼った。外では梅の枝から雨粒が落ち、冷蔵庫から出した大根を入れた味噌汁が、小さな鍋で二人分だけ煮えていた。
「預金、家、著作権、借金。全部を調べてから決めましょう」
「あなたは、相続したいのですか」
「まだ分かりません。でも、知らないまま祖母を拒むのも、知らないまま許すのも嫌です」
「私も、借金が怖いから放棄するのか、原稿を残したいから引き受けるのか、まだ決められません」
二人は向かい合うのをやめ、同じ側へ座った。澪が帳簿の数字を指で追い、千景は読み上げてもらった項目を一つずつノートへ書いた。字は曲がっていたが、今度は誰にも隠さず、二人で同じ責任の中身を確かめていた。




