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第3話 仕様書が読めません

第3話 仕様書が読めません


試用契約を結んだ翌週、千景のパソコンへ最初の仕事が届いた。新作ゲーム『星降る王国の旅人』の人物設定、世界地図、過去の事件、魔法の規則をまとめた仕様書だった。全部で百二十ページあり、画面には小さな文字が隙間なく並んでいた。千景は薄い黄色のブラウスに紺色の綿パンをはき、机の横へ麦茶と小さな羊羹を用意して読み始めた。


最初の十ページには、王国が建てられた年代と、三代にわたる国王の名前が書かれていた。十五ページ目には騎士団、二十三ページ目には魔法学校、三十八ページ目には敵国の人物が、説明もなく次々に加わった。千景は登場人物の名前を紙へ書いたが、同じ名前を二度書き、別人だと思って丸で囲んだ。机の上には書き損じた紙と羊羹の包みが重なり、麦茶の水滴が仕様書を写したメモへ丸い染みを作った。


「王太子の婚約者がフィオナで、敵国の王女もフィオナなの? 同じ人なのか、名前が重なったのか、どこに書いてあるのよ」


千景は読み上げソフトを起動した。機械の声は句読点のない表を一列につなげ、人物名と年齢と所属を区別せずに読み続けた。三十二ページ目に入ったところで、音声が突然止まった。再生ボタンを押し直すと最初へ戻り、また国王の名前から読み始めた。


千景は開始位置を変えようとして、誤って仕様書を閉じた。保存するかと表示されたため、何も書き加えていないのに保存を選んだ。次に開いたときには表示が九十六ページ目へ飛び、知らない老人が城の地下で死ぬ場面から始まった。千景は眼鏡を外し、鼻の付け根を指で押さえた。


昼を過ぎても、担当場面へたどり着けなかった。朝に焼いたサバは皿の上で冷え、脂が白く固まっている。味噌汁のワカメは椀の底へ沈み、表面には薄い膜が張っていた。千景はサバを一口食べたが、仕様書の続きを考えているうちに骨まで噛み、慌ててティッシュへ吐き出した。


「百二十ページが読めないなら、仕事なんて引き受けなければよかったのかしら。でも、読めないまま分かったふりをするほうが、もっと迷惑よね」


午後のオンライン会議には、律、久世、澪が参加した。律の後ろには空の栄養飲料が一本増え、久世は濃い灰色のスーツを着ていた。澪の机には付箋を貼った仕様書が置かれ、色別にきれいに整理されている。千景は自分の机に積もった紙が映らないよう、カメラを少し上へ向けた。


「三枝さん、最初のシナリオは五日後が締め切りです。仕様書を読んで、疑問点はありましたか?」


「疑問点以前に、百二十ページを最後まで読めませんでした。読み上げソフトも三十二ページで止まります。資料を章ごとに分けていただけませんか」


「仕事を始める前に、仕様書を読めないと言われても困ります。シナリオライターは設定を理解したうえで書く仕事です。読めない人間に、シナリオは書けませんよ」


久世の声がスピーカーから流れると、千景は膝の上で両手を組んだ。子どもの頃、教科書を何度読んでも内容が頭に残らず、教師から声を出して百回読めと言われたことを思い出した。読めないと説明するほど、努力が足りないと言われた。千景は机の端へ置いた羊羹を見たが、封を切る気にはならなかった。


「文字を読んでいないとは言っていません。長い資料の中から必要な情報を探し、順番を整理することが難しいのです。人物ごとに分けて、見出しへ色をつけてください。重要な変更は、短い音声でも共有してほしいです」


「一人の試用ライターのために、百二十ページを作り直すのですか。ほかの社員は、この形式で問題なく仕事をしています」


「では、作り直す必要がないか確認しましょう。亡くなった人物と生きている人物を、今ここで全員説明できますか。私は九十六ページで老人が死ぬことを知りましたが、その老人が前のどこに出ていたのか分かりませんでした」


久世は仕様書を開いたが、すぐには答えなかった。律は人物設定を章ごとに分ける作業なら、自分と澪で一時間ほどでできると提案した。千景専用の資料にせず、今後参加する声優や外部スタッフにも共有できる形にするという。久世は唇を結んだ後、今回だけ試すことを認めた。


澪は画面の向こうで、付箋を指先ではがしていた。自分は一日で読めたため、千景の要求を大げさだと思っているようだった。それでも律から作業を頼まれると、登場人物を王族、騎士、魔法使い、敵国の者に分けた。千景は、それぞれ青、赤、緑、紫の見出しをつけてほしいと頼んだ。


