第4話 冷めたスープを書く人
第4話 冷めたスープを書く人
二月の終わり、千景の家の台所には、昨夜煮た大根の匂いが残っていた。窓辺の赤いパンジーは、値下げ品だったとは思えないほど花を増やし、曇ったガラスへ花びらを押しつけている。千景は毛玉のついた灰色のカーディガンを羽織り、冷めたほうじ茶をすすりながら、パソコンに届いた新しい指示書を読み上げソフトへ入れた。
「冒険者ギルドの食堂で働く老女、マルタ。数年前に息子を亡くした、優しい女性。主人公へスープを一杯サービスする」
説明はそれだけで、マルタが何歳なのか、どこで眠り、誰と食卓を囲むのかも書かれていなかった。千景はキーボードの上で指を止め、流しに置いた鍋を見た。大根は一人分だけ煮ると味が落ち着かないので、千景もつい三日分を作ってしまう。
「優しい老女というのは、何を食べて、何を洗って、夜は何時に寝る人なんでしょうね」
オンライン会議の画面で、佐倉律は黒いパーカーの袖をまくり、顎へ手を当てた。澪は白いブラウスに紺色のベストを重ね、コンビニのおにぎりを机の端へ隠そうとしていたが、包装を開く音までマイクが拾っている。千景がマルタの暮らしを書きたいと説明すると、澪は梅干しのおにぎりを持ったまま眉を寄せた。
「その人は脇役です。登場するのは三分くらいですよ」
「三分でも、その前に七十年くらい生きているでしょう」
「全部は画面に出せません」
「全部を書く必要はありません。でも、書いた人が知らなければ、置く物を選べません」
千景はそう答えてから、自分の言い方が頑固に聞こえなかったかと考え、カップの縁を親指で二度なぞった。以前なら相手の顔色を見て、すぐに案を引っ込めていただろう。しかし百二十ページの仕様書を分けてもらったことで、読めない部分を黙って抱えるより、必要なことを口にしたほうが仕事は早く進むと知った。
「五分だけ長く書いてみてください。長ければ、あとで削ります」
律の言葉を聞き、千景は背もたれから体を起こした。澪は何も言わず、おにぎりの包装を小さな三角に畳んでいる。久世は会議へ参加していなかったので、千景は今のうちに形にしようと思い、音声入力の赤い印を押した。
マルタは毎朝、ギルドの裏口から食堂へ入る。茶色の仕事着へ着替えると、玉ねぎを四つ、じゃがいもを六つ、にんじんを二本切り、大鍋へ放り込む。大勢へ食べさせるスープなら目分量で作れるのに、自宅では一人分の量が分からず、毎晩二人分を煮てしまう。
「今日こそ半分にしなくちゃね」
そう言って小鍋を出すのだが、水を入れるときには、いつもの癖で二杯注ぐ。木の食卓には、取っ手の欠けた青いカップが置かれたままになっている。息子が十六歳のときに落とした物で、欠けたところへ唇を当てなければ、まだ使える。
「捨てたら棚が広くなるんだけどねえ」
マルタは毎朝そう言い、カップの内側にたまった埃を布で拭く。庭の物干し竿には、雨に濡れた男物のシャツが一枚だけ掛かっている。洗濯したのではなく、箪笥から出して風を通しただけなのだが、冬の日差しでは夕方になっても袖口が乾かなかった。
千景はそこで音声入力を止め、台所から半分残った大根を持ってきた。切り口は薄い黄色に変わり、冷蔵庫の匂いが染みついている。マルタの冷蔵箱にも半分の大根を入れ、葉の萎れた部分だけを刻んでスープへ足すことにした。
「腐らせるくらいなら、最初から買わなければいいのにね」
食堂の常連にそう言われると、マルタは大根の葉を刻む手を止める。息子がいたころは一本では三日も持たなかったので、半分だけ買う習慣がなかった。マルタは包丁についた葉を指で落とし、鍋の蓋を少しずらす。
「そうだねえ。次は、半分だけ買うよ」
