第2話 Alice72は二十七歳ではありません
第2話 Alice72は二十七歳ではありません
応募から二週間が過ぎても、ゲーム会社から連絡はなかった。千景は六畳の和室で、残っていた十七作品を一日一作ずつ保存し直していた。灰色のTシャツの上へ薄い水色のカーディガンを羽織り、足元には片方だけ裏返った靴下を履いている。窓辺の赤いペチュニアは二輪の花を落とし、鉢の周りには乾いた花びらが散っていた。
昼食には、昨夜の五目炊き込みご飯を茶碗へ半分だけ盛った。冷蔵庫から出したままなので米は硬く、油揚げの端も冷たい。千景は温めようと思ったが、電子レンジの中には昨日洗った布巾を乾かすために入れたままになっていた。布巾を取り出したところで、パソコンから新着メールを知らせる音が鳴った。
「また通信会社の宣伝でしょう。今月はもう、回線を速くしなくていいからね」
独り言を言いながらメールを開くと、件名には「シナリオコンテスト選考結果」と書かれていた。千景は自分で読む前に、読み上げソフトのボタンを押した。機械の声は会社名を一度読み間違えた後、「最優秀賞に選出いたしました」と続けた。千景は途中で再生を止め、最初からもう一度聞いた。
三度聞いても、最優秀賞という言葉は変わらなかった。賞金は五千円で、作品を新作ゲームへ採用する可能性があるため、オンライン会議に参加してほしいと書かれている。候補日時は明日の午前十時だった。千景は冷たい炊き込みご飯を口へ入れたまま、郁子へ電話をかけた。
「郁子さん、最優秀賞ですって。五千円もらえるらしいの。でも、オンライン会議をしろと書いてあるわ」
「最優秀賞なのに五千円だけなの? 小さい会社とは聞いていたけれど、本当に小さいのね。それで、会議の何が問題なの?」
「顔を出さなければ駄目かしら。画面に映ると、部屋まで見えるでしょう。洗濯物も原稿も、まだ床へ出したままよ」
「顔より、後ろの洗濯物を気にするのね。明日の朝、片づけに行くわ。私が床の物を右へ寄せるから、あなたは左へ積んでちょうだい」
翌朝、郁子は九時前に千景の部屋へ来た。白いブラウスに薄紫色のベストを重ね、杖の先には昨日と同じ黄色い覆いをつけている。紙袋には卵サンドイッチと、小さな水筒へ入れた紅茶があった。朝食を抜いて会議中に腹を鳴らすなという理由だった。
二人はパソコンの後ろに映る洗濯物を外し、床の原稿を菓子箱へ入れた。押し入れへ全部押し込もうとすると、冬用の毛布が崩れてきたため、画面に映らない右側へ積み直した。千景は花柄のブラウスへ着替え、白髪を後ろで結んだ。口紅は見つからなかったので、郁子が持っていた薄い桃色を借りた。
「こんな派手な色、似合わないわ。七十二歳が塗ったら、口だけ若く見えるじゃない」
「薄く塗れば分かりません。それより、ブラウスの襟が片方だけ内側へ入っている。画面に映るのは上半身だけなのだから、そこは直しなさい」
「下は部屋着のズボンでも大丈夫よね。立たなければ見えないでしょう?」
「立つ用事を作らなければ大丈夫です。お茶も眼鏡も、先に机へ置いておきなさい」
午前十時になると、画面に四人の顔が現れた。中央にいるのは、ゲーム開発会社「トリノス」のディレクター、佐倉律だった。三十二歳で、白いシャツの袖を肘までまくり、背後の棚にはゲームソフトと空の栄養飲料が並んでいる。隣にはプロデューサーの久世孝臣と、二人の若い社員が座っていた。
「Alice72さん、本日はありがとうございます。カメラと音声はつながっていますか? こちらの声は聞こえますでしょうか」
「聞こえています。ただ、皆さんのお名前を一度に覚えられないので、画面の下へ表示していただけますか。眼鏡をかけても、小さい文字は読みにくいんです」
