第5話 孫が母に代わって相続する
第5話 孫が母に代わって相続する
郁子の葬儀の日は、朝から細い雨が降っていた。寺の庭では白い沈丁花が濡れ、甘い香りが線香の煙に混じっている。千景は十年前に買った黒いワンピースを着ていたが、腹まわりがきつく、椅子へ座るたびに背中のファスナーが引っぱられた。
祭壇の中央には、七十代の郁子が笑っている写真が飾られていた。最後まで染めなかった白髪を後ろで束ね、首には赤いスカーフを巻いている。写真の前には羊羹と醤油煎餅が供えられ、その横に郁子が仕事で使っていた赤い鉛筆が一本置かれていた。
「食べかすを原稿へ落とす人に、ずいぶん上品な羊羹を選びましたね」
千景が小さく話しかけると、隣にいた澪が顔を向けた。澪は黒いパンツスーツを着ており、いつも会社で結んでいる髪を下ろしていた。目元は化粧で整えられていたが、右手は数珠の房を何度もねじっている。
「祖母は、羊羹が好きだったんですか」
「半分だけ食べて、残りを忘れることが多かったわ。だから私がいただきました」
「そういうこと、私は何も知りません」
澪は祭壇へ顔を戻した。受付では親族として「水瀬澪」と記されていたため、千景も郁子の孫だと知ってはいた。しかし、画面越しに働く新人ライターと、郁子が何度か口にした「あの子」が同じ人物だと、葬儀の席でようやく一つにつながった。
読経が終わると、住職が焼香の順番を告げた。親族席に座っているのは澪一人で、夫婦の位牌も、ほかの子どもの写真も見当たらない。千景は焼香を終えたあと、寺の控室で冷めた緑茶を両手に包み、澪が戻ってくるのを待った。
「郁子さんの娘さんは、あなたのお母様だったのね」
「十年前に亡くなりました」
「郁子さんから、病気だったとは聞いていました」
「だったら、見舞いへ行かなかったことも聞きましたか」
澪は紙コップの水に口をつけたが、飲まずに机へ戻した。母親が入院していたころ、郁子は連続ドラマの最終回を書いていたという。病室へ来たのは二度だけで、二度目には病室の隅で電話を受け、十分もたたずに帰った。
「母は、窓から祖母の背中を見ていました。点滴の管が引っかかるから、ベッドから降りるなと言われていたのに」
「郁子さんらしいとは、言えないわね」
「仕事しか大事にしなかった人です。葬儀に孫が一人しか来ないのも、自分で選んだ結果です」
千景は返す言葉を探したが、香典返しの袋に入っていた小さな砂糖菓子を指で押しただけだった。郁子に助けられた自分が、会えなかった十年を説明することはできない。寺の台所から味噌汁の匂いが流れてきても、二人とも用意された弁当の蓋を開けなかった。
葬儀から十二日後、二人は郁子が依頼していた弁護士の事務所へ呼ばれた。応接室の窓辺には黄色いフリージアが飾られ、暖房の風を受けるたびに細い葉が揺れていた。千景は紺色のカーディガンの袖へ指を隠し、澪は鞄から出したハンカチを膝の上で正方形に畳んでいる。
「最初に、相続関係をご説明します」
弁護士の安西は、家族関係を書いた紙を机へ置いた。郁子には一人娘がいたが、郁子より先に亡くなっている。そのため、娘の子である澪が母親に代わって郁子の相続人になると、安西は線を指でたどりながら説明した。
「これを代襲相続といいます。水瀬澪さんが、亡くなられたお母様に代わって相続することになります」
「私が祖母と会っていなくてもですか」
「疎遠だったことだけで、相続人ではなくなることはありません」
「勝手ですね。生きている間は会わなくても、死んだら家族に戻されるんですか」
安西はすぐに答えず、湯気の消えたコーヒーへミルクを入れた。千景の前にある紅茶も、とっくに薄い膜が張っている。法律は誰が病室へ来たかまでは数えないのだと、千景はカップの持ち手へ触れながら考えた。
「受け取るかどうかは、澪さんが決められます。ただし、遺言がありますので、まず内容を確認してください」
安西は公正証書遺言の写しを取り出した。紙の角はそろっており、郁子の机にあった煎餅の粉まみれの原稿とは違って、どこにも染みがない。千景は自分の名前が記されているとは思わず、読み上げられる声を聞きながら、フリージアの匂いが強すぎると考えていた。
「全財産の二分の一を、孫の水瀬澪に相続させる。残る二分の一を、三枝千景に包括して遺贈する」
澪の指から、畳んだハンカチが落ちた。千景も聞き間違いだと思い、安西の口元を見た。包括遺贈とは家や預金を一つずつ指定するのではなく、財産全体の一定割合をまとめて渡す方法だと説明されても、千景の頭には郁子の家に積まれた原稿しか浮かばなかった。
「二分の一というのは、何の二分の一ですか」
「預貯金、不動産、原稿の権利などを含む遺産全体です。ただし、借入金などがあれば、それも含めて整理する必要があります」
「私は受け取れません。郁子さんの家族ではありません」
「受け取るか、放棄するかは、確認のうえで決めていただけます」
「祖母は、どうしてこの人に半分も渡すんですか」
澪の声が高くなり、廊下を歩いていた事務員の足音が一度止まった。安西は遺言書のほかに、郁子が残した封筒を二通取り出した。一通には澪、もう一通には千景と、赤い鉛筆で名前が書かれていた。
「水瀬さんは、お二人に手紙も残しています。ただし、本日は遺言の説明が先です」
「手紙で何を書いても、母の病室へ来なかったことは変わりません」
澪は千景を見た。葬儀の日よりもきつく結ばれた唇に、口紅の細いひびが入っている。千景は説明を求められていると分かったが、自分も郁子から遺産の話を聞いたことはなかった。
「孫の私より、あなたのほうが祖母を理解していたというのですか?」
「いいえ」
千景が答えると、澪は目を細めた。千景は鞄から眼鏡ケースを出し、必要もないのに留め金を開けて、また閉じた。郁子が羊羹を半分残すことも、煎餅を原稿へ落とすことも知っていたが、それは人の一部を見ていただけだ。
「私は、郁子さんが見せてくれたところを知っていただけです。あなたが見た病室での背中を、私は知りません」
「それなのに、半分も受け取るんですか」
「まだ受け取るとは決めていません。ただ、分からないまま逃げるのも違うと思います」
「きれいなことを言わないでください」
「きれいではありません。借金もあるかもしれないと聞いて、今すぐ帰りたいと思っています」
安西が咳払いをし、千景は口を閉じた。澪は一瞬だけ千景を見たあと、落としたハンカチを拾った。窓の外では雨が上がり、濡れたフリージアの影が机の上へ細長く伸びていた。
「まず、郁子さんが何を残したのか、二人で確認していただきます。財産だけでなく、未払いの費用、契約、著作権に関する資料もあります」
「祖母の家へ、この人と一緒に入れということですか」
「お二人に関係する物が、同じ家に残されていますから」
澪は返事をせず、郁子からの封筒を鞄へ入れた。千景も自分宛ての封筒を受け取ったが、その場では開けなかった。赤い鉛筆で書かれた「千景」の二文字には、郁子がよく食べていた煎餅の油が、小さな丸い染みになって残っていた。