けれど翌週も、マルタは一本買う。主人公へ差し出すスープは、その余った大根と、少し芽の出たじゃがいもで作ったものだった。豪華な料理ではないが、マルタは青いカップではなく、ひびのない白い器を選んで主人公の前へ置く。
「冷める前にお食べ。帰るところがあるなら、お腹を空かせて帰っちゃいけないよ」
書き上げた場面は、予定より四分長くなった。千景は削られるだろうと思いながら提出し、その日の昼には、焦げた餅へ醤油をつけて食べた。海苔が歯に張りついたので鏡を見ていると、夕方になって澪から電話がかかってきた。
「社内テストの結果が出ました。マルタの場面、飛ばさずに読んだ人が多かったです」
「スープがおいしそうだったからでしょうか」
「グラフィックはまだ仮画像です。鍋なんて、灰色の四角ですよ」
「では、大根のおかげね」
「どうしても大根の手柄にしたいんですか」
澪の声には、紙をめくる音が混じっていた。テスト担当者の感想には、母親の家を思い出した、欠けたカップを捨てられない理由が分かる、マルタにまた会いたい、と書かれていた。千景は餅の皿へ落ちた海苔を指先で拾い、食べてもよいものか少し迷った。
「私、生活描写は長いだけだと思っていました」
「長くしたいわけではないのよ。人がそこに住んでいたと分かる物を、一つ置きたいだけ」
「一つではありません。カップも洗濯物も大根も置いてあります」
「欲張ってしまったわね」
「今回は、そのままでいいそうです。佐倉さんが、マルタの再登場を検討すると言っていました」
千景は礼を言い、電話を切ってから、赤いパンジーへ水をやった。鉢皿からあふれた水が窓枠へ流れたので、古い布巾で何度も拭いた。郁子ならマルタの場面をどう読むだろうと思い、印刷した原稿を紙袋へ入れると、千景は焦げ茶色のコートを着て家を出た。
郁子の家までは歩いて五分もかからない。道端には黄色い福寿草が咲き始めていたが、その夜は北風が強く、花は地面へ顔を伏せていた。門の前まで来た千景は、いつもなら聞こえるテレビの音がしないことに気づき、冷たい呼び鈴を二度押した。
「郁子さん、千景です。大根の出てくる話を持ってきました」
返事はなく、玄関脇の台所にも明かりがついていなかった。千景は紙袋を抱え直し、もう一度呼び鈴を押した。鍵が開いていることに気づいたとき、指先についたパンジーの土が、白いボタンへ細く残った。
「郁子さん、入りますよ」
廊下には、いつもの白檀の香りと、煮出しすぎた紅茶の匂いが混じっていた。居間の机には赤い校正鉛筆、開いたままの大学ノート、端の丸まった台本が積まれている。その横には羊羹が半分だけ残され、楊枝が小皿の外へ落ちていた。
郁子は机と本棚の間に倒れていた。深緑色のカーディガンの裾がめくれ、片方の靴下だけが脱げている。千景は紙袋を床へ置き、膝をつくと、郁子の鼻先へ手を近づけた。
「郁子さん。聞こえますか。目を開けてください」
かすかな息が指へ触れた。千景は固定電話へ走り、受話器を二度取り落としながら救急を呼んだ。住所を告げる途中で言葉が詰まったが、机の上にあった年賀状を引き寄せ、一文字ずつ読み上げた。
「八十二歳の女性です。呼びかけても返事がありません。でも、息はあります。お願いします。早く来てください」
電話を切ったあと、千景は郁子の体へ毛布を掛けた。未完成のシナリオには、途中まで書かれた会話のあとに、赤い線だけが一本引かれている。千景はその紙へ触れず、羊羹の乾きかけた切り口を見ながら、救急車の音を待った。
遠くでサイレンが鳴り始めると、郁子のまぶたがわずかに動いた。千景は冷えた手を両手で包み、耳元へ顔を近づけた。今日認められたことも、マルタが再登場するかもしれないことも、今は順番をつけて話せなかった。
「原稿を持ってきました。まだ読んでもらっていませんからね。羊羹の残りもあります。勝手に終わりにしないでください、郁子さん」