「色まで指定する必要がありますか? 役職を読めば、どの立場の人物か分かります」


「名前だけでは、途中で誰の話をしているのか見失うの。色があれば、王族の青から敵国の紫へ話が移ったと分かります。澪さんには必要がなくても、私には必要です」


「分かりました。ただし、色だけに頼ると白黒で印刷したときに区別できません。見出しの形も変えます」


「それは助かるわ。私には考えつかなかった。お願いします」


その日の夕方、分割された資料が届いた。王族十二ページ、騎士団十八ページ、魔法学校十五ページというように、ファイルが分かれている。人物ごとに顔写真、年齢、関係する事件も一枚へまとめられていた。千景は読み上げソフトで王族の資料を聞き、初めて王太子の婚約者と敵国の王女が同じ名前であることを確認できた。


翌朝、澪から律へ連絡が入った。人物別に資料を整理していたところ、九十六ページで死亡した宮廷魔術師が、百十四ページの祝宴で主人公と会話していた。死亡後に生き返る設定も、幽霊として現れる説明もない。単純な修正漏れだった。


緊急のオンライン会議が開かれた。澪は二つの場面を並べ、同じ人物の名前へ赤い線を引いた。久世は、祝宴にいる魔術師を別人へ変更すれば済むと言った。しかし、その魔術師は主人公へ重要な秘密を告げる役目を持っていたため、名前だけを変えることはできなかった。


「三枝さんが資料を分けてほしいと言わなければ、気づかないまま収録へ進んでいました。亡くなった人物の台詞を、声優へ渡すところでした」


澪が報告すると、律は百二十ページすべてを再確認することにした。久世は、今回の誤りと資料形式は別の問題だと言ったが、反対する社員はいなかった。千景は画面の前で、冷めた麦茶を一口飲んだ。自分だけが読めないのではなく、読める人も見落とす資料だったことが分かった。


「久世さん、私は仕事を減らしてほしいのではありません。間違えないで働ける形にしてほしいのです。今回のような矛盾を見つけるためにも、資料を整理する時間は必要だと思います」


「分かりました。今後の仕様書も、章ごとに分けます。ただし、三枝さんにも期限は守っていただきます」


「はい。できないときは、締め切りを過ぎてからではなく、先に相談します」


千景が担当する場面の締め切りは、二日延びた。彼女は資料を一つずつ音声で聞き、主人公と老女が初めて会う食堂の場面を書いた。老女は鍋の底に残った一人分のスープを見ながら、亡くなった息子の器まで食卓へ出してしまう。主人公が器を片づけようとすると、老女は触らないでくれと止める場面だった。


書き上げた原稿を郁子へ見せると、彼女は醤油煎餅をかじりながら読んだ。今日は灰色のブラウスに赤茶色のベストを重ね、膝へ薄い毛布を掛けている。窓辺の赤いパンジーは新しい鉢へ植え替えられ、湿った土から細い茎を立てていた。郁子が原稿をめくったとき、かじりかけの煎餅が指から滑った。


煎餅は、老女が息子の器を守る場面へ落ちた。表面の醤油と細かな欠片が、印刷した文字へついている。千景が声を上げると、郁子はティッシュで欠片を集めたが、丸い油染みは残った。千景は原稿を取り替えようとしたが、郁子が止めた。


「このままでいいわ。食堂の場面に食べ物の染みがついたのだから、似合っているでしょう」


「提出する原稿ではないからいいけれど、私が読めないと言った場面へ煎餅を落とさなくてもいいでしょう。百二十ページを読むのに、どれだけ苦労したと思っているの」


「全部読めなかったから、分けてもらったのでしょう。それで、会社の人たちにも見えなかった間違いが見つかった。読めないことと、物語が作れないことを、同じ箱に入れてはいけないわ」


郁子は煎餅の残りを口へ入れ、老女の台詞を声に出して読んだ。途中で一度咳き込み、千景が麦茶を渡した。郁子は大丈夫だと言ったが、しばらく胸元を押さえていた。千景は気になったものの、本人が話を続けたため、それ以上尋ねなかった。


夕方、郁子が帰ると、千景は仕様書の保存場所を紙へ書いた。青は王族、赤は騎士、緑は魔法使い、紫は敵国と、大きな文字で並べる。その下へ、宮廷魔術師は九十六ページで死亡と書き、二重線を引いた。赤いパンジーには水をやりすぎないよう、今日は土へ触れるだけにした。


食卓には、郁子が残していった醤油煎餅が二枚あった。千景は一枚だけ食べ、もう一枚を明日の分として缶へ戻した。油染みのついた原稿は捨てず、パソコンの横へ置いた。文字の一部は読みにくくなっていたが、その場面を書いたのが自分だということは、読み返さなくても分かっていた。


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