「もちろんです。少々お待ちください。それでは、Alice72さんのお顔も映していただけますか?」
千景がカメラのボタンを押すと、四人の動きが止まった。律は口を開いたまま瞬きをし、久世は手元の応募資料を裏返した。若い女性社員は、別の人が映ったのではないかと画面をのぞき込んだ。千景は自分の後ろに郁子が映り込んでいるのかと思い、振り返った。
「何かおかしいでしょうか。頭の上へ洗濯物でも残っていますか?」
「いえ、失礼しました。Alice72というお名前から、二十七歳くらいの方だと思い込んでいました。数字を反対にしたペンネームなのかと」
「反対にはしていません。七十二歳だからAlice72です。ゲームでは年齢を言うと、レベルと間違えられますけれど」
「では、こちらの応募作品をお書きになったのは、本当に三枝千景さんご本人ですか? ご家族や、そちらにいらっしゃる方が手伝った可能性はありませんか」
久世が尋ねると、千景の手が机の下で止まった。応募原稿には音声入力の誤変換がいくつもあり、最後の十二分で郁子に誤字を確認してもらっている。それを共作と呼ぶのか、自分には分からなかった。千景は借りた口紅がカップへつかないよう、先に紅茶を一口飲んだ。
「文章を作ったのは私です。誤字は水瀬郁子さんに見てもらいました。私は文字を目で追うことが難しいので、音声入力と読み上げを使っています。それが応募条件に反するなら、賞は辞退します」
「音声入力の使用は禁止していません。誤字の確認を受けることも問題ありません。久世さん、年齢と制作方法は、作品の選考結果とは関係がないはずです」
律がそう言うと、久世は確認しただけだと答えた。しかし応募作品をゲームへ入れるには、ほかの人物に合わせて台詞を直す必要があるという。本人が書いた証明にもなるため、この場で短い修正をしてほしいと求められた。律は断っても受賞を取り消さないと付け加えた。
画面に、応募作の一場面が表示された。怪盗だった母親が、盗んだコートをなくした息子へ謝る場面である。現在の台詞は六歳の息子へ向けたものだった。それを、成人した息子へ話す場面に変更するという課題だった。
千景はすぐに答えず、卵サンドイッチの包みを指で押さえた。六歳の子どもなら、母親の説明をそのまま信じるかもしれない。成人した息子なら、謝罪の中へ言い訳が混ざっていないかを見抜く。許してもらうことを前提にした台詞では、嘘を重ねることになると考えた。
「お母さんは、あなたを喜ばせたかった。だから盗んだ。あの頃は貧しくて、ほかに方法がなかった――では駄目ですね。これでは母親が、自分を許してもらうために事情を並べています」
「では、どう直しますか? 画面に入力しなくても、口頭で構いません」
「『あなたが喜んだから盗んだのではない。盗んだのは、お母さんがそうすると決めたから。あなたに嘘をつき、盗品を大切にさせた。ごめんなさい』。息子はすぐに許さず、『今さら言われても困る』と答えます」
画面の向こうで、若い女性社員がペンを止めた。律は千景の台詞を自分の資料へ書き込み、久世は腕を組んだまま黙っていた。もう一人の男性社員が、母親は救われないまま場面が終わるのかと尋ねた。千景は、謝罪した人が必ずその場で救われる必要はないと答えた。
「息子が許すかどうかは、息子の話です。母親は、許されなくても盗んだ物を返し続ける。それが次の場面になります」
「分かりました。私たちが選んだ作品を書いたのは、間違いなく三枝さんです。改めて、最優秀賞の受賞をお祝いします」
律は三か月の試用契約を提案した。週に一本、短いシナリオを提出し、報酬は一本ごとに支払う。会議はオンラインで行い、資料は事前に送るという内容だった。千景はその場で承諾せず、契約書を音声で確認できる形にしてほしいと頼んだ。
「私一人では、長い契約書を正確に読めません。家族か郁子さんにも確認してもらいます。それから、分からない言葉は質問します。返事は明日まで待ってください」
「もちろんです。即答を求める契約ではありません。読み上げ用の文書と、要点を分けた資料を用意します」
会議が終わりかけたとき、若い女性社員が遠慮がちに手を挙げた。画面の下には、水瀬澪と名前が表示されている。二十六歳の新人シナリオライターで、黒い髪を肩まで伸ばし、紺色のシャツを着ていた。澪は千景の背後へ視線を向けた。
「先ほど、水瀬郁子さんとおっしゃいましたか。そこにいる方のお名前は、水瀬郁子で間違いありませんか?」
郁子は画面へ近づいた。千景の椅子の後ろから顔を出すと、口紅が少し濃すぎると言っていたときの表情が消えた。澪も背筋を伸ばし、手に持っていたペンを机へ置いた。二人はしばらく互いの顔を見ていた。
「澪なの? 髪が長くなったから、すぐに分からなかったわ」
「祖母こそ、どうして三枝さんの家にいるの? この会社のコンテストを教えたのも、祖母なの?」
「ええ。応募したのは千景さんだけれど。あなたがここで働いているとは知らなかったわ」
澪は、そうですかとだけ答えた。母親が亡くなってから十年、郁子とはほとんど会っていないという。正月に届く年賀状へ返事をしたのも、最初の二年だけだった。久世が私的な話は後にするよう告げ、会議は終了した。
画面が暗くなると、郁子は千景の隣へ座った。卵サンドイッチは一切れ残り、パンの端が乾き始めている。千景は何を尋ねればよいか分からず、カップへ紅茶を足した。水筒の底に残っていた紅茶は、すでにぬるくなっていた。
「澪さんが、お孫さんなのね。どうして同じ会社にいると知らなかったの?」
「あの子がシナリオを書いていることは知っていた。でも、会社の名前までは聞いていなかったわ。娘が亡くなってから、私が何を言っても仕事の話に聞こえるらしいの」
「本当に仕事を優先したのではないの?」
「そうね。娘が入院したときも、締め切りを理由に病院へ行かなかった日がある。澪が忘れていなくても、責められないわ」
郁子は残っていたサンドイッチを紙へ包み直した。食べ物を残して帰ると千景が夕方まで机へ置いたままにするため、無理にでも食べるよう渡した。千景は澪との間へ入って取り持つとは言わなかった。家族だから仲直りするべきだという言葉も、喉へ浮かぶ前に飲み込んだ。
翌日、読み上げ用の契約書が届いた。千景は郁子と一緒に一項目ずつ確認し、分からない箇所を律へ質問した。作品の著作権、修正回数、報酬の支払日も確かめた後、三か月の試用契約へ署名した。文字は右へ少し傾いたが、自分の名前を最後まで書いた。
数日後、最優秀賞の五千円が振り込まれた。千景は通帳を記帳し、印字された数字を指でなぞった。七年間書いてきた作品から、初めて受け取ったまとまった報酬だった。銀行を出た後、駅前の園芸店へ寄った。
店先には季節を過ぎた赤いパンジーが並び、値札には五十円と書かれていた。花は片側へ傾き、鉢の土も白く乾いている。千景は一度店を通り過ぎたが、信号の前で立ち止まり、引き返した。五千円の中から五十円を払い、鉢を両手で抱えた。
帰宅すると、赤いパンジーをパソコンの横へ置いた。先にあったペチュニアは窓辺へ移し、落ちた花びらを指で拾った。食卓には朝の味噌汁が残り、表面に薄い膜が張っている。千景は鍋を火へかけ、試用契約でもらった最初の仕事の資料を開いた。
画面の隅には、Alice72と表示されていた。七十二という数字を、もう若く見せるために並べ替える必要はなかった。千景は赤いパンジーへ匙一杯の水をやり、音声入力のボタンを押した。